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今週の礼拝めっせーじ
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礼拝説教 2000-12-17『喜びなさい』(イザヤ35章1〜10)
しかし、そのような街の明かりも、クリスマスの飾りも、あるいは クリスマスプレゼントの楽しい包み紙も、それらがどんなに明るく光っていても、どんなに楽しそうであっても、私 たちの心の中をいつまでも明るくさせることはできません。メリークリスマスの楽しさを本当に味わうためには、ク リスマスの意味を知らなければならないのです。 主イエス・キリストがこの世に生まれる700年も前に、預言者イザ ヤは、主イエスの誕生を預言していました。当時、強大な敵の国に囲まれていたユダヤの人々は、大きな不安を感じて 暮らしていました。イザヤは、少し心が落ち込んでいたユダヤの民に希望のメッセージを語りました。「喜びなさい 」と言っています。このメッセージは、今を生きる私たちにも同じように語られています。「喜びなさい」でも、現 在のような政治・経済の先行きが不透明で、犯罪が増えている時代に私たちは喜ぶことなどできるのでしょうか。イ ザヤ書35章から、私たちはなぜ喜ぶことができるのかを考えてみたいと思います。 (本論) (1‐2節) しかし、そのようなところにも、神様の栄光が現れると、つまり神様の力が働くとサフランの花が咲き、しかも盛んに花が咲くとイザヤは言います。私たちは、常識的に考えて、どうして乾いた荒野にサフランの花を咲かせることができるのだろうかと思います。人間の常識、人間の可能性に基づいて考えるならば、とうてい起こり得ないことで す。しかし、聖書が語る神様の預言、神様の約束は、全能の神様の可能性に立っているのです。それが信仰です。現 実の世界がどのように荒野のようであっても、全能の神様はそこに花をたくさん咲かせることができることを確信することが信仰なのです。 アブラハムも信仰の人でした。パウロがローマ書4章でアブラハムの信仰について次のように述べています。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分の体が死んだも同然であることと、妻のサラの胎が死 んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、 反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じま した」(ローマ書4:19‐21)。聖書の信仰は、無からすべてのものを創られた神に、また、十字架から復活された神に期待して生きることです。 主イエスが生まれるとき、御使いはマリヤの夫ヨセフに対して「生まれる子供はインマヌエルと 呼ばれる」と言いました。インマヌエルは神が私たちとともにおられると言う意味のへブル語です。私たちが生きている今、私たちは一人ではありません。全能の神がともにおられるのです。そして、私たちの人生の中にも神の栄光 、神の威光をあらわしてくださると約束してくださるのです。ですから、イザヤは、将来に大きな不安を感じて落ち 込んでいるユダヤの民に「喜びなさい」と語るのです。私立ちが今置かれている状況がたとえ荒野のように、水が全くなくていのちがないように思えても、全能の神にはそこにも花を咲かせることができるのです。そのことを知るとき、私たちは喜ぶことができます。 (3‐4節) 私たちの人生には困難が次々に続くことがあります。しかし、イザヤは、
そのような困難の中で祈りつづけて約束をつかむように命じています。それは4節にこうあるからです。『心騒ぐ者
たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを 救われる。」』 心騒ぐとは、心の中に恐れを感じることでしょう。悪魔は、私たちの心に巧みに入り込んできます。
そして私たちの心を見だし、騒がそうとします。私たちは、神に頼らず自分に頼るときに思い煩いが生じます。しか し、そのような私たちに、神様は語りかけておられます。「強くあれ。恐れるな。あなたの神を見なさい。」私たちの目はいつも神様に向けられていなければなりません。それ以外のものにとらわれていてはいけないのです。神様は
、私たちの困難を知っておられます。私たちの敵がどのような攻撃をしてくるかも知っておられます。神ご自身が、 私たちの敵である悪魔に復讐をしてくださるのです。神様は私たちのところに来て、敵に復讐し、私たちを救われま
