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礼拝説教 2000-02-27
『永遠のいのちを生きる』(ヨハネ17:1−8)
今日はヨハネの福音書17章を読みました。いよいよ十字架が迫って来ました。この17章全体はイエス様のお祈りが記
録されています。イエス様がこの祈りをどこで祈られたのかはっきり分かりません。しかし、一つはっきりしている ことがあります。それはイエス様が力強いお祈りをされたということです。16章33節で、イエス様はこう言われまし
た。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです 。」そして続いてお祈りをされましたが、その祈りは次のように始まっています。「父よ。時が来ました。あなたの
子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。」この祈りの最初の部分でイエス様は繰り返して 「栄光」という言葉を使っておられます。イエス様はこれまでにも、いろいろな奇跡の業を行うことによってご自身
の栄光を現わされました。例えば、ヨハネの福音書2章11節を見ると、カナでの結婚式で最初の奇跡を行われた時に 、ヨハネは「ご自身の栄光を現わされた」と書いています。しかし、一番大きな栄光を現わす時が来たのですが、そ
れはもちろん十字架の苦しみを受けることを意味しています。十字架は、人間的な基準で見ると、重い罪を犯した人 が処刑される場所です。恥と苦しみしかない暗闇のような所です。しかし、神の目で見ると、そこは神の愛、神の栄
光が現わされた場所なのです。イエス様が栄光を現わすのは何のためであったかと言うと、イエスを信じるすべての 人に永遠のいのちを与えるためだったとイエス様ご自身が言っておられます。
今日のテーマは永遠のいのちです。ところが、私たち日本人は「永遠のいのち」ということにあまり関心を持って
いないようです。「今を楽しく生きることが大切なのであって、死んだ後のことなんか考えたってしょうがない。」 そんなふうに考えている人が多いと思います。でも、いのちほど大切なものはないのに、そんなに軽く考えていいの
でしょうか。私たちは結婚式を催すとき、会社の会議を行うとき、細かいところまで気をつけて、きちんと終わるよ うに計画を立てるのが普通ですが、いのちのことになると、どうも終わりを考えたくないのか、いい加減にされてい
るように思います。別の言い方をすると、実はその終わりを考えると恐ろしいので考えたくないと言うのが本当のところかも知れません。
イエス様がお祈りの中で、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされ
たイエス・キリストを知ることです。」と言われました。私たちが「永遠のいのち」という言葉を聞くと、いつまで も生き続けるとか、死んでもいのちが続くとかその程度にしか考えません。しかし、聖書が言う「永遠のいのち」と
は、私たちの地上の生活がいつまでも長く続くことを意味するのではありません。第一、もし私たちの地上の生活が いつまでも続くとどうなるでしょう。長く生きることは本当に素晴らしいことなのでしょうか。長く生きると体がど
うしても弱ってきます。精神的にも弱さを感じます。そのような状態がいつまでも続くと、それはむしろ苦痛になる のではないでしょうか。また、今の時代は暗いニュース、恐ろしい事件が余りにも多いですね。となると、いつまで
も続くただ時間だけが長い人生が祝福だとは言えません。むしろこんないやな時代からは早く消えたいとさえ思うこ ともあるでしょう。人生の価値は長さにあるのではなくて、どのようないのちであるかが問題だからです。
それではイエス様は「永遠のいのち」をどのようないのちだと言っておられるでしょうか。第一にそれはイエス様が与えてくださるいのちです。14章6節でイエス様は「わたしは道であり真理でありいのちです。わたしを通
してで なければ、だれ一人として父のみもとに来ることはありません。」と言われました。しかも、イエス様は私たち一人 一人に永遠のいのちを与えるために十字架の苦しみを受けられました。この祈りは十字架の前に祈られた祈りですが
、すでにイエス様の心の中では十字架の苦しみを受ける覚悟が決まっていたからでしょう、「わたしは救いのわざを 成し遂げました。」と完了形で話しておられます(四節)。このイエス様が私たちのために苦しみを受けられたから
、この永遠のいのちが与えられました。そういう意味で、私たちはただ「神を信じます」という告白だけでは永遠の いのちは与えられません。ヤコブの手紙を見ると、ただ神を信じると言うのであれば、悪魔だって信じていると言っ
ています。(2章19節)「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう 信じて、身震いしています。」また、イエス様は当時の宗教家や聖書学者たちに向かってはっきりと言われました。
どんなに神に関する知識が深くても、宗教的な行いに熱心であっても、それが永遠のいのちを与えるのではありませ ん。ですから、永遠のいのちは、私たちが自分の知恵や行いを働かせて、自分の努力で手に入れるものではありませ
んし、そのようにして手に入れることはできません。永遠のいのちは神様が喜んで私たちにプレゼントしてくださる ものです。そのプレゼントを受け取る条件は、自分の罪を認めて悔い改めることです。それには、社会の地位
や財産 また権力などまったく関係ありません。ただ神と人間を引き離している、自分勝手な心、罪を認めて、その罪に支配された生活から新しい永遠のいのちの生活に入ることを決心しなければなりません。
私たち人間はだれもが生まれながらにして自分中心の心、わがままな心、罪を持っています。人は皆罪をもって生まれてきます。ですから、誰からも教えられなくても、外から「こういう風にするのが罪だよ」と新しい情報がイン
プットされなくても、私たちは罪を犯すのです。わたしたちの思いも、言葉も、行いも、みな罪の支配を受けていま す。とにかく自分が大切ですから、人を傷つけてでも自分の願いを果たそうとしたりするのです。神様は完全に聖なる神ですから、罪を持った私たちと関係を持つことができません。しかし、感謝なことに、イエス様が十字架の上で
私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。わたしたちのあらゆる罪がイエスキリストの十字架の 血によってきよめられると聖書は教えています。だから、神を知るためにはどうしてもイエス・キリストが必要にな
ってくるのです。 そのような人々に主は喜んで永遠のいのちを与えてくださいます。そのために、ただその目的のために主イエスは神としての栄光も名誉も全部捨てて十字架の恥じと苦しみを受けてくださったのです。
第二の点は、永遠のいのちとは神様との交わりを意味します。17章3節でイエス様は「永遠のいのちとは父なる神
、御子キリストを知ることだ。」と言われました。神を知るということは、ただ単に神様についていろいろな知識を持っているということではありません。神様と人格的な関係を持つことを意味します。人格的な関係というのは、ち
ょうど私たちが誰かと友達の関係を持つのと同じように神様とともに生きることを意味します。聖書を詳しく研究している人がすべてイエス・キリストを救い主だと信じているとは限りません。いくら主イエスについて、どのように生まれ、どのように生き、どのように死に、どのように復活したかということを詳しく知っていても、主イエスに対
して、神として尊敬し、神として従おうという気持ちがなければ、主イエスと関係を持っているとは言えません。つ まり、私たちの生き方が変わっていなければ本当に神様との関係をもって生きているとは言えないのです。
聖書の神は、人間よりも少し力あるお方というような種類の神ではありません。私たちが住むこの世界を造られた
神です。時間も空間も超えている無限の力を持った神なので、私たちの目で見ることはできません。このような神様 は唯お一人です。ですから、あとの神は、人間がまことの神に似せて造った偽りの神、偶像です。もともと私たちは
神のかたちに造られています。ですから、罪が入って来たために神から引き離された人間は絶えず漠然とした不安や 孤独を感じるのです。そのために何かを神にしなければ心が落ち着かず、それで偶像を作り、偶像を拝んで、偶像を本当の神だと信じきっているのです。
先ほども言いましたように私たちは自分のうちにいのちを持っていないのですが、御子キリストがいのちを持っておられて、それを私たちに与えてくださるのです。いつも賛美しているように、イエス様がぶどうの幹で私たちはその枝です。枝は幹につながっていなければ実を結ぶことはできません。しかし、結びついている者は、何もがんばら
なくてもいのちが幹から流れて来ます。このいのちは「さばきに会わないいのち」であると言われています。イエス ・キリストを信じる者はさばきに会うことはありません。私たちは、死ぬということと神にさばかれることとを心の
奥底のどこかで感じています。だから、死ぬことを恐れるのです。もちろん、肉体の苦痛も恐ろしいですが、実は、 死ぬということの中に「神のさばき」という恐怖が深く関わっています。ところが、罪を悔い改めてイエス・キリス
