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礼拝めっせーじ
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| 礼拝説教03/12|礼拝メッセージ集|聖日礼拝| |
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礼拝説教 2000-03-12『苦しみを受ける主イエス』(ヨハネ18章1-11節) ヨハネの福音書17章には主イエスの長い祈りが記されています。主イエスは最後の晩餐を終え、弟子と話したりお祈 りをしたりした後で、いよいよ十字架に向かって進まれました。主は弟子たちと共によくゲッセマネ(油絞り)と呼 ばれるオリーブの木が生えた園に来ていました。2節に「イエスがたびたび弟子たちとそこで会合をされた」と書かれ ています。恐らく、主イエスは、街の賑わいから離れてそこで弟子たちと一緒に静かに祈られたのだと思います。そ のことはもちろん主イエスを裏切ったユダも知っていました。彼は最後の晩餐の途中で部屋を抜けてイエスを捕まえ るためにローマの兵隊やユダヤ教の指導者を呼びに行っていましたが、主イエスが弟子たちとお祈りに行くに違いな いと思って、彼らもまたゲッセマネの園にやってきたのです。 3節に「ユダは、一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人から送られた役人たちを引き連れて来た」と書かれています。こ の一隊と訳されている言葉はローマ帝国の軍隊の単位を現わすのですが、ふつうは600人の部隊を意味します。一人 の人間を捕まえるには実に大きな部隊が来たものです。しかも彼らはみなたいまつと武器を持っていました。主イエ スが十字架にかかられたのは過越しの祭りの時でしたが、この祭りはいつも満月のときに祝われていましたので、夜 でもかなり明るかったと思われます。それでも彼らはたいまつをもってやってきました。彼らは主イエスが木陰や洞 穴の中に隠れていると思ったのかも知れません。また、これまで、ユダヤ教の指導者たちは何度もイエスを捕らえよ うとしましたが、いつも捕まえることができませんでした。そのため、今度こそは絶対逃がさないぞと意気込んで来 ていたに違い有りません。それで皆しっかり武器を身につけてやってきました。ところが「イエスは自分の身に起こ ろうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て『だれを捜すのか』と彼らに言われました。」(4節)主 イエスは、自分のなすべきことを知っておられたのです。私たちの自己中心な心、すなわち罪の罰を身代わりとなっ て受けるため、十字架の苦しみを受けるために、主イエスは神の栄光を全部捨てて人となられたのです。ですから、 主イエスは逃げることも隠れることもなさいませんでした。 ユダヤ教の指導者が「ナザレ人イエスだ」と言ったので、主イエスは「それはわたしです。」と答えられました。 主イエスがそう言われると、6節を見ると、彼らは後ずさりして地面に倒れています。600人の兵隊とユダヤ教のリ ーダーたちが全員、主イエスの言葉に圧倒されて、まるで雷に打たれたみたいにばたんと後ろに倒れてしまったので す。ジョン・カルビンという宗教改革者はイエス・キリストはたった一つの言葉を口から出すだけで、人を倒すほど の力を持っておられる。」と言いました。確かに、イエス・キリストの力に打ち勝つ人間など一人もいません。キリ ストの許可なしにキリストを捕らえることなどできないのです。イエス・キリストはこの騒然とした場所に、たった 一人で600人以上の敵を前にして立っていました。人間的な見方をすると、イエス・キリストは絶体絶命です。とこ ろが、その時主イエスが「私である。」英語で言うと「I AM」と一言言われたと同時に、彼らは皆地面 に倒れてしまいました。 この時主イエスが言われた言葉は、実は旧約聖書に出てくる言葉と同じです。エジプトからイスラエルの民が脱出 する時のリーダであったモーセがある日、燃える柴の中から神様の声を聞きました。そこで彼は神様の名前を尋ねま したが、そのときの神は英語では「I AM」日本語では「わたしはある」となる答えをされました。実は、それと同じ言葉なのです。つまり主イエスはこの ときに自分が神であることを宣言されたのです。主は、その言葉だけでもこれほどの力を持っておられる方なのです 。主イエスは私たちの罪が許されるために自分の意思で、進んで十字架にかかられたのです。十字架を避けようと思 えばつかまらずに済むだけの力は十分に持っておられたのですが、ご自分の力を自分の意志で使われなかったのです 。この世界を造られたお方、この世の本当の支配者である神の前では、どんなにしっかりと武器を持っていても、ま たユダヤ教のどれほど高い地位についていた人であっても、まったく無力なのです。私たちは十字架で苦しむ主イエ スの姿を見慣れていますから、どうしても主の弱さが強い印象を与えます。しかし、忘れてはいけないのは、イエス は捕まって仕方なく十字架にかかったのではないということです。