す。 主が私たちの人生に入って来られるとき、私たちの人生が変わります。霊的な意味で言えば、私たちは、神の 愛、神の御心が見えない盲人でした。しかし、今は目が開かれて神様を礼拝する者へと変えられました。また、私たちの霊の耳はきこえませんでした。しかし、今は神の言葉に耳を傾ける者へと変えられました。足が不自由な者でしたが、今は正しく歩き、神様の働くことのできる者へと変えられました。 「アメージング・グレース」の作者ジョン ・ニュートンはその歌詞の1番で「私はかつては盲目でした。しかし、今は見えるようになりました」と書いていま す。彼は学校を中退して父親の船の乗組員になりました。その頃の彼は反抗的で乱れた生活をしていました。やがて 彼はアフリカで奴隷売買の仕事に関わるよになりました。非常に残酷な仕事をしていました。そんな彼がアフリカか らイギリスへ船で戻るとき、ひどい嵐に遭いました。彼は死を覚悟しました。そのとき彼は中世の聖徒トマス・ア・ ケンピスの「キリストにならいて」と言う本を手にとって読み始めました。聖霊が、ひどい嵐と、この本を用いてジ ョン・ニュートンの心に働き、彼はキリストを救い主として受け入れました。彼は後に牧師になるように召命を受け 、39歳で牧師になって大きな働きをしました。彼はメッセージの中でよく自分の若い頃の経験を証ししました。わたしはかつて目が開いていても見えない者でしたが、キリストを信じてから本当に見るべきものが見えるようになりま したと信仰告白をしています。また、肉体的に聞こえる耳を持っている私たちですが、私たちは本当に聞かなければ ならないものを聞いているでしょうか。この世には、汚れた言葉、不快な声、音、人の心を傷つける言葉・ゴシップ など、聞かなくてもよいものがたくさんあります。それらに邪魔されて本当に聞かなければならないものを聞いてい ないのではないでしょうか。 しかし、たとえそのようなハンディがあったとしても、その荒野のような悲しみの中に、荒地の中に水が流れるの です。神様は全能の神です。復活の神です。キリストは5つのパンと2匹の魚で5000人もの人のおなかを満たすこと ができました。この奇跡は荒野で起こりました。今も生きておられる神は、今日も、同じ奇跡を行う力を持っておら れます。たとえ、あなたがどんな悲しみの中にあっても、とても踊るような気分でなくても、神が働かれるときに、 鹿のように飛び跳ねる者に変えられます。神さまは荒野に道を砂漠に川を作られる神です。 「主は道を作られる」と いう歌があります。この歌を作った人は、ドン・モーエンという人です。彼はあるとき電話を受けて自分の兄夫婦がひ どい交通事故に巻き込まれて、夫婦と下の二人の子供は重傷を負い、長男は死亡しました。彼は証しの中で、そのとき、彼らに掛けてあげる言葉が思いつかなかったと言っています。彼は事故で死んだ甥の葬儀に向かうときにこの歌 を作ったそうです。彼の心にふと思い浮かびました。「主は道を作られる。私たちの目には見えない方法で働かれる 。荒野に道を砂漠に川を作られる。絶望的な状況の中にも希望を与えられる。」そして、一気に歌が出来上がって葬 儀の中で歌ったそうです。 (8節ー9節) 私たちはなぜ、主イエスを信仰しているのでしょうか。主イ エスが、罪の奴隷となっていた私たちを解放するために、ご自分のいのちという最も大切なものを犠牲にしてくださいました。クリスチャンは自分を誇る者ではありません。ただ、人間一人一人の罪を帳消しにするために、いのちを犠牲にされた主イエスを誇る者です。どんな過去があろうとも、どんな弱さを感じていようと、どんな苦しみを経験 していても、私たちにとって一番大事なことは主イエスの贖いを得ているかどうかということです。 10節には「主に 贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入る。その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみ と喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」とあります。私たちは、たとえ今悲しみを経験していたとしても 、喜ぶことができます。神様の全能の力を信じ、神様の深い愛を信じ、十字架で主イエスが完了して下さった贖いを 受け入れる者は、どんな状況でも喜ぶことができます。喜びましょう。私たちとともにおられる神様を愛し、神様だ けを見つめてまっすぐにこの世と神の世界を結ぶ大路を一歩一歩前進しようではありませんか。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |