今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教10/29|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-10-29『天国で一番偉い人』(マタイ18章1-4節)

 (イントロ)
  10月の最後の週末、私たちの教会では毎年、子供祝福式を行っています。昨日は南福音診療所の祝福式に、200名近 くの子どもたちが集まりました。その一人一人の頭に手を置いて神様のお守りと祝福を祈るということは、牧師であ る私にとって、本当に大きな喜びです。今の時代、一人の子供が親の愛情を受けてしっかりとした人格を身につけて 成長するのが非常に難しい時代です。特に、日本は、絶対者としての神の存在を知らずに、あるいは無視して生きている国ですから、とくに難しくなっていると思います。家庭にあっても、近所でも、学校でも、子どもたちにはさまざまな危険が潜んでいます。親がどんなに努力しても今の時代は親の力だけでは子供を守りきることはできないようです。ですから、一人の子供が健やかに成長するためには、この天地を創られた神、何よりも強い力を持っておられる神様の守りが必要ではないでしょうか。そういう意味で、子供祝福式の意義は非常に大きいと思います。さて、今日は、主イエス様が子どもたちをどのように見なしておられ、どのように接しておられるか、マタイの福音書から学びたいと思います。

 (1)幼子のこころとはどのような心か
 ある時、イエスの弟子たちがイエスのところに来て、主に質問をしました。一人じゃなく、何人か集まって質問に来ました。その質問とは「天の御国ではだれが一番偉いのか」というものでした。弟子たちが数人集まってこのような質問をしたことから判断すると、弟子たちの間で議論があったようです。彼らは神の御子イエスが直接に選んだ12人でした。3年間主イエスの訓練を受け、教えを聞いてきましたが、彼らには、まだ主イエスの教えを全然理解していませんでした。この議論が起きたのは、おそらく、この出来事のしばらく前に起きたことによるものと思われます。17章1節で、主イエスは弟子たちの中からリーダー格のペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山、恐らくヘル モン山に行きました。その時、主イエスの姿が変わり、顔が太陽のように輝き、主が着ておられた服はまっしろに輝きました。あまりにもすばらしい光景に、ペテロはその場面 がいつまでも続くことを願って、そこにテントを建てた いと思ったほどです。彼らが山から下りてくる時に主は「復活の時までは、今見た幻を誰にも話してはならない」と 言われたのですが、すばらしい体験をした三人は黙っていることができなかったはずです。彼らは他の弟子たちに、 喜びと興奮を感じながら自分たちが見た恐ろしいほどの光景について語ったと思います。それを聞いたほかの弟子た ちはどう思ったでしょうか。どうして、あの三人だけを主は連れて行かれたのだろう。なぜ、私を連れて行ってくれ なかったのだろう。彼らの間に、競争意識が芽生えたのでした。そして、将来弟子としての働きを終えて天国に行く時に誰が一番高い位 につくことができるのかと議論が始まりました。そして自分たちの間で結論を出すことができなかったので、主イエスのもとにきて、直接、主イエスに尋ねることにしたのです。

 そこで主イエスは、それに対してどのように答えられたでしょうか。弟子たちはつねに、自分の地位 、自分 がどのように認められるかということばかり考えていました。ですから、自分の働きにふさわしい報酬が欲しかったのです。しかし、イエス様は、ちょっと興奮気味の弟子たちの前で、一人の幼子を膝の上に乗せました。そして言われました。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。」ここで 「悔い改めて」と訳されている言葉は「方向を変えて」とか「心を入れ替えて」という意味です。これは、イエスのもとに来た弟子たちが、最初から全く間違った方向に進んでいたことが分かります。彼らが人生の中で求めていたものが反対方向でした。普通 、私たちが人生の目標とするもの、求めているものは、自分にとって得になるもの、自分が喜べるものです。いつも自分のことが中心で、自分の思い通 りに行かなかったり、自分のしたいことができないと 満足できないものです。例えば、会社の中で出世したいとか、人々から注目を浴びたいとか、財産を築きたいとか、 いつも自分がスポットライトを受けるような立場にいたいものです。しかし、天国は、そのようなものとは反対の方向にあることを教えるために、主はここで「方向を変えて幼子のようにならないと天国に入ることはできない」と言 われたのです。

 別の言い方をすると、主イエスは幼子の中に、天国に入る神の民の特徴が見られると言っておられるのです。それでは主が考えておられた幼子の特徴とはなんでしょうか。第一に子供は従順な心を持っています。主イエスは、イスラエルの人々のためにいろいろな力ある働きをしたり、いろいろと教えておられましたが、多くの人は主イエスの言葉を受け入れることをせず、信じようとしませんでした。イエスから遠く離れて批判的な目で見ている人々が大勢いました。ところが、幼子はどうでしょうか。主イエスが小さい子供を呼ぶと、その子供はすぐに主イエスの招きの言葉に従って近づいてきました。それで主はこの幼子を弟子たちの真中に立たせたのです。大人ですと、イエスのそばに立つと、イエスの仲間だと思われないか。そうすると、人は自分のことをどう思うだろうか。変な噂を立てられて自分の立場が危なくなるのではないか、などといろいろと考えてしまって、すぐに行動に出られない人が多いと思いま す。幼子は、自分のために自分一人の力で生きて行こうなどと考えずに、自分を愛してくれる人、自分の世話をして くれる人に依存して満足しています。私たちも、幼子のように神様が招いておられる時に、あれこれ疑ったり、計算 したりしないで、神に依存して生きる道を選ぶ時に、今まで経験しなかったような平安を感じることができます。それは、パウロが言ったように、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。よみがえりの 主イエスは今、天において私たちのためにとりなしの祈りをしておられるので、どんな状況の中にあっても、私たちは圧倒的な勝利者となると約束されています。幼子が一番安心なのは母親に抱かれている時でしょう。私たちも、私たちのためなら命を犠牲にしてでも愛してくださる神様のそばにいる時が一番安全なのです。

 子供の特徴の二番目は謙遜だと思います。子どもたちも決して罪がないわけではありません。わがままなことを言う時がありますし、高慢になる時もあります。しかし、そのような性質も大人とは比べものにならないと思います。パ ウロはピリピ書の中で「何事でも謙(へりくだ)って、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と戒めていますが、これがなかなか大人にはできないのです。自分の意見や考えを押し通 そうとしたり、自分が優越感を感じたかったり、 自分を少しでも他の人よりも優れているように見せかけたいものです。そのために、人間が集まるところにはどこでも争いが起こります。主とともに生活をしていた弟子たちの間でさえ、競争意識が働いていたのですから、教会の中にもそのような姿勢が、教会の一致や平和を乱してしまいます。では、幼子の謙遜とはどのようなものでしょうか。 幼子は自分の弱さを知っています。ですから、親に守ってもらうことを恥と思ったり、プライドに傷つくなどと考えることはありません。自分がえらい人間だなどとは考えていないでしょう。私たち一人一人は、全能者である神を前にする時、絶対的に清い神の前に立つとき、ほんとうに汚れに満ちた罪びとに過ぎません。幼子が自分の弱さを知っているように、私たちも自分の罪深さをはっきりと知らなければなりません。そのとき誰一人自分を誇ることはできません。ガラテヤ書6章3−4節にはこう書かれています。「だれでも立派でもない自分を何か立派であるかのよう に思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りでほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

 (2)幼子をつまずかせてはならない
 ユダヤの社会では、こどもは一人前の人間とは考えられていませんでした。何かの出来事で人数を数えるときも子供の数は含まれていません。マルコの福音書10章で、イエス様は最初パリサイ人たちと結婚と離婚について論争をした後、10節を見ると、イエス様は彼らと別 れてある家に戻って弟子たちに向かって離婚のことについて教えておられました。弟子たちにとっては、久しぶりに群集から離れて自分たちだけが主イエスの教えを受けることができたのですから、彼らにとって、どれほど大切な時であったことでしょう。ところが、そこへ幼子を抱えた親たちがイエス様に祝福を祈ってもらおうとして集まって来ました。弟子たちの恵みの時間が幼子や赤ん坊の泣き声によって壊されてしまいました。せっかくの大切な時間を壊された弟子たちは、腹をたてて、彼らを叱って追い返そうとしたのです。すると、イエス様は「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」と言われました。弟子たちにとって幼子は信仰のことなど分かるはずのない価値のないものと考えていたようです。弟子たちは天国は大人のためにあるのだと考えていましたが、それは大きな間違いでした。主はこどもたちが近づくのを妨げてはいけないと言われました。主は言われました。天国はこのような者たちのものだ。天国とは幼子のような謙遜な人の国だと言って、子供たちを腕に抱き、頭に手をおいて祝福の祈りをささげられました。主 はこどもたちを連れて来なさい。と言われました。教会でも、大人である私たちも、弟子たちのように、礼拝はこどものためのものじゃない、自分たちのものだと考えてはいないでしょうか。主は幼子を連れて来なさいと言われます 。

 マタイの18章に戻りますが、主はこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。とかなり厳しいことを言っておられます。ここで「小さい者」とは幼子はもちろんですが、信仰をもったばかりの人、まだ信仰が弱い人をもさしていると考えられます。主は 、そのような小さな人、弱さを持った人のために、信仰の強い人、いろいろな意味で強い人が小さい者たちのために 奉仕することを願っておられます。イエス様の言葉によれば、このような小さな人々、信仰の弱さをもっているような人々こそ天国に入るのにふさわしいと言われるのです。そのような小さな人々をつまずかせることを、主は非常に悲しまれて、それでこのような厳しい警告の言葉を言われたのだと思います。弱い人々をつまずかせるものはいろいろあります。心を傷つけるような言葉、汚れた言葉、不道徳、正しくない生き方などです。弱い人々をつまずかせることは、神様の心を痛ませるのです。逆に考えると、主は、私たちがこのような人々を助けることを願っておられま す。小さな人、弱い人、助けを必要としている人、そのような人々に仕えること、を主は喜んでくださいます。 天国にふさわしい人は、能力のある人、力のある人、優れた人ではありません。幼子のように弱くていいのです。ただ幼子のように純真な心で神様を信頼して礼拝するとき、主は大きな喜びを感じてくださるのです。自分を実際以上 に見せかける必要もありません。むしろ自分の弱さをよく知っている人を主は愛してくださいます。

 旧約聖書の時代 にイスラエルの隣の国シリアにナアマンという非常に優れた将軍がいました。シリアの英雄でしたが彼には一つ大きな悩みがありました。実は彼はらい病にかかっていたのです。その悩みを知ったユダヤ人の召使から、ユダヤで多くの奇跡を行っていたエリシャという預言者のことを聞いたナアマンは使いの者と共にエリシャのもとへ出かけて行き ました。エリシャの家に着くと、その家の召使が玄関に出てきて、エリシャは「ヨルダン川に言って7回体を水に浸 しなさい」と言っていますと伝えました。シリアの英雄ナアマンは、自分自らエリシャを訪れ、おみやげまで用意していたのにエリシャが玄関に出てこようともしなかったことに腹をたて、帰ろうとしました。しかし使いの者から「 エリシャが指示したことは難しいことではないでしょう。やってみましょう。」と言われて、彼はヨルダン川に出かけました。彼には立派な将軍としてのプライドがありました。地位 がありました。人から指図されることのないナアマンは、そういう自分にまとわりついているものを一切捨てて、玄関にも出てこない預言者の言葉に従って、ヨルダン川に入り体を低くかがめてなければなりません。彼の心に葛藤があったかも知れません。しかし、彼が預言者の言 葉、つまり神の言葉に従って身を低くしたとき、どうなったでしょう。列王記5章14節には「すると彼のからだ は元通りになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」と書かれています。私たちが、幼子のように自分 を低くするとき、主がともにおられ大きな祝福を注いでくださるのです。

 その名を聖ととなえられる方がこう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれてへりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』 (イザヤ57章15節)

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