いくらでも避けることはできたのに、自分から進 んで十字架に掛かられました。それは、私の罪が許されるためであり、あなたの罪が許されるためでした。 ヨハネの福音書15章13節に「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない。」と言われて います。主イエスが、神の栄光を捨ててまで十字架に掛かられたのは、私たちが罪のさばきと力から解放されて新し い生き方、平安と喜びと希望に満ちた生き方をするためでした。ギリシャの言葉に「友達には3種類ある。利益のため の友、快楽のための友、徳のための友の3種類である。」というのがあるそうです。しかし、どの種類の友も、結局は 自分がその友達から何かを得るためにあるような印象があります。しかし、主イエスは讃美歌で歌うように「いつく しみ深き友なるイエス」なのです。主イエスは神の栄光を捨てて貧しい者として生れ、生涯、自分の家も持っておら れませんでした。そして当時の社会から除け者にされていた病気の人、やくざ、罪人、障害を持っている人、の友と なってくださいました。それだけでなく、ご自身の命まで捨てられました。あなたが、たとえこの世の中で人々から 除け者にされていても、誤解されていても、嫌われていても、孤独の中に生きていても、覚えていて下さい。主イエ スは永遠に変わらない、いのちがけの愛をもってあなたを愛しておられるのです。 主イエスの愛は、18章8節の言葉の中にも見られます。自分を逮捕しに来た大勢の者たちに向って言われました。 「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」自分がこれから殺されるというような 時にも、主は弟子たちのことを考えておられました。主イエスは弟子たちの弱さを知っておられました。今、この時 に弟子たちが逮捕されてしまったら、彼らの信仰が崩れてしまうことを知っておられたので、弟子たちを守ってくだ さいました。それで、「捕まえるのなら自分だけにしてくれ、この弟子たちは逃がしてやってくれ」と頼まれたので す。弟子たちを守るために、主は勇敢に死に向われました。主はいつも弟子たちの弱さに心を配っておられます。そ れは、今の私たちにもあてはまります。主イエスは私たちの弱さをもご存知で、その弱い私たちを守ってくださるの です。 主イエスは、神であるのに苦しみを味わわれました。それはすべて私たちのような罪人に対する愛から来ているの です。18章の前の17章は主イエスの長い祈りだと言いましたが、その祈りの終わりを少し見てみましょう。24節で 主イエスは次のように祈られました。「父よお願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所におら せてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を彼らが見 るようになるためです。」この祈りにあるように主イエスの願いは、弟子たちが天国にあるイエスの栄光を見ること なのです。地上で私たちが経験する喜び、幸せというのは天国で見る栄光とは比べ物にならないでしょう。主イエス は私たちがその栄光を見ることを願っておられたのです。そのために十字架という裏切り、苦しみに向ってまっすぐ に進んで行かれたのです。あなたも弟子の一人です。あなたが天の栄光を見ることが主イエスの願いなのです。その ために主イエスが十字架の苦しみを味わわれたのです。 最近読んだお話で今日のメッセージを終わります。それはアメリカの少女の話です。彼女はうまれつき上の唇が裂 けていました。学校に行くと、いつも友達からからかわれました。人から「唇どうしたの?」と聞かれるときは、「 いつも転んでガラスの破片で切ってしまったの」 と答えることにしていました。生まれつき人とは違う唇で生れてきたことよりも、事故で苦しんだという方が彼女に はまだましだと思えたからです。でも彼女の人生を変えた学校の先生がいました。2年生のときにクラスで聴力の検査 がありました。検査のやり方は生徒が壁の所に立ち、先生が離れた所から小さな声でささやくという方法です。たい ていは「空は青い」とか「私の神の毛は黒い」とかそのような文章を先生がささやくのです。その少女の検査の順番 が回ってきました。壁のところに立って先生が何を言うのかなと思って一生懸命耳を澄ませていると先生の言葉が聞 こえました。「あなたが私の娘だったらいいのに。英語では "I wish you were my little girl."この先生の言葉で少女の人生は変わりました。 この先生と同じように、神様は罪で心がゆがんだり、傷ついている私たちに向って「おまえが私の子供だったらい いのに」(I wish you were my son. I wish you were my daughter.)といっておられるのです。そのことを実現するために主は苦しみをものともせず十字架に進まれまし た。主の苦しみはあなたのためだったのです。あなたも一度しかない人生を、この主イエスの愛を受けて歩んでみま せんか。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |