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礼拝めっせーじ
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礼拝説教 2000-12-31『神と共に勇敢に生きる』(使徒28章11-16節)
今日の聖書の箇所は、使徒パウロの人生の終わりの部分を描いた箇所です。パウロの生涯は波乱に満ちた生涯でした 。もともと熱心なユダヤ教徒でクリスチャンを迫害していたのですが、復活後のキリストと出会って、突然クリスチ ャンになりました。そして、その後、ユダヤ人以外の人々にイエス・キリストを伝える宣教師になって、大きな働きをしました。もしもパウロがいなかったら、キリスト教は今のように世界中に広まることはなかったでしょう。しかし、彼の人生はいつも成功ばかりではありませんでした。楽しいことばかりではなく、むしろ辛く、悲しいこと、様 々な困難を経験しました。3回の大きな伝道旅行をし、そしてその後、裁判を受けるために囚人としてローマに出かけて行きます。ローマへ行く時の船旅も大変でした。途中で嵐にあってほとんど死にそうな目に会いました。彼の心も体も非常に疲れていたはずです。その彼が長い船旅を終えてようやくローマに着いたのですが、15節を見ると、そ の時、パウロのことを聞いたクリスチャンがローマから80キロ離れた港や50キロ離れた港までパウロに会いに来てくれました。パウロは彼らに会った時、これまでの苦労を忘れ、神に感謝し、非常に勇気づけられました。パウロは決して、いつもいつも元気で勇気に満ちていたわけではありません。第2コリント11章にはパウロの苦労が記されて いますが、パウロは次のように言っています。「誰かが弱くて、わたしが弱くないということがあるでしょうか。誰かがつまずいていて、わたしの心が激しく痛まないでおられましょうか。もしどうしても誇る必要があるなら、わたしは自分の弱さを誇ります。」このように疲れはてて気持ち的にも落ち込んでいたパウロに勇気を与えるために、神 様がこのようなクリスチャンの仲間を用意しておいてくださったのです。パウロは、この時裁判を受ける囚人として ローマに送られて来たのです。しかし、ローマのクリスチャンはパウロが囚人であることを恥とは思いませんでした 。それどころか彼らはパウロを暖かく迎えています。これはパウロにとってどれほど大きな励ましになったことでし ょうか。 実はパウロは一度もローマに行ったことがありませんでした。つまり、ローマ教会は彼が建てたものではなかったの です。しかし、ローマのクリスチャンの信仰は世界中に知れ渡っていました(ローマ1章8節)。ですから、パウロは いつかローマのクリスチャンに会いたいという強い願いを持っていました。また、ローマ教会の人々も噂に聞いてい るパウロ先生を一目見たいという願いを持っていたことでしょう。ですから、彼らはお互いのために祈っていたはずです。彼らが初めて会った時、パウロは神様に感謝を捧げています。それは、彼らが出会ったことは、ただ彼らの願 いがかなったことを意味するのではなく、そこには、神様の力が働いていたことを意味するからです。パウロもロー マのクリスチャンたちもお互いに祈っていました。ですから、パウロにとっても、ローマのクリスチャンにとっても 、この出会いは祈りの答えだったのです。彼らは互いにすべての事柄を信仰の目をもって見ていました。同じ状況でも、普通 に見るのと、信仰の目で見るのでは大きく違います。パウロはこれから2年間、いつも番兵に見張られて暮 らすことになります。どんな裁判が待っているかも分かりません。しかし、将来に対して不安がいっぱいあったはずです。しかし、彼は神様に感謝をささげました。わたしたちの人生はパウロと同じではありませんが、わたしたちも 自分の弱さを感じ、また将来に不安を感じています。しかし、パウロが神様に感謝を捧げて勇気を得ているように、 わたしたちも神様を見上げて、神様に感謝し勇気づけられると思います。どのようなことで神様に感謝することがで きるか考えてみましょう。 (1) 神様は決して変わることない方であることを覚えて神様に感謝をささげよう。 (2)御言葉が私たちを養いつづけてくれるので神に感謝しよう。
今から10年前、前の牧師の小田先生が辞められた後、私は仕事を続けながら月に二回礼拝のメッセージを語っていま した。代わりの牧師が見つからなかったからです。私は、このまま仕事と教会の働きを続けることができないと感じていました。そんなある日、わたしは日曜日の礼拝メッセージの準備をしながら説教集を読んでいました。それはイエス様が十字架にかかられる前にロバに乗ってエルサレムに入られると言う有名な箇所でした。マタイの福音書の2 1章でした。イエス様は自分のロバを持っていなかったので、他の人のロバを借りるのですが、イエス様は二人の弟 子に「向こうの村に行きなさい。ロバがいるから、それを私のところに連れてきなさい。そしてもしロバの持ち主が 何か言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。」という言葉でした。イースターの前の週に毎年読む箇所ですが、その時「主がお入り用なのです」という言葉が私の心に強く響きました。まるで、自分に向って言われている ように感じました。それまで、わたしは自分は牧師にはなれないと確信していました。自分は聖い人間ではないし、 人々にいろいろな心配りもできないし、とても牧師なんかになれないと思っていました。しかし、その時に読んだ「 主がお入り用なのです」言葉が頭から離れず、イエス様が、私のような人間でも、もし必要だ、使いたいと言われるのなら、仕事を辞めて牧師になるのが自分の進むべき道なのだと思いました。このように聖書は、読む人の心に働い て神様の思いを教えるのです。私は、それまで、いくつか仕事を変わりました。外国に住みたいという願いを持っていました。クリスチャンになった後も自分が牧師になるなんてことは一度も考えていませんでした。しかし、今、私 は、確信を持って言うことができるのです。本当に欠点の多い人間ですが、神様は私を牧師にするためにこの世にい のちを与えてくださったんだと確信を持って言うことができます。 この時だけではありません。他にも、小さなことですが、聖書の言葉によって教えられ、励まされ、慰められ、また 反省をさせられています。御言葉は、あなたが迷っている時に導きを与え、悲しんでいる時に慰めと励ましをあたえ ます。ですから聖書を与えてくださった神様に感謝しましょう。そして、勇気をもって新しい年に向って前進しまし ょう。あなたに必要なものを神様が御言葉を通して、来年も与えてくださるからです。 (3)聖霊なる神が私たちのために働いておられるので神に感謝しよう。 最後に詩篇46篇1―3節を読みましょう。この詩篇はルターが愛した詩篇でした。彼はこの詩篇から賛美歌267番を作り、絶えず歌っていたそうです。「神は私のとりで、私の助け。苦しい時に、すぐそばにいる助け。」ルターの宗教
改革は決して簡単なことではありませんでした。いつも人々から誤解され、多くの人々から批判され、時には「お前は悪魔だ」と言われました。ですから、ひどく落ち込むときもありました。私たちはルターのような偉大な人が苦しんだり悩んだりするのだろうかと思いますが、どんな人でも悩みや苦しみを経験しています。信仰者が願い求める人
生は、単に悩みがない人生ではありません。そのような人生はありません。しかし、たとえどんな悩みがあっても、 現実の生活の背後に、決して変わることなく、私たちを導き、私たちを助けてくださる神様がいること、つまり詩篇
46篇にあるように、すぐ近くに助けがあるということを見つけ出して行く人生です。このように神を自分を守る砦 、避けどころとして生きるとき、私たちは勇敢に生きることができ、人生の勝利者になることができます。あなたの
人生も、あなたのいのちも、この神の手の中にしっかり握られていることを覚えつつ21世紀に向かって前進を続けましょう。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |