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今週の礼拝めっせーじ
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礼拝説教 2000-10-29『天国で一番偉い人』(マタイ18章1-4節) (1)幼子のこころとはどのような心か そこで主イエスは、それに対してどのように答えられたでしょうか。弟子たちはつねに、自分の地位 、自分 がどのように認められるかということばかり考えていました。ですから、自分の働きにふさわしい報酬が欲しかったのです。しかし、イエス様は、ちょっと興奮気味の弟子たちの前で、一人の幼子を膝の上に乗せました。そして言われました。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。」ここで 「悔い改めて」と訳されている言葉は「方向を変えて」とか「心を入れ替えて」という意味です。これは、イエスのもとに来た弟子たちが、最初から全く間違った方向に進んでいたことが分かります。彼らが人生の中で求めていたものが反対方向でした。普通 、私たちが人生の目標とするもの、求めているものは、自分にとって得になるもの、自分が喜べるものです。いつも自分のことが中心で、自分の思い通 りに行かなかったり、自分のしたいことができないと 満足できないものです。例えば、会社の中で出世したいとか、人々から注目を浴びたいとか、財産を築きたいとか、 いつも自分がスポットライトを受けるような立場にいたいものです。しかし、天国は、そのようなものとは反対の方向にあることを教えるために、主はここで「方向を変えて幼子のようにならないと天国に入ることはできない」と言 われたのです。 別の言い方をすると、主イエスは幼子の中に、天国に入る神の民の特徴が見られると言っておられるのです。それでは主が考えておられた幼子の特徴とはなんでしょうか。第一に子供は従順な心を持っています。主イエスは、イスラエルの人々のためにいろいろな力ある働きをしたり、いろいろと教えておられましたが、多くの人は主イエスの言葉を受け入れることをせず、信じようとしませんでした。イエスから遠く離れて批判的な目で見ている人々が大勢いました。ところが、幼子はどうでしょうか。主イエスが小さい子供を呼ぶと、その子供はすぐに主イエスの招きの言葉に従って近づいてきました。それで主はこの幼子を弟子たちの真中に立たせたのです。大人ですと、イエスのそばに立つと、イエスの仲間だと思われないか。そうすると、人は自分のことをどう思うだろうか。変な噂を立てられて自分の立場が危なくなるのではないか、などといろいろと考えてしまって、すぐに行動に出られない人が多いと思いま す。幼子は、自分のために自分一人の力で生きて行こうなどと考えずに、自分を愛してくれる人、自分の世話をして くれる人に依存して満足しています。私たちも、幼子のように神様が招いておられる時に、あれこれ疑ったり、計算 したりしないで、神に依存して生きる道を選ぶ時に、今まで経験しなかったような平安を感じることができます。それは、パウロが言ったように、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。よみがえりの 主イエスは今、天において私たちのためにとりなしの祈りをしておられるので、どんな状況の中にあっても、私たちは圧倒的な勝利者となると約束されています。幼子が一番安心なのは母親に抱かれている時でしょう。私たちも、私たちのためなら命を犠牲にしてでも愛してくださる神様のそばにいる時が一番安全なのです。 子供の特徴の二番目は謙遜だと思います。子どもたちも決して罪がないわけではありません。わがままなことを言う時がありますし、高慢になる時もあります。しかし、そのような性質も大人とは比べものにならないと思います。パ ウロはピリピ書の中で「何事でも謙(へりくだ)って、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と戒めていますが、これがなかなか大人にはできないのです。自分の意見や考えを押し通 そうとしたり、自分が優越感を感じたかったり、 自分を少しでも他の人よりも優れているように見せかけたいものです。そのために、人間が集まるところにはどこでも争いが起こります。主とともに生活をしていた弟子たちの間でさえ、競争意識が働いていたのですから、教会の中にもそのような姿勢が、教会の一致や平和を乱してしまいます。では、幼子の謙遜とはどのようなものでしょうか。 幼子は自分の弱さを知っています。ですから、親に守ってもらうことを恥と思ったり、プライドに傷つくなどと考えることはありません。自分がえらい人間だなどとは考えていないでしょう。私たち一人一人は、全能者である神を前にする時、絶対的に清い神の前に立つとき、ほんとうに汚れに満ちた罪びとに過ぎません。幼子が自分の弱さを知っているように、私たちも自分の罪深さをはっきりと知らなければなりません。そのとき誰一人自分を誇ることはできません。ガラテヤ書6章3−4節にはこう書かれています。「だれでも立派でもない自分を何か立派であるかのよう に思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りでほかの人に対して誇れることではないでしょう。」 (2)幼子をつまずかせてはならない マタイの18章に戻りますが、主はこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。とかなり厳しいことを言っておられます。ここで「小さい者」とは幼子はもちろんですが、信仰をもったばかりの人、まだ信仰が弱い人をもさしていると考えられます。主は 、そのような小さな人、弱さを持った人のために、信仰の強い人、いろいろな意味で強い人が小さい者たちのために 奉仕することを願っておられます。イエス様の言葉によれば、このような小さな人々、信仰の弱さをもっているような人々こそ天国に入るのにふさわしいと言われるのです。そのような小さな人々をつまずかせることを、主は非常に悲しまれて、それでこのような厳しい警告の言葉を言われたのだと思います。弱い人々をつまずかせるものはいろいろあります。心を傷つけるような言葉、汚れた言葉、不道徳、正しくない生き方などです。弱い人々をつまずかせることは、神様の心を痛ませるのです。逆に考えると、主は、私たちがこのような人々を助けることを願っておられま す。小さな人、弱い人、助けを必要としている人、そのような人々に仕えること、を主は喜んでくださいます。 天国にふさわしい人は、能力のある人、力のある人、優れた人ではありません。幼子のように弱くていいのです。ただ幼子のように純真な心で神様を信頼して礼拝するとき、主は大きな喜びを感じてくださるのです。自分を実際以上 に見せかける必要もありません。むしろ自分の弱さをよく知っている人を主は愛してくださいます。 旧約聖書の時代 にイスラエルの隣の国シリアにナアマンという非常に優れた将軍がいました。シリアの英雄でしたが彼には一つ大きな悩みがありました。実は彼はらい病にかかっていたのです。その悩みを知ったユダヤ人の召使から、ユダヤで多くの奇跡を行っていたエリシャという預言者のことを聞いたナアマンは使いの者と共にエリシャのもとへ出かけて行き ました。エリシャの家に着くと、その家の召使が玄関に出てきて、エリシャは「ヨルダン川に言って7回体を水に浸 しなさい」と言っていますと伝えました。シリアの英雄ナアマンは、自分自らエリシャを訪れ、おみやげまで用意していたのにエリシャが玄関に出てこようともしなかったことに腹をたて、帰ろうとしました。しかし使いの者から「 エリシャが指示したことは難しいことではないでしょう。やってみましょう。」と言われて、彼はヨルダン川に出かけました。彼には立派な将軍としてのプライドがありました。地位 がありました。人から指図されることのないナアマンは、そういう自分にまとわりついているものを一切捨てて、玄関にも出てこない預言者の言葉に従って、ヨルダン川に入り体を低くかがめてなければなりません。彼の心に葛藤があったかも知れません。しかし、彼が預言者の言 葉、つまり神の言葉に従って身を低くしたとき、どうなったでしょう。列王記5章14節には「すると彼のからだ は元通りになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」と書かれています。私たちが、幼子のように自分 を低くするとき、主がともにおられ大きな祝福を注いでくださるのです。 その名を聖ととなえられる方がこう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれてへりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』 (イザヤ57章15節) ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |