今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教12/03|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-12-03『真理の道から離れるな』(黙示録2章12-17節)

 今日の箇所はペルガモにあった教会に宛てられたイエス・キリストのメッセージです。ペルガモは、町はエペソやス ミルナほど大きくなかったのですが、すでに400年間にわたってアジア地方の首都でした。小高い丘の上に建てられ た都市はひじょうに文化が進んでいてとくに図書館が有名でした。その頃、本を作るには羊の皮を伸ばして作った羊皮紙が使われていましたが、面 白いことに羊皮紙という名前はもともとペルガモの紙という意味でした。

 ところで黙示録はペルガモの町のことを、13節で2回繰り返して「サタンの王座」とか「サタンの住む」と言っています。サタンの座とは、キリスト教会が特別 に悪質なもの、キリスト教の信仰に敵対するものとして見なしていたものを意味すると思われますが、それが何かと言うと、ペルガモの町で行われていたローマ皇帝の礼拝だったのです。ローマとい うのはもとっもと女神の名前です。そしてこの女神の霊が一人の人間、つまりローマ皇帝に入っていると考えられるようになり、皇帝を祭る神殿が建てられるようになりました。ローマの政府は、皇帝礼拝を行うことによって帝国をまとめることができると考えていたのです。
 
  やがて
法律が作られて、一年に一回、ローマ市民は必ずその神殿に行って、線香をたいて「ローマ皇帝は主です」と告白することが求められました。そしてこの礼拝を行ったものには、その証明書が与えられました。この礼拝はどちらかと言うと政治的な礼拝でしたので、市民は「ローマ皇帝が主である 」と告白さえすれば、自由に他の神を礼拝することが許されていました。しかし、クリスチャンは「ローマ皇帝が主 である」とはどうしても告白できませんでした。クリスチャンにとってはイエス・キリストだけが主であり、他のど んな人間も「主」であると認めることはどうしてもできません。そのことが政府の役人を怒らせて、そのために、ク リスチャンは迫害を受けることになるのです。ペルガモはローマ皇帝の礼拝がとても盛んな所でしたので、とりわけ クリスチャンにとって生きることが難しい都市でした。それで、サタンの座と呼ばれたのだと思います。

 (1)キリストに忠実に生きる教会
  そのような厳しい状況のペルガモにあった教会はどのような教会であったのでしょうか。13節には「わたしは、あな たの住んでいるところを知っている。」と書かれています。この「住んでいる」という言葉は「いつまでも住む」と いう意味の言葉が使われています。普通クリスチャンは永遠の住まいは天国にあって、この世は一時的に住んでいる 所、寄留している所と聖書は教えます。しかし、ここでは「永住する」という意味の言葉が使われているのです。つ まり、ペルガモのクリスチャンたちは、ひじょうに厳しい迫害が起きていましたが、それを耐え忍び、ペルガモを離れずにそこにとどまりつづけました。

 私たちは、信仰生活に困難が生じると、それを避けたいと願ったり信仰を捨ててしまおうと考えることがあります。そのほうが一時的に楽だからです。しかし、このような逃げる姿勢は決して本当の勝利を得ることができません。むしろ、その困難を乗り越える時に、わたしたちは勝利を経験し強くなることができるのです。ペルガモのクリスチャンはとどまりました。しかも、かれらはキリストの名を堅く保って、キリストに対する信仰を捨てませんでした。キリストの名を堅く保ったとあります。クリスチャンたちは皇帝を礼拝するように命令を受けて、「主シーザーと言え」と言われると、「主イエス」と答えていたそうです。かれらはそのように して信仰を捨てませんでした。

 そのために、アンテパスという人は殺されてしまいました。この人が誰であるか分かりませんが、恐らくペルガモ教会のリーダーの一人だったでしょう。(伝説では、彼は金属で作った牛の中に入れられて焼き殺されたとありますが、真相は分かりません。)彼は自分のいのちをかけて信仰を守りとおしました。ギリ シャ語で証人という言葉は、後に殉教者という意味を持つようになります。それほど当時はキリストを信仰したために殺された人が多かったのでしょう。復活の主キリストは13節でアンテパスのことを「忠実な証人」と呼んでいますが 、この言葉は黙示録の1章5節にも出てきます。1章5節では、この言葉は主イエスを表わすために使われています。 つまり、イエス・キリストへの信仰を忠実に保つ人にはキリスト御自身の誉れと栄光が与えられることを意味しているのではないでしょうか。私たちにとっても信仰を持つことは必ずしも簡単なことではありません。しかし、忠実なク リスチャンとして生涯をまっとうする時に、必ず、わたしたちには、主御自身の名誉と栄光が与えられることが約束されています。信仰を持ちつづける限り、わたしたちの人生は決して無駄 であったり無意味であることはありません 。栄光に満ちた生涯なのです。

