礼拝めっせーじ
礼拝説教04/02|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-04-02 『真理の王イエス』 (ヨハネ18章33-40節)

(歴史的背景)
今日はイエス・キリストが裁判を受ける場面です。イエス・キリストが十字架にかけられる前に、実に6回も裁判をお受けになりました。その中で2回、主イエスはローマ 帝国から遣わされていた総督ルキオ・ポンテオ・ピラトの裁判を受けました。この頃 ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。BC66年にユダヤの国がローマに よって征服されてからずっと、ユダヤで一番権力を持っていたのは総督でした。その ため、ユダヤ人は当時勝手に人を死刑にすることはできませんでした。そういう権限はローマ人が持っていました。主イエスは木曜日の夜にゲッセマネの園というオリー ブの木が生えた庭で捕まってから、ユダヤ人の裁判を受けていました。まず、大祭司 アンナス、続いて大祭司カヤパ、そしてユダヤの議会の裁判を受けました。その裁判 の中で、主イエスが「自分はまことの神のひとり子である」とはっきりと言われたために、ユダヤ人の指導者たちは、イエスが神を冒涜しているから死刑にするべきだと決めました。このことは、実は裁判を行う前から、彼らは決めていました。そこで、 死刑を実行するためには、ローマ総督の裁判を受けなければならないので、ユダヤ人 の指導者たちは主イエスを総督ピラトの家まで連れて行きました。彼らはピラトを利 用しようとしていました。自分達だけで殺すことができないので、ローマ人が代わり にイエスを殺してくれるように計画したのでした。

ヨハネの福音書18章28節に、「彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。」と書かれています。イエスはおそらく朝の5時ご ろピラトの家に連れていかれました。ところが、ピラトはローマの人間です。つまり 外国人です。ユダヤ人の決めた言い伝えの中に、外国人の家の中に入ってしまうと体 が汚れるというのがありました。宗教的に汚れるとお祭りの食事ができないので、彼らは中に入ろうとしませんでした。そこで、ピラトの家の中庭にイエスがいて、主イエスを訴えるユダヤ人達は官邸の外にいるので、ピラトは中庭と玄関を行ったりきたりすることになります。

主イエスは神様を冒涜したという理由で捕らえられ、ピラトの前に立たされました。 旧約聖書のレビ記という書物の中にこういう命令があります。「主の御名を冒涜する ものは必ず殺されなければならない。」冒涜というのは、別の訳では神様の名前を汚すこととなっていますが、ユダヤ人にとっては