今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教10/22|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-10-22『栄光の主イエス』(黙示録1章9-20節)

 (イントロ)
 1世紀の終わりごろ、ローマ帝国においてキリスト教は激しい迫害を受けるようになっていました。クリスチャンはローマ皇帝を礼拝しなかったのでローマ帝国に対して忠実な市民とみなされませんでした。またクリスチャンは神の前にすべての人は平等であると考えていたので、貴族階級からは貴族社会を壊す危険なグループと思われていました 。それ以外にもさまざまな理由で、クリスチャンは人々から憎まれるようになっており激しい迫害が始まっていました 。そのような状況の中でイエスの弟子ヨハネは、主イエスの福音を語るのを止めなかったために、その罰としてエー ゲ海に浮かぶ小さな島、パトモス島に流されたのでした。彼は犯罪人としてパトモス島に流されたのですから、島での生活は当然苦しいものでした。おそらくヨハネは、鞭で打たれ、足かせをはめられて厳しい労働をさせられたでし ょう。また、食べ物は乏しく、ふとんもなく地面の上で眠り、常にムチをもった監視兵が彼を見張っていたことでし ょう。
 ヨハネは、神からまぼろしを受けた状況について述べた後、自分が見た幻について語り始めます。それは主イエス ・キリストに関する幻でした。主イエス・キリストは2000年前に私たちの罪を許すために、わたしたちの身代わりとなって十字架にかかられましたが、そこで死んでその生涯が終わったのではありません。主は十字架と復活の後、 天に帰られて今も生きておられるのです。そして今も、主を信じる者たちのために働いておられます。その姿をヨハ ネは1章に書かれている幻を通して見たのです。非常に厳粛な栄光に満ちた幻を見ましたが、それが何を意味するのかは、7つの星と7つの燭台以外については説明が書かれていません。主イエスの姿が何を現すのか、どのように私たちは知ることができるでしょうか。それは、聖霊の働きによって、聖書の他の部分が書かれる時に、その著者に霊感を与えて幻が意味するものを現してくださいました。私たちが聖書を理解、解釈する時に、大切なことは他の聖書の箇所とよく比較しなければならないということです。黙示録には特にシンボルがたくさん用いられていますので、 注意が必要です。今日の箇所から、今生きておられる私たちの主イエス・キリストについて学ぶとともに、私たちが 何をも恐れる必要がないことを学びたいと思います。

 (1) 私たちとともにおられる主イエス
 まず、ヨハネは7つの燭台の真ん中に人の子のような方が見えると言いました。20節の言葉によると、この7つの 燭台は7つの教会を表わすとあります。その真ん中にヨハネは主イエスの姿を見ます。天の栄光に輝く主イエスは、 教会の真ん中におられました。主は復活の後、弟子たちをこの世に残して天に帰られる時に約束して言われました。 「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」私たちの主は、今は目には見えませんが、いつも私たちの真ん中にいてくださる主です。主が十字架にかかられた時も、二人の犯罪人の間、真ん中におられました。また、 主イエスは別の時に約束して言われました。「ふたりでも三人でも祈る者が集まる所に私もともにいる。」この黙示 録が書かれた当時、教会は激しい迫害との戦い、また内部では間違った教えや罪の広がりとの戦いをしていましたが 、そのような困難な状況の真中に、よみがえりの主、栄光の力を帯びた主がおられるのです。ということは、わたしたち信仰者一人一人の生活の真中にも主がおられることを私たちは忘れてはいけません。私もあなたも、一人で生きているのではありません。栄光の主が、全能の主が私たちとともにおられるのです。主イエスを信じる者にとって主イエスは味方です。パウロが言うように、「主イエスが私たちの味方であるなら、この世でだれが私たちに敵対できるでしょう。よみがえって神の右の座に就いておられる主イエスが私たちのためにとりなしていてくださるのです。 」全能者である主イエスが味方であり、しかもいつもいつも私たちのために祈っておられるのです。なんとすばらし いことでしょう。

 (2) 栄光の主イエス
 ヨハネは人の子、われらの主イエス・キリストの姿を細かく描いています。その姿は主イエスの働きを意味してい ますが、まず13節に主イエスの服装の幻が書かれています。「足までたれた衣を着て胸に金の帯を締めている」と描かれています。当時普通 の人々はひざぐらいまでの短い服を着ていました。足までたれた服と金の帯というのはユダヤ教の大祭司が着ていた衣服を現しています。新約聖書のヘブル書は主イエスをユダヤ教のトップ、大祭司に例えて 描いています。大祭司は一年に一度イスラエルの民の罪が許されるようにといけにえをささげ神に祈りました。主イエスは、動物のいけにえではなく、御自身をいけにえとしてささげてくださいました。そして、今もなお私たちのために祈ってくださっているのです。ヨハネのこの幻、教会の真中に祈るイエスの姿があったことは、当時迫害を受けていた教会にとってはどれほど励ましになったでしょうか。それだけでなく、今を生きる私たちのためにも、復活された主イエスは祈っておられます。

 次に、ヨハネは主御自身の姿を見ました。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目 は、燃える炎のようであった。その足は、ろで精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のよ うであった。」ここでは、教会の中の罪をさばき、教会を清くされるキリストの姿が描かれています。頭と髪の毛が 雪のように白いとあるのは、旧約聖書のダニエル書の7章9節に主イエス・キリストを預言する言葉として「年を経た方」「頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった」という言葉と関係するものです。キリストは別 の名を「永遠 の父」というのですが、永遠に続く神の権威を現すものです。白という色は輝く色です。キリストが永遠に栄光に満ちた方であることを示しています。また、その目は炎のようで、足はしんちゅうのように輝いています。教会の中の すべてのことを見抜く鋭い目、神の前には何一つ隠すことはできません。そして主イエスの足も輝いています。昔、 王様が座る椅子は高いところに作られていました。それで王様によって裁かれる人々はつねに王様の足の下にいまし た。ですから、この足は主イエスの権威を現しています。赤く、熱く溶けるように輝いている主イエスの足が教会の 間を歩いています。それは教会の中にある汚れを清める主イエスの力を示しています。そしてその声は大水の音のよ うであるとあります。ヨハネはパトモスという島にいました。それは岩でできた小さな島でした。彼は絶えず岩にぶ つかる波の音を聞いていたはずです。永遠の神の声がヨハネに響いてきました。エゼキエル書43章2節に次のような言葉があります。「イスラエルの神の栄光が東の方から現われた。その音は大水のとどろきのようであった。」私は 、アメリカに留学していた時に、ナイアガラの滝に行ったことがあります。巨大な滝のすぐそばまで行くことができます。その水の音はものすごく、話し声が聞こえないほどです。将来、神の裁きの声が響き渡る時が必ず来ます。今 は、神の声は聞こえていません。しかし、神の裁きが来る時には、この世の声はいっさい聞こえなくなります。私たちは、その日に備えて、神の声、神の言葉に耳を傾けることが必要です。

 さらに主イエスは7つの星を持って、そしてその口からは鋭い両刃の剣が出ていました。星は20節に書かれている ように御使いを現します。マタイの18章10節を見ると、主イエスは、幼子たちに天の御使いが備えられていると書 かれています。幼子たちを守るためです。主イエスは教会にもこの御使いを送っておられます。ですから、教会がどのような敵に囲まれたとしても、教会を守る御使いが与えられているのです。また、主イエスの口から出ている両刃の剣は聖書の御言葉を現すものです。これも教会を守るものです。教会はいろいろな戦いに直面 しています。エペソ人への手紙の中で、そのような戦いの時に備えて武器を取りなさいという命令されているのですが、その中で、御言葉は攻撃の武器として書かれています。当時、教会に暴力で迫害を加える者たちがいました。また、間違った教えに 吹き込むことによって教会の中に争いを引き起こす者たちもいました。教会には外側との戦いと内側の戦いがありました。しかし、神の言葉は、どんな敵であれ、神に敵対する者たちに対する攻撃として用いられるときに、すべての敵を打ち破る力があるのです。主イエスは御言葉をもって教会とその民を守ってくださいます。教会を守られる主イエスの顔は太陽のように輝いていました。闇は光りに勝つことはできません。この世の闇、悪の力を光で完全に勝利する方、それが私たちの主イエス・キリストなのです。

