今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教11/26|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-11-26『死に至るまで忠実であれ』(黙示録2章8-11節)

 今日の聖書の箇所は、ヨハネの黙示録2章8節から11節までです。主イエスの弟子ヨハネは神から幻を与えられて、主 イエスが当時アジア地方、現在のトルコにあった7つの教会に送ったメッセージを書き記しました。これは聖書の他 の箇所と同じように、当時の教会が置かれていたそれぞれの状況に対するメッセージであると同時に、すべての時代のクリスチャンに送られたメッセージと解釈することができます。

 スミルナはアジアの花とかアジアの冠という名前で呼ばれるほどに美しい町でした。そして街の中心に、周りを陸地に囲まれた非常に安全な港があったために、スミルナは商業の街としても発展していました。また、アジア地方にあるローマの植民地の中で、最もローマに忠実な都市であり、街にはローマの神を礼拝するための立派な神殿が建てられていました。街には一年に一回有名な大会が開かれる競技場や、非常に大きな図書館、アジア地方最大の劇場などもありました。

 (1)クリスチャンとして生きる苦しみ
  このような街スミルナにあった教会に向って語られたメッセージの最初の言葉は「初めであり終わりである方、死んでまた生きた方が言われる」というものです。このイエス様に関することばはスミルナに住むクリスチャンにとって 深い意味があると思います。実は、スミルナのクリスチャンたちは激しい迫害を経験していました。9節に「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち」とありますように、スミルナでクリスチャンを迫害していたのはユダヤ人たちでした。スミルナに多くのユダヤ人が住んでいましたが、彼らはクリスチ ャンを激しく攻撃しました。それは最初にクリスチャンになった人々はユダヤ人か、ユダヤ教に関心を持っていた人 々でした。つまり旧約聖書の神を信じていた人々です。彼らは、イエス・キリストこそ旧約聖書の神が約束していた 救い主、メシアであると信じて、ユダヤ教を離れてキリストを信じるようになったからでした。

 彼らはローマ人を扇 動して迫害を激しくしていました。ユダヤ人はクリスチャンに関してありとあらゆる悪口を言いふらしていました。 私たちも聖餐式をしていますが、その中でパンを食べぶどう酒を飲むことを「キリストの体を食しキリストの血を飲 む」と言いますね。そのことからクリスチャンは人間の血を飲む連中だと言われました。また、彼らはローマ皇帝の 権威を認めていましたが神として拝むことをしなかったので、反逆の民であって何をしでかすか分からないと言われたり、偶像を拝まないので神を信じない恐ろしい連中だなどと言われていました。また、彼らは貧しさを経験してい ました。もともとスミルナでクリスチャンになった人々の多くが下層階級に属していて、多くは奴隷でした。また、 当時、クリスチャンを嫌う人々は、スミルナだけでなくいろいろなところで、クリスチャンの家を襲って持ち物を壊 したり奪ったししていました。ですからクリスチャンとして生きることは決して簡単なことではなかったのです。

 クリスチャンの迫害としてスミルナの街では非常に有名な話があります。当時スミルナ教会の監督であったポリュカ ルポスという人の殉教の話です。彼は紀元155年の2月23日土曜日に殉教しました。その日、スミルナの町で一年に 一回開かれる競技会があったため町は人であふれていました。そのような興奮したような状況の中で、誰かが突然、 「あの無神論者ポリュカルポスを探し出して殺してしまえ」と叫びました。彼は逃げることもできたのですが逃げませんでした。逮捕する者たちがやってきた時には、彼らに「1時間だけ祈る時間をください」と願いました。逮捕する責任者も、ポリュカルポスの堂々とした態度に感動して、彼に向って「ローマ皇帝は神である」と言って犠牲をささげれば命は助かるのだから、そのほうがいいのではないですか。」と勧めてみましたが、ポリュカルポスはあくま でもイエス・キリストだけが神であると主張しました。彼は競技場の中に連れて行かれました。

 その時彼は神の声を聞きます。「ポリュカルポス。つよく、男らしくあれ。」ローマ総督はキリストを呪ってローマ皇帝に犠牲をささげ るか、それとも死ぬか、どちらかを選べと命令しました。ポリュカルポスは
「私は86年間キリストに仕えましたが、 キリストは一度も私を裏切ったことはありません。わたしを救ってくださった主をどうして裏切ることができるでしょうか。」
と答えました。彼は火あぶりの刑になりました。群集はそのために仕事場や風呂場に行って薪を集めて競 技場に持ってきました。その日は土曜日。ユダヤ人には安息日でどんな仕事もしてはならないはずなのに、多くのユ ダヤ人が群集にさきがけて木を集めに回りました。刑を執行する人もポリュカルポスに決心を変えるように勧めますが、彼の気持ちは変わりませんでした。人々が彼を縛ろうとすると彼は言いました。
「このままにしてください。火に耐える力を与えてくださる神は、わたしの体が釘で打ちつけられていなくても、炎の中でまっすぐ立ち続ける力を与えてくださいます。」

そして彼の体が縛られないままに、薪に火が点けられました。その時、ポリュカルポスは大きな声で天の神に向って祈りつづけました。有名な祈りです。長い祈りですが、その内容は
「私は主をほめたたえる 。私を殉教者の仲間に加え、キリストの苦しみにあずからせてくださり感謝します。聖霊の力により、魂と体を永遠の命によみがえらせてください。わたしをいけにえとして受け入れてください。私はあなたを褒め称えます。この賛美を永遠に天におられる主イエス・キリストに捧げます。アーメン。」
このようにして死んだポリュカルポスの体を 燃やした炎はすぐに消えてしまいましたが、彼が残した信仰は今までもきちんと残っているのです。

 (2)主イエスとは誰か
 そのような苦しみと貧しさを経験していたスミルナのクリスチャンに対して主イエスはどのようなメッセージを語られたのでしょうか。イエス様はまず言われました。「初めであり、終わりである方。死んで、また生きた方が言われる。」とあります。主イエスはどのような方だったのでしょうか。スミルナの人々は自分の町を愛していました。そ して自分たちの町こそがアジア地方で第一の都市だと確信していました。紀元26年に、アジア地方のいくつかの都市 が、皇帝をまつる神殿を建てるために競っていました。その時スミルナは強敵の町エペソを破って神殿を建てる権利を獲得しました。スミルナの人々は、いつも自分が一番、自分の町が一番だと誇っていました。しかし、このスミル ナの町のメッセージの最初に「主イエスこそ初めであり終わりである」と言われているのは、この町にあるどのような素晴らしいものも、主イエス、永遠から永遠にの栄光に満ちた主イエスに比べればまったく無価値であるということを現しているのではないでしょうか。この世で、他の人、他の町と比べて競っても、永遠の主の栄光を見る時に 、その争っている姿が本当に空しく感じられるのだと教えていないでしょうか。私たちは、この世の空しいもの、一 時的で永遠には続かないものを誇りにして競ったり、自慢したりしていないでしょうか。

 あるいは一時的なものを恐れてはいないでしょうか。先ほどお話しした殉教者ポリュカルポスは火あぶりの刑を言い渡された時に答えて言いました。
「あなたは火をもってわたしを脅かそうとしていますが、その火は一時的に燃えてもすぐに消えてしまいます。しかし、あなたがたは裁きの時に永遠の刑罰を与える火があることを知らないのですか 。さあ、わたしを好きなように処刑しなさい」

と言ったそうです。私たちの人生は明日どうなるか分かりません。し かし、永遠から永遠を支配しておられる復活の主、わたしたちの人生を最初から終わりまで守り導いてくださる復活の主が共におられると約束があるのですから、なにものも恐れる必要はありません。