 (2)過ちを犯していたペルガモ教会
  ところがペルガモ教会には大きな問題がありました。主イエス・キリストに忠実ではありましたが、過ちを犯してい ました。14節、15節を見ると、この教会にはバラムの教えを信じている人々とニコライ派の教えを信じている人が いると書かれています。実はバラムの教えとニコライ派の教えは同じものと考えられます。バラムという言葉はヘブ ル語でニコライと言う言葉はギリシャ語ですが、ともに「人々を征服する」という意味を持っています。人々を征服する有害な教えでした。バラムと言うのは旧約聖書に出てくる人物ですが、ユダヤ人の間では、人々を不品行と偶像礼拝の罪に誘い込む悪い影響を意味していました。

 バラムの教え、ニコライ派の教えはともに、自由気ままな生活を勧めていました。彼らの教えでは、すでに律法は力を失ったので、もう規則も律法もないから人は何でも好きなこと をしてもよい。よいものは霊だけで肉体はもともと悪だから、体がしたいほうだいのことをしても問題ではない。ク リスチャンには神の恵みが与えられているからどこへ行っても何をしても害が及ぶことはなく、神の恵みによって守 られ、許される。これが彼らの教えでした。彼らはキリスト教の真理を自分たちに都合のいいものに変えてしまっていたのです。

 なぜそうなったのでしょうか。それは彼らが異教の社会に住んでいたことが原因でした。当時、クリスチャン以外の人々は誰でも偶像に供えた肉を食べていました。また、性に関しても、純潔を守るという考えは全然なく、不倫することや結婚前にセックスすることも恥ずかしいことだとも悪いことだとも考えていませんでした。そのような社会の中でクリスチャンだけが特別 変わった人間として生きるべきなのかどうかと迷うクリスチャンがいたようです。特に上流階級の人々にとって、クリスチャンとして聖書の教えに従った生き方を徹底すると損をすることが おおかったので、彼らはできるだけギリシャ・ローマの社会の中で妥協しながらクリスチャンとして生きようとしていました。

 ペルガモの教会の人々が皆、そのような教えに従って生きていたわけではありません。先ほども言いましたように大 部分の人々は迫害を耐え忍んで、忠実なキリストの証人として生きていたのです。ところが中に、このような自分に都合のよい教えを信じている人たちがいて、彼らがペルガモの教会に悪い影響を与えていました。ニコライ派の人々は教会がこの世の習慣とこの世の道徳観とに妥協するように勧めていたのです。

 そのような人々に対してぺルガモの教会は厳しい態度を取らず、彼らを放ったらかしにしていました。そのことに対して主の裁きが告げられたのです。 「悔い改めなさい。そうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」悔い改めなさいと言われました。悔い改めるとは心を入れ替えて、その結果 行動も変わることを意味します。 私たちはこの世と調子を合わせてはいけないと教えられています。私たちは、知らず知らずのうちにこの世の教え、この世の価値観などの影響を受けて、いつのまにかそれに合わせて生きていないでしょうか。自分だけが違う生き方をすることに恥を感じたり恐れを感じていないでしょうか。私たちはこの世の考えに従って生きるためにクリスチャンになったのではありません。塩が塩気を失うと何の役にも立たないように、クリスチャンの自分の信仰姿勢を失ってしまったら何の役にも立たなくなります。

 ペルガモ教会の状況は深刻でした。ですから悔い改めないならば主の厳しい裁きがあることが語られています。今の生き方を悔い改めて新しく生きなさい。そうすれば祝福が山ほどあります。神様の言葉を聞いていながら悔い改めないならば、神様の裁きが来るのです。ある意味で、教会はいつもいつも居心地の良い場所であってはならないのです 。罪に対して、妥協する生き方に対してははっきりとした姿勢を取らなければなりません。

