Discoveryディスカバリー(2-4)
永遠はどこで
今まで、残念なことに「地獄」(火の池)と「ハデス」《よみ、黄泉、陰府(よみ)》は混同されてきました。「ハデス」は「地獄」の別名として説明されてきたのです。
しかし「地獄」はギリシャ語で「ゲヘナ」、「ハデス」はヘブル語で「シェオル」と分類されていますし、両者が別のものであることは、黙示録20章14節のことばからも明らかです。「それから死とハデスとは、火の池(地獄)に投げ込まれた」
世の終わりに「最後の審判」と呼ばれる神の裁判の法廷が開かれます。そのときハデスにいる死者たちはその法廷に出されて、神の裁判を受けます。それらは彼らの最終的な行き先を決定するためです。その後、空になったハデスは地獄(火の池)に捨てられるのです。
地獄とハデスはまったく別の場所なのです。ハデスは最後の審判の時までの一時的・中間的場所で、地獄は最後の審判で神に退けられた人々を収容する最終的な場所です。
地獄とハデスとの混同は、今日もまだ根強く残っています。例えばリビングバイブルでは「ラザロと金持ち」の話の中の金持ちは、「地獄」に行ったと訳されてしまっています(ルカ16:23)。しかし金持ちの行ったのは地獄ではなく、ハデスです。
ハデスは少なくとも2つ、あるいはいくつかの場所に分かれており、金持ちはそのうちの一番苦しみの多い場所にいました。しかしそこの苦しみでさえ、まだ会話が持てる程度であることを考えれば、地獄の苦しみよりはるかに軽いのです。
このラザロと金持ちの話は旧約の時代の話で、この時代の聖徒たちはみな、死後は天国ではなくハデスに下りました(参/創世記37:35)。例外はエノクとエリヤだけで、旧約時代、ハデスはすべての死者が行く場所だったのです。アブラハムやラザロがいたのは、ハデスの中の一区画「慰めの場所」でした。しかし、旧約の聖徒たちは今はハデスにいません。彼らはキリストの昇天の際、キリストに連れられて天国に引き上げられたのです(参エペソ4:8)。すでに十字架の贖いがなされたので、神を信じる彼らはもはやハデスにとどまっている必要がなくなったからです。
しかしキリストの昇天後、キリストにあって死んだものはみな、ハデスに行くことなく、直接天国に入っています(参/ヘブル12:22〜24)。あなたがクリスチャンなら、死後はハデスに行くことなく、天国に行きます。一方、未信者は死後はハデスに下ります。そして世の終わりの最後の審判の時まで、そこに留め置かれるのです。それは、そこで自分の人生を振り返る機会が与えられるためです。(参/※編集者注)
この金持ちも、そこで人生を振り返っています。そして今も地上にいる兄弟達のことを心配しています。たとえ兄弟たちが救われても、この金持ちには何の得もありません。にもかかわらず、彼は地上の兄弟たちに思いやりを示しています。彼は愛に目覚めているのです。(参/ルカ16:27,28)。
ここにハデスと地獄の違いがあります。地獄にはもはや苦しみしかなく、人間の正常な知情意は失われてしまいます。ですからそこではもう、悔い改めるチャンスもないのです。しかしハデスはたとえ苦しみの場所であっても、人間の魂の正常な営みがあります。「たとい、…私が黄泉(ハデス)に床を設けても、そこにあなたはおられます」(詩編139:8)。ハデスは最後の審判が行われる前の場所で、死後の最終的な場所ではないのです。
レムナント出版 代表
久保有政※編集者注:伝統的解釈の一つとして、「ハデス」は新旧約の時代を問わず、救われていない魂の行く場所である、というものがあります。罪を持ったまま救われず死んだ人々が、神の裁きの日まで待つ場所です。「地獄」はその魂が最後の裁きの日に復活して、神にさばかれて永遠に行く苦しみの場所です(参/ダニエル12:2)。
一方、救われている神の民の死後の行く場所として「パラダイスを挙げる説があります(参/ルカ23:43)。旧約の聖徒たちは約束された救い主を信じて救われており、新約の聖徒たちもすでに来られた救い主イエス・キリストを信じて救われました。「パラダイス」は死んだ神の民が最終的に「天国」に入るのを待つ場所です。「天国」は、罪を贖う主イエスの十字架の身代わりを信じて救われた、すべての人々の永遠の住まいで、イエス様の再臨の後、復活のからだをもって最後にいただく新天新地です。