 (3)私たちは恐れることはない 
 ヨハネ
は圧倒的な主イエスの姿を見て、恐ろしくなって、足元に倒れて死んだようになってしまいました。しかし、 その時、主イエスはヨハネの体に右手を置いて言われました。「恐れるな。」ヨハネは3年余り弟子として主イエス とともに過ごしました。この時、彼が何度も聞いた主の声が聞こえてきたのです。「恐れることはない。」私たちも 、主イエスの栄光の前に立つ時、あまりの神々しさに、その聖さに、その栄光の姿に圧倒されて、まともに立ってい ることはできないでしょう。恐れを感じることでしょう。しかし、ヨハネに対して恐れるなと言われた主イエスは私たちに対しても恐れるなと語ってくださるのです。私たちは、不安な時代を生きています。世界の情勢もいつ大戦争が起きるか分からないような微妙な情勢です。また、わたしたちの周りの社会も、今は愛が冷えて不法がはびこって いる時代ですから、どこに危険が待ち受けているか分からない、安心のできない時代を生きています。しかも、私たちの健康も環境が悪くなって危険にさらされています。死んだら私たちはどうなるのでしょうか。本当に不安な時代 です。しかし、今も生きておられる主イエスは、栄光と権威に満ち溢れたお姿で、私たちにも「恐れるな」と語り掛けてくださいます。なぜ私たちは恐れなくてもよいのでしょうか。

 (一)「わたしは最初であり、最後である。」これは主イエスがこの世の初めからこの世の終わりまでおられるという 約束ですが、同時に私の人生の中で、わたしが生れた時も、またわたしが死ぬ 時も、信仰者として歩むすべての時、 イエスは私たちとともにおられるのです。全能者である主イエスがともにおられる時に、わたしたちは何を恐れる必 要があるでしょうか。

 (二)「生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。死とハデスのかぎを持っている。」 主は復活の主です。主は言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」主を信じる者も、肉体はいつか 滅びても魂は永遠の主とともに生きるのです。主は死とハデスの鍵を持っていると言われました。ハデスとは、神を 信じないままで死んだ人々の行く場所を意味しています。神から離れている人間は、死の力と裁きというものに縛られると聖書は教えています。ハデスという場所に閉じ込められるのです。しかし、ヘブル書2章14,15節を見ると、 「キリストは、十字架を通して、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる。」と書か れています。ですから神を信じる人々は死もその後のことも何も恐れる必要はありません。救い主イエス・キリスト が鍵を持っておられるので、そこに閉じ込められることがないからです。

 私たちの主イエスは、このような永遠に渡ってすべての栄光と権威を持っておられる救い主です。この幻は、当時 激しい迫害にさらされていたクリスチャンにとって大きな励みになりました。そしてこの希望は、わたしたちにも与 えられているのです。私たちはこの世においても主イエスのとりなしの祈りによって、また主イエスが遣わしてくだ さる御使いによって守られています。そして肉体の死を迎えても、私たちはけっしてそれに閉じ込められることなく 、主イエス・キリストとともに永遠に過ごす天国に導かれるのです。私は神学生時代に東京拘置所を訪れたことがあ ります。何重にも重く分厚いドアによって外から隔離されていました。しかし、わたしたちはその中に入っても、何も恐怖心は感じませんでした。外に出られることを知っているからです。しかし、刑の宣告を受けて長く刑務所で過ごさなければならない人にとっては、その中に閉じ込められていることは非常に恐ろしいことに違いありません。同じように、主イエスキリストを信じている人々は、たとえ死を迎える時であっても何一つ恐れることはありません。 主イエスが鍵を持っておられるからです。今、主を信じる人と信じない人との違いははっきりとは分かりません。しかし、この死を迎える時、その違いがはっきりします。あなたはどうでしょうか。この栄光に満ちた方、いっさいの 権威を持っておられる主イエスを救い主として信じておられますか。私たちが主イエスを信じる時、あなたは罪と死 の恐怖という力から救われ、周囲の状況がどうであれ平安と希望をもって人生を生き抜くことができます。

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