今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教10/15|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-10-15『時が近づいている』(黙示録1章1-8節)

 (イントロ)
 今日からしばらくヨハネの黙示録という聖書の中の最後の書物をともに読みたいと思います。私たちは今非常に不安な時代に生きています。中東和平はなかなか実現せず、今もイスラエルでは緊張が続いています。日本国内を見ても 、最近、どういう訳か各地で地震や噴火が起きていて被害が出ています。それ以外にも人口が爆発的に増えていること、オゾン層が破壊されていること、エネルギーが枯渇してしまいそうなことなど、人類の未来はどうなるのかと不安を感じさせられます。最近、イギリスの有名な学者、ホーキンズ博士が言ったそうですが、地球の状態が今のままだと 、千年後には、地球は人間の住めない惑星になり、人類は他の星へ移住する以外に生き延びる道がないとのことです 。このような話を聞くと私たちはますます不安を掻きたてられます。ですから、去年は「ノストラダムスの大予言」 で立つ7月31日に恐怖の大王が来ると信じる人もいたようですし、オウム真理教なども終末が近いと言って、人々をおどすようにして入信させていました。
 しかし、何と言っても、私たちが人類の未来のことを知ろうと思えば、聖書を開かなければなりません。聖書は2000年も前から「世の終わり」が来ると語りつづけて来たからです。黙示録というこの本の名前は「隠されていたものを明かにする」という意味があります。主イエスの弟子であったヨハネを通 して、神様は私たちにこれから何が起きるのか、これまで隠されていたことを現わしてくださったのです。1章3節で神様は言われました。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。」聖書はどこを読んでも、私たちは恵まれ、励まされます。しかし、この箇所のように、はっきりとその言葉を読む者に特別 な祝福を約束している部分はありません。聖書の神を信じる者は、この世がどのようになって行っても恐れる必要はありませんし 、慌てる必要もありません。むしろ希望があることが分かります。ですから、しばらく、この黙示録を読みながら、 神様が約束しておられる幸福を自分のものとして行きましょう。

 (1) 聖書が言う「終末」とは
 聖書が語る「終末」はこの世のすべてのものが破滅して、それ以後はすべてが消え去って静寂になるということを 言うのではありません。イザヤ書65章17‐18節にはこう書かれています。「見よ。まことにわたしは新しい天と新 しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを いついつまでも楽しみ喜べ。」現在の世の中は、悪、苦しみ、病気、死、などに満ちた悲惨な世界です。それは、人 間の罪がもたらしたものです。しかし、神様は、永遠の計画で決められている時に、この悲惨な世界を神様が支配する新しい世界に変えること、これが聖書の言う「世の終わり」です。言いかえると、世の終わりというのは、「今の世 界」と「これから来るべき世界」の境界線ということになります。

 また、この世の終わりは無差別 に全ての人に及ぶのではありません。滅ぶべき者だけが滅びると聖書は語っていま す。第二ペテロ3章13節を読みましょう。「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」このことから、神に信頼し、神の教えに従って生き様とする者が滅びることはありません。イエス・ キリストを救い主と信じて罪を許してもらった人は皆、イスラエルの民がカナンの地を約束されて実際にその地に住みついたように、新しい天と新しい地とを受け継ぐことが約束されています。ですから、終末は怯えて待つべきものではなく、むしろ待ち望むべき時です。この世の苦しみや悲しみや痛みがすべて追放され、神を信じる者の救いが完全に完成する時だからです。クリスチャンは、救われた者としてすでに永遠のいのちの約束を受けているのですが、 まだ完全な形でその恵みを体験していません。例えば、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜になった人がいました。1945年の8月15日に日本が戦争に負けて、捕虜は自由になりました。連合軍の勝利という恵みをその日受けました。 しかし、その人が本当の意味で以前のような自由な暮らしができるまでにはまだしばらく時間が必要だったはずです 。収容所の荷物をまとめ、国へ帰る船が出る港まで行き、そして長い旅を終えて自分の家に戻って初めて、本当の自 由を満喫するのです。私たちも、すでに神の勝利、罪の許しの宣言を受けましたが、それを本当に体験できる時はまだ来ていないのです。だから、この世では、クリスチャンとして生きることの素晴らしさ、その立場の素晴らしさがよく分からないのです。しかし、それがはっきりする時が来ます。しかもその時が近いように思えるのです。

 (2) 時が近づいている。
 ところで、世の終わりはいつ来るのでしょうか。主イエスは「その日、その時がいつであるかは、だれも知りませ ん。ただ父なる神だけが知っておられます。」と言われました。ノストラダムスの大予言では1999年の7月31日に世の終わりが来ると言っていました。エホバの証人では1914年に世の終わりが起こったと言いました。しかし、こ の世は滅びなかったため、エホバの証人の教えは何度も修正されてきました。ですから、私たちは惑わされないようにしなければなりません。主イエスご自身が「世の終わり」がいつ来るか誰にも分からないとはっきりと言っておられるのですから、誰かが「何年何月何日」に「世の終わり」が来ると言ったとしたら、その人の話はそれ以上聞く必要はありません。それは偽りの教えだからです。しかし、聖書が預言している世の終わりの前兆がすでに起きていますので、それには注意することが必要です。

 マタイの福音書23章4節から7節までを読みましょう。ここに世の終わりの前兆がいくつか預言されています。まず 、にせキリストにせ預言者が現れると言われています。統一教会の教祖である文鮮明は自分がキリストの生まれか わりだと主張しています。麻原彰晃もそう言っていました。韓国には「自分こそキリストの再来だ」と自称する人は 30人以上いるそうです。また、世界戦争や、民族間の戦争が数多く起こると言っています。20世紀は戦争の世紀だと言われています。2回の世界大戦がありました。また、いまでは旧ユーゴスラビアやロシア、またアフリカでも民族同士の戦争が頻繁に起きています。そして世界中でききん地震が発生するとあります。ルカの福音書では疫病も 起こると主イエスは言われました。80年代になってエイズという新しい病気が発見されて、特にアフリカの感染状況は深刻です。また飢饉も世界各地で起きています。ある機関の発表では、世界の人口の4分の1は飢えに苦しんでい ます。地震は日本だけでも、あちこちで起きています。このように見ると、黙示録1章3節の「時が近づいているか らである」という言葉は非常に重く響いてきます。

 3節「時が近づいている」と記されています。この時という言葉は時計やカレンダーが示す時間のことではありません。この言葉はギリシャ語で「カイロス」と言うのですが、ある時代、ある期間、ある季節を意味します。神様は 人間を罪の束縛と裁きから救い出す計画を持っておられるのですが、次の大きな節目、区切りとなる時代が迫っていることを意味しています。それで、次の時代に何が起きるのかと言うと、ヨハネは7節で「見よ。彼が、雲に乗って 来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」「見よ。彼が来られる。」つまり主イエス がもう一度私たちのところに現われることが預言されています。これをイエスの再臨と言います。再び、わたしたちの前に現われてくださるのです。しかも、2度目は雲に乗って、あるいは雲に包まれて、すべての人が見えるような方法で現われてくださいます。聖書では、雲は神様がおられることを表わすシンボルです。モーセやヨシュアに導かれてエジプトから約束の地まで進んで行ったイスラエルの民の前には、いつも神が雲の柱となって現われてくださいました。ソ ロモン王が自分が建てた神殿を神様に捧げる式を行った時も、神殿は雲に包まれました。雲は神がおられる栄光を表 わすものなのです。主イエスが2000年前に、一度目に来られた時は、神という地位 を捨てて貧しい者となり、十字 架の苦しみを受ける者として来られました。2000年前のクリスマスの日、主がベツレヘムという街でお生まれになった時、そのことを知っていたのは、ヨセフとマリアと天使のお告げを聞いた羊飼いだけでした。しかし、2度目に来られる時は、神としての本来の栄光に包まれて、支配する者として来られるのです。

 私たちは十字架にかかるためにこの世に来られたイエス・キリストの姿しか知らないために、どうしてもイエスと言うと、愛の方、優しい方、苦しみを受けられた方という姿しか思い付きません。しかし、それは、主イエスが、本来の栄光に満ちた神の姿を一時的に捨てられた姿なのです。しかし2度目は本来の姿で来られます。ヨハネはイエスをどのように呼んでいるでしょうか。5節の中で、わたしたちの主は「忠実な証人、死者の中から最初によみがえった方、地上の王たちの支配者」と呼ばれています。イエス様は真理を証しするためにこの世に来たと言われました。神 についての真理です。忠実とは、決して真理を自分の都合で曲げたりしない証人です。主は神の真理を言葉で伝えただけでなく、十字架に自分の命をすてるという行いをもって神の愛を証しされました。しかし、十字架で死んで終わったのでなく、死者の中から最初によみがえられました。復活は神の力と権威を表わしています。イエス・キリスト が復活されたからこそ、神であることが示されたのです。またユダヤの社会では、最初に生れた者を父の名誉を受け継ぐ特権が与えられていましたので、最初に生れた者という言葉には力と名誉を持つ者、最高の地位 を持つ者という 意味もあります。私たちの主イエスは、生きている者の世界でも、死んだ後の世界でも、どこにあっても最高の地位 を持つ方なのです。

 しかも主は諸国の王を支配する者だと呼ばれています。主イエスは、当時のローマ総督だったピラトから有罪を宣告されて十字架刑を受けられました。当時の目に見える状況で考えると、主イエスは敗北したかのように見えます。しかし、つねに、この世界を本当の意味で支配しておられるのは神様です。主は十字架につけられましたが、三日目に 復活されました。その後、弟子たちは、ローマ帝国のしつような迫害にもめげず、伝道を続けました。その結果 、あんなに反対しつづけた、イエスの教えを地上から消し去ろうとしたローマ帝国がキリスト教の国になったのです。この世界を本当に支配しておられるのは主イエス・キリストです。

 (3)主イエスの働き
 それでは、イエス・キリストは今生きている私たちにとってはどういう方なのでしょうか。主は私たち人間のために 何をしてくださる方なのでしょうか。まず、この全世界を支配しておられる方が私たちを愛してくださると書かれています。この「愛する」という動詞も継続的な行為を表わす時制が使われています。主イエスは、十字架の上で私たちに対する愛を表わされただけではなく、今も永遠の愛をもって私たちを愛してくださるのです。皆さんは、王様や 天皇陛下のような高いくらいの人々に愛されたことがありますか。偉大な人から愛されると本当にうれしいと感じることでしょう。しかし、わたしたち一人一人はこの世界で、この宇宙で一番偉大で、そのすべてを支配しておられる方から愛を受けているのです。そしてその愛を十字架で表わしてくださったので、私たちを罪から解き放ってくだ さいました。ここの「解き放つ」という動詞は、今度は「不定過去」といって一回きりの行為を意味する時制が使われています。これは、十字架の上での一回の行為によって、わたしたちの罪からの解放は完成したことを意味してい ます。十字架の行為は繰り返す必要はありません。すでに完成しているからです。しかし、わたしたちに対する神様 の愛は永遠に続いて行きます。

 それだけではありません。主イエスは、私たちを王国の民とし、また祭司にしてくださると書かれています。私たちは王様の家族の一員に加えていただきました。王様の血を引く身分に変えられました。祭司は神のために神殿で仕えている人でした。旧約の教えによれば、神殿にお参りに行く人々は、ユダヤ人であっても神殿の外の庭にまでしか行くこ とができません。中に入れるのは祭司だけです。主イエスは私たちを祭司にしてくださるという意味は、わたしたちは遠慮することなく大胆に神に近づくことが許されているのです。私たちをそのような身分の者にしてくださる主イエス、このお方がふたたび私たちの世界に現われてくださる。なんと楽しみなことでしょうか。

 まもなくその方が来られます。聖書にはっきりとそう書かれています。信じがたいことかもしれません。しかし、聖 書に書いている預言は、これまですべて成就してきました。聖書は2000年前に世界中に散らされたユダヤ人がふたたび集められる日が来ると預言してきました。今から100年前の人々の多くは、そんなことありえないと考えていました。何しろ1900年間も、その場所にユダヤ人はおらず、別 の国が支配していたからです。しかし不思議なことに 、いろいろな要因が重なって、1948年にイスラエル共和国が誕生しました。このことも、主の再臨が近いことを思わせる出来事です。神の約束は必ず成就するのです。主はご自分のことを「私はアルファでありオメガである」とい われました。アルファはギリシャ語の最初の文字であり、オメガは最後の文字です。最初から最後まで、人間の歴史 、神の歴史のすべてを支配している者であるという意味の宣言です。人間の歴史を始めてくださった方は、最後まで その責任を負って、なすべきことをしてくださるのです。私たちは、何かを始めても、途中で止めてしまったり、忘 れてしまうものです。しかし、神様は人間の歴史も、わたしという一人の人間の人生も最初から最後まで責任を負っ てくださるのです。ですから、わたしたちは何も恐れる必要はありません。時が近づいています。この世は聖書が預 言しているようにだんだん悪くなって行くでしょう。しかし、心配は無用です。主が支配するもの、この世をさばく者として必ず来られるからです。もうその時は近いのです。

 かつてイギリスにリチャード一世という王様がいましたが、サラディンという敵と戦うためにイギリスを離れていました。その留守中に彼の弟のジョンが王座を奪って、権力を手に入れました。しかし、彼はひどい国王だったので、 民は苦しみました。リチャード一世が戻って来ることを待ち望んで祈りました。そしてある日彼はイギリスに帰って来ました。上陸するとまっすぐジョン王が住む城に向かって行進しました。ジョン王の城は大騒ぎになりました。リ チャードが王座を要求した時に、それを阻む者は一人もいませんでした。国民は喜びの声をあげました。鐘を何度もならしました。国王リチャード万歳と何度も叫びました。  リチャード一世よりもすぐれた王がまもなく戻って来て王座につくことを要求します。彼が留守の間この地で権力をふるっていた者たちは、皆、追放されます。主は必ずもう一度私たちのところに来られます。その時、すべてが変 わります。その日に備えて歩んで行きましょう。 

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