トを信じる者は、さばきに会うことがないとはっきりと言われています。聖書を読むときに神様が自分に向かって語りかけておられるように読み、祈るときに神様に向かって語りかけているように祈るクリスチャンは、神様との生きた関係を持っています。いくら人が神は死んだと叫んでも、私たちはこの関係を持っているために神を否定することができないのです。この世では恐ろしいこと不安を感じることがたくさんあります。しかし、神との関係を持っているときに、恐れや不安は消え去り言葉では現わせないような平安を感じることができるのです。
さて、私たちはイエス・キリストを救い主と信じイエスに従って生きることを決心するときに神の生き方である永遠のいのちに与る者となるのです。ところで、この永遠のいのちは私たちに具体的にどのようなものを与えるのでしょうか。1コリント15章13節を読みましょう。「こういう訳で、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中
で一番すぐれているのは愛です。」永遠のいのちである父なる神、御子キリストを知っているという関係は、わたし たちに信仰と希望と愛を与えてくれるのです。ヘブル書の11章は信仰の書と言われます。そこには信仰に生きた人々
が描かれています。アブラハムもその一人でした。彼はある時に神様の声を聞き、それに従いました。彼は行き先を知らずに生まれ故郷を離れました。ここに信仰がありました。しかし、彼の人生は決して完全なものではありませんでした。様々な失敗をし、道徳的にも失敗や罪を犯しました。彼の生き方は決して手本になるようなものではありま
せんでした。しかし、彼は失敗しても、罪を犯しても、悔い改めて神様の約束にしがみつきました。それで彼は信仰 の父と呼ばれたのです。信仰の世界は失敗を恐れる必要はありません。大切なことは失敗しないで従うのではなく、失敗をしてもとにかく従い続けることなのです。
また、神とともに生きる永遠の人生は希望を与えます。それは神の愛が注がれているからです。十字架で示された
愛によって私たちの罪は完全に許されました。過去の罪は問われません。ですから私たちは心に平安を感じます。それだけではなく、神様はどんなときにも希望を与えてくださいます。私たちは自分が生きることに意味を見つけようと必死になっています。なぜなら意味のない人生を過ごすことほど耐えられないことはないからです。聖書は、わたしたちに神の愛が注がれていると教えています。誰かに愛されていると知るとき、私たちが生きることに意味が与えられます。誰かを愛する時、誰かに愛される時、どんな困難が襲って来ても、人は生きることができます。多少つらいことがあっても、愛が人を支えて、将来に希望を与えます。永遠のいのちとは、私たちがこの悪と罪に満ちた世界の真っ只中で生きていても、どんなに裏切られたり、誤解されたり、いじめられても、自分のためにいのちまで捨てて愛してくださった方がいることを知ると、将来に希望が持てます。わたしたちは、今、この瞬間からこのいのちを生きることができるのです。愛されている喜びが希望を生み出すからです。希望は人生の力です。あなたもこの地上で神とともに生きる、この永遠のいのちを歩んでみませんか。
今から50年ほど前にアメリカ西海岸に住む女性が、女性として始めてイギリスとフランスの間を泳いでわたりまし
た。その女性は最初に挑戦したときは、あともう少しのところで力果てて失敗してしまいました。実は、その日、イ ギリス側に深い霧がたちこめて、海岸線がまったく見えていませんでした。実はもう普通
ならはっきり陸地が見えるところまで来ていたのに、その日は霧のため見えませんでした。彼女は希望を失って、力尽きました。陸に上がると 彼女は次のように言いました。「言い訳はしたくありませんが、もし、今日、霧がなくて陸地が見えていたら私は泳ぎきることができたと思います。」彼女は次の年にまた兆戦しました。その時は霧がありませんでした。彼女は見事に海峡を泳いでわたることに成功したのです。このように希望が生きる力を生み出します。あなたの人生は希望がありますか。どんなに今は、霧の中のようなわけがわからないような人生であっても、神様の助けは確かにあります。
神様が私たちとともにおられるのです。何を恐れることがあるでしょう。信仰と希望と愛に満ちた神様とともに生きる永遠のいのちの人生を、あなたは今日、始めて見ませんか。自分の罪を認めて、聖書に記されたイエス様の言葉にしたがって生きて行きますと決断するなら、神様の助けが十分にあって、あなたの生涯は永遠の保証を手にすることができるのです。
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