 例えば、わたしが病気にかかったとします。放っておけば死に至るような病気だとします。病気から解放されるのに一番良い方法は病院に行くことです。そこで少し痛かったりつらかったりするかもしれないけど、必要な治療を受ければ、病気は治ることができるでしょう。私は最近、歯が弱くなってしまっています。私は歯医者が嫌いです。好きな人はあまりいないと思いますが。あの椅子に座ると体が硬直してしまいます。先生は体の力を抜いてくださいと言うのですが、こちらは次にどんな痛みが襲ってくるのかと考えただけで体が硬くなってしまうのです。歯医者は決して居心地の良い場所ではありません。でも、治療を終えれば、歯の痛みがなくなり、悪いところが消え去って、また楽しくものを噛んだり食べたりすることができます。教会も病院と同じ役目を持っています。心ではなく魂の病院です。居心地はよくありません 。魂を診断して悪いところをはっきり教えます。しかし病院の目的が病気を見つけることではなく病気を治すことであるように、教会は、わたしたちの魂が本当に生きるものとなるために働く使命が与えられているのです。神様が悔い改めを迫るのは、そのままで生き続けると、結局その魂が滅んでしまうからなのです。神様は一人の罪人でさえも 滅びないようにと願っておられるのです。悔い改めを迫るのは、悔い改めるものにはたくさんの祝福が与えられるからなのです。

 (3)ペルガモ教会に約束されていること
 ここで復活の主イエスは、神様の言葉に聞き従う者にふたつのものを約束しておられます。隠れたマナ新しい名が書かれた白い石です。マナというのは旧約聖書の時代、エジプトから脱出したイスラエルの民が荒野を旅していた時 に神様が与えてくださった食べ物でした。その頃、毎朝、天からマナが降ってきました。イスラエルの人々は毎朝毎朝、この食べ物を集めて食べて生き延びていたのです。主イエスは、ある時、ご自分のことを、わたしは天から下ってきたパンであると言われました。主イエスは信じる者のために必要な霊的な助けを与えてくださいます。エペソ人への手紙の1章1-3節を見ると、主イエス・キリストは私たちに天にあるすべての霊的な祝福をもって私たちを祝福すると約束しておられます。私たちを選び出し傷のない者とにし、ご自分のこどもとするために、すべてのことを愛 をもって定めてくださいました。

 この世の中で自分の力で手に入れることのできるものとできないものがあります。 自分の努力によって財産や、社会的地位、名声を得ることができます。しかし、どんなに努力しても得られないいものもあります。例えば、心の平安とか内側からあふれ出るような喜びなどは努力によって得られるのではなく、神か ら与えられる祝福です。

 イエス様の説教の中に「幸いな人」というのがあります。「心の貧しい人は幸いです。」と いう教えです。ここで「幸い」と言われている言葉は英語の聖書ではhappyという単語ではなくblessedという 言葉が用いられています。それは、happy というのは happening と同じ語源で、「たまたまお金があるから、仕事があるから、地位 がある、健康があるから幸せ」という意味です。しかしそのようなものはいつまでもあるとは限りません。なくなる時が来ます。しかし、神様から注がれる祝福は、私たちが直面 する状況に関係なく注がれます。決して消えることがありません。キリストにあって、わたしたちはそのように消えることのない祝福、しかも天にある全ての祝福を得ることができるのです。

 もう一つ白い石とは何を意味するのでしょうか。いろいろな解釈があります。当時、裁判で判決を下す時に有罪の場 合は壷の中に黒い石を入れ、無罪の場合には白い石を入れていました。ですから、白い石とは主イエス・キリストの名のゆえにクリスチャンは神様の前で無罪となり義と認められることを意味すると解釈できます。また、当時はお守 りを身につける習慣があったのですが、そのお守りはたいていは普通の小石でした。そしてその石の上には神の名前が書かれていて、困った時に石に助けを求め、悪魔を追い払うことができると人々は考えていました。ここで白い石が与えられているというのは、主イエスが次のようなことを言っていることを意味するように思います。「ペルガモ の人々も、昔は異教徒同じように迷信のような名前や文字を書いたお守りを身につけてそれで安全だと思っていたかも知れないが、そんなものは何の役にも立たない。わたしがあなたに白い石を与える。そこには唯一まことの神の名前が書いてある。だからあなたはこの地上での生涯も、死んだ後も永遠に安全に守られているのだから、安心しなさい。」

 ペルガモ教会は二つの道のどちらを選ぶかと選択を迫られていました。悔い改めて神様が与えてくださる永遠の祝福を受け取るのか、それとも、今のままの生き方を続けて神様のさばきを受け取るのかと。私たちも同じチャレンジを受けています。あなたはどちらの道を進んで行きますか。

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