今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教10/08|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-10-08『最後まで輝いて生きる』(ヨシュア記24章14-15節)

 (イントロ)
  エリック・フロムという心理学者が言いました。「人間にとって死ぬことは非常に辛いことであるが、人生を十分に生きることなく死ななければならないことは耐え難いことである。」ヨシュアは、110年という長い生涯を送りまし た。彼はエジプトで奴隷として生れましたが、彼の生涯は、神様が約束してくださった土地で神様を礼拝しながら終 わりました。23章1節には「主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、 ヨシュアは年を重ねて老人となった。」と書かれています。神様は、ヨシュアを用いて約束されたことを実現してく ださいました。神様はヨシュアを、モーセの後を継ぐイスラエルの民のリーダとして立てました。そしてヨシュアが 民の先頭に立って、敵を滅ぼし、神様が与えると約束してくださった土地を勝ち取りました。パウロと同じようにヨ シュアも「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と告白することができたでしょ う。彼は、23章14節にあるように、「世のすべての人が行く道を行こうとしている」、つまり彼は自分の生涯の終わりが近いことを悟ったのです。彼にとって死ぬ ことは辛く悲しいことでしたが、彼は神様の命令に従って、右にも 左にもそれずに生涯を過ごしましたから、苦しいことも多かったのですが、充実した生涯でした。悔いのない人生で した。そのようなヨシュアが長く波乱に満ちた生涯を終えようとしている時、彼にとって一番気にかかっていたことは自分のことではありませんでした。彼は自分のことよりも、イスラエルの民のことが心配でした。彼らが信仰をしっかりと持ちつづけることを願っていました。ですから、もう一度、彼は、最後の説教を語る時に、イスラエルの民 にチャレンジを与えました。24章1節を見ると、ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムという場所に集めました 。

 (1) イスラエルの民が受けた神様からの祝福
 ヨシュア記24章の2節から13節のところで、ヨシュアはイスラエルの神が民に対してどれほどの祝福をお与えになっ たかということを教えるために、彼らの過去をアブラハムにまでさかのぼって語っています。ヨシュアは「主が言われる」といって話を始めますが、ここで強調されているのは、神御自身がどれほど、イスラエルの民に働きかけてくださったかということです。この中で特に三つのことが強調されていると思います。

 a) 神がイスラエルの民を選んでくださった。
  最初のユダヤ人アブラハムは元々ユーフラテス川の東、ウルという町に住んでいて他の神々に仕えていました。その アブラハムを主がお選びになりました。アブラハムが神を捜し求めて神を見つけ出したのではありません。神がアブ ラハムをお選びになりました。イエス様もあるとき言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。 わたしがあなたがたを選びました。」しかもそれは世界が創られる前から、神様の永遠の計画の中で決められていたことだ聖書は教えています。現代人はよくアイデンティティーを見失っていると言われます。それは、自分が誰であるかが分かっていないということです。クリスチャンは誰かと聞かれた時、その答えは、神様によって選ばれた人間 だと答えることができます。誰かから選ばれるということはとてもうれしいことです。子どもたちもリレーのメンバ ーに選ばれることはうれしいことです。何かの仕事に採用されること、結婚の相手に選ばれること、など、選ばれるとはうれしいことですが、聖書は、神を信じる者は、実は、神から選ばれた者だと教えています。この世で何かに選 ばれても、それは一時的なことです。しかし、神様に選ばれるということは永遠に価値のあることです。今日、この礼拝に集まっておられるすべての人は、自分では気づいておられないかも知れませんが、神様に選ばれて、それで、 今日、この場所に来るように導かれたのです。

 b)神様はイスラエルを解放された
  イスラエルの民は400年間、エジプトで奴隷として暮らしていました。辛い労働をさせられて、苦しさのあまり彼らは神様に向って助けを叫び求めました。(参照:詩篇34篇17-19節)それでイスラエルの神はモーセを指導者に立 てて、イスラエルの民をエジプトから脱出させてくださいました。ただエジプトから脱出させらただけではなく、神様はエジプトの民に海を渡らせて、後ろから追いかけて来たエジプト軍を海におぼれさせました。私たちクリスチャ ンは、以前は奴隷でした。自己中心という罪に縛られて、不自由な生活を送っていました。欲に縛られ、メンツに縛られ、人と比べて人の目を気にしながら生きなければならない奴隷のような生活をしていました。
しかし、主イエス ・キリストの十字架により、その罪が許され、自由に生きる道へと解放されました。これは決して小さな祝福ではありません。神であるお方が、命までも犠牲にしなければならないほど、大きな犠牲の上に実現した祝福です。

 c)神はイスラエルを約束の地へ導かれた
  エジプトからイスラエルの民を脱出させてくださった神は、彼らを見捨てることなく、導きつづけ、ついに約束の地に導きいれてくださいました。そして一人の人間の罪のために、アイという町で戦いに敗れた以外は、イスラエルは すべての敵を滅ぼし、約束の地を手に入れました。前回読んだ箇所ですが、ヨシュア記の21章の45節に「主がイス ラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず実現した。」私たちが信じている神様は小さな神ではありません。この宇宙を創られ、すべての権威を持っておられる神です。私たちは、イスラエルの民と同じように、 この神に選ばれ、この神に解放され、そしてこの神によって約束を実現してもらった者なのです。イスラエルの民は 決して完全な民ではありませんでした。それどころか神様に反抗を続けた民でした。しかし、真実なる神様は、いっ たん約束されたことは決して変えることはありませんでした。今の時代を生きるクリスチャン、つまりこの同じ神を信じる者に、神様は同じように働いて下さいます。私たちを選び出し、解放し、そして、今なお私たちを導いてくださっています。この地上の生活では、時に苦しいこと、悲しいことを経験します。しかし、主は常に私たちの近くにおられて私たちを守っておられるのです。

 (2) イスラエルの民にチャレンジを与えるヨシュア
 イスラエルの民に向ってヨシュアは語ります。これまでイスラエルの過去の祝福について語ってきましたが、今度 は、これからどう生きるべきか、ヨシュアはイスラエルの民にチャレンジを与えます。ヨシュアは言いました。「あ なたがたは、きょう、この神を自分の神として仕えるか、それとも他の神々を神として仕えるのかどちらかを選びなさい。」と迫りました。そして、自分と自分の家族はこの神に仕えると宣言したのです。エジプトを脱出し神様の様々な奇跡を目にしていながら、イスラエルの民の中には、今なおエジプトの神々を礼拝していた者がいたようです。 (参照:エゼキエル20章6‐8節)ヨシュアは聖書の神とエジプトの神々を同時に礼拝することはできないから、ど ちらか一つを選び、その選んだ神だけに誠実に仕えるように命じました。すると、イスラエルの民は答えました。「 私たちも主に仕えます。主が私たちの神だからです。」しかし、ヨシュアは、民の言葉に満足しませんでした。とい うのも以前にも同じようなことがあったからです。エジプトを脱出した後、シナイ山で彼らの先祖たちが主に出会った時に、彼らは「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」と答えました。ところがその直ぐ後に、彼らは少し神が遠く感じられた時に、金の子牛の像を作って拝んだのです。この出来事を目撃していたヨシュアは、人の心が直ぐに変わることをよく知っていました。それでヨシュアは言いました。「それなら、あなたがたのうちにある、 外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と命じました。

 イスラエルの民は、エジプトの神々を拝んでいながら、唯一まことの神を捨てたとは考えていませんでした。しか し、神様はこのような二心をお許しにはなりません。私たちも、イスラエルの民と同じような態度を持っていないで しょうか。自分の心に主イエスを向かえることには迷いがないとしても、自分のうちにあるほかの神々を捨てること 、つまり自分の心を捕らえ、自分の生活の目標になっているものを捨てるように言われると、少し躊躇してしまうのではないでしょうか。主イエスも言われました。「眼が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。そして人は二人の 主人に仕えることはできません。」心の目とは人間が生きる時に持っている目的、計画と言えるでしょう。その眼が 正常でない場合、すべてのものが二重に見えたり、ぼやけて見えたりします。私も最近老眼が進んでいるようで、近 くのものが非常に見えにくくなって来ました。特に車を運転している時に地図を見ようとすると眼鏡を外さなければ 見えないのです。エドワード・アーウィングというイギリスの牧師は小さい頃に使っていたベッドに小さな穴が開いていて、いつもその穴から外を見ていたために、彼の目がゆがんでしまってやぶにらみになってしまったそうです。 主は二人の主人に仕えることはできないといわれました。私たちは、主イエスにも仕えたいし、だからと言って自分の好きなこと、多くの場合、富・財産にも仕えたいと考えています。私たちは、純粋な心で神に仕えなければ、本当 に神様に仕えたことにはなりません。二つのまったく異なったものを同時に見ようとする生き方、それは霊的なやぶ にらみと言えるでしょう。結局、物事がはっきりと見ることができず、いつも中と半端な生き方になってしまいます 。主イエスは、あなたにとって人生の一番の関心事は何かと尋ねておられるのです。天国に行くこと、神の子として 生きること、そのようなことを大切にしているのか、それとも、この地上の生活を第一にしているのかと尋ねておられます。スポルジョンと言う人は「天にまで持っていけないようなもののためにあまり熱心になるな」と言ったそう です。死んだら終わりというもののために熱心になっても意味がないというのです。先日の三谷さんも言われました 。「こうしたい、ああしたいと思っているだけではだめです。まず生活パターンを変えることから始めなさい。」私たちも、本当に神に仕える生き方をしたいと思うならば、それに相応しく生活パターンを変えるところから始めることが必要です。何を第一にして生きるのか、ヨシュアは「私と私の家族とは主に仕える」と言いました。「神に仕える」とは、神に敬意を表して、神の言葉に従って生きる決心をし、ただ神だけを礼拝することです。神に心から感謝 し、いつも神のことを考えて生きることです。ヨシュアはそのように生きることを決心しました。31節を見ると、「 イスラエルはヨシュアが生きている間、主に仕えていた」と書かれています。彼の生き方が民全体に影響を及ぼした のです。ヨシュア記は勝利の書です。彼が生きている間、イスラエルの民は周囲の敵からも守られて安心して暮らす ことができました。彼らが主に心から仕えていたからです。ところが、この次の士師記の時代になると様子は一変し ます。彼らを知らない世代になると神に仕えなくなり、士師記の時代は常に周囲の敵との闘いに悩まされるようになります。私たちが本当に平安に生きるための秘訣、それは主に仕えることです。時代が暗くなり、人々の愛が冷える 時代になると聖書は預言していますが、どのような時代になろうとも、主に仕え、主に守られている時、私たちは本当に安心して、希望をもって生きることができます。スポルジョンが言ったように、死んだら終わってしまうようなものに心を奪われずに、ヨシュアのように、心から主に仕えて行きましょう。

ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)