 つぎに、わたしたちの主は死んでまた生きた方と言われています。主イエス・キリストは神でありながら人間に起きる最悪の出来事である死を経験されました。しかも、十字架刑は苦しみぬ いて死んで行くもので、死刑の中でももっとも残酷な刑でした。ヘブル人への手紙4章15節を読みましょう。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」 主イエスが私たちを助けることができるのは、主御自身が最悪のことを経験されたからです。あなたがどのような困難を経験しているとしても、主イエス・キリストほどの苦しみを経験してはいないのです。そして、この主キリストが、私たちを助けてくださいます。

 しかも私たちの主は十字架で死んだだけではありません。復活されたことによって人生最悪の出来事である死をも克服されたのです。死に勝利されました。だから私たちにも勝利の力を与えることができるのです。主イエスは言われ ました。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者は決して死ぬ ことがありません。」主イエスを信じる者は、肉体は朽ち果てても魂は永遠に主とともに生きると約束されています。だからもはや死ぬ ことはないのです。私たちの主は死の苦しみを経験されたからこそ私たちを慰 めることができる主ですし、復活を経験されたからこそ、わたしたちに永遠のいのちの希望を与えることができるのです。

 (3)スミルナ教会に与えられた約束
 スミルナ
教会に対して主イエスの命令は何だったでしょうか。それは「死に至るまで忠実でありなさい。」という命令でした。彼らには苦難が来ることが預言されています。10節に「あなたがたは10日間の苦しみを受ける」と書かれています。当時のユダヤの考え方では10日間というのは「そのうちに終わりが来る短い期間」を意味する表現でした。ですから、教会やクリスチャンに対する迫害は確かに激しいものがありますが、いずれ必ず終わりが来ることを意味しています。だから、主イエスは「死に至るまで」つまり「この世の生涯の終わりの日まで」忠実でいなさいと 命令しておられるのです。

 主イエスは7つの教会にメッセージを送っています。それぞれの教会に問題があり、主イエスはある時は厳しく戒めていますが、このスミルナ教会は迫害が厳しくありましたが、主イエスから何も責められていません。私たちの人生にも苦しいことが押し寄せて来るかも知れません。しかし、それらは必ず終わりが来るのです。だから、わたしたちはどんな時も、永遠の支配者、死にさえも打ち勝たれた主イエスへの信仰を失わずに、互 いに助け合い祈り合いながら信仰を守って行きましょう。スミルナ教会に与えられている約束は、わたしたちにも与えられている約束です。

 主イエスは2つの褒美を約束しておられます。その一つが10節にある「いのちの冠」です。 スミルナで行われていたスポーツ競技は非常に有名でオリンピックと同じように勝利者には冠が送られました。クリ スチャンも人生というレースを走っていますが、その人生に勝利の冠を得ることができると約束されています。それはいのちの冠。永遠のいのちの冠です。

 そして2番目の約束は、第二の死によって損なわれることがないことです。スミルナの人々は激しい迫害を受けていまし た。殉教する人も多くいました。主イエス・キリストを信じたために肉体の死、つまり第一の死を経験した人がたくさんいたのです。しかし彼らは決して第二の死を味わうことはありませんでした。

 聖書の教え私たちは肉体の死を経験した後、神を信じる者も神を信じない者も、その魂は残ります。神を信じる者の魂は神様とともにパラダイスに 行きます。パラダイスも素晴らしいところですが、魂だけの状態は不完全です。神を信じない人のたましいも「よみ 」と呼ばれる神様のいない所に移されます。そして世の終わりの時にすべての魂が裁かれ、神を信じないまま死んだ人は裁かれて永遠の滅びである第二の死を味わうのです。しかし、クリスチャンが第二の死を味わうことは決してありません。キリストを信じる者を滅ぼすものはこの世に何一つありません。そのことを覚えて、一時的な苦しみを経験することがあるにしても、私たちの勝利は変わらないのですから、この世の人生の終わりの日まで、主に忠実に仕えて行きましょう。

 最後に「ローマ人への手紙」8章38-39節を読みます。

38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も 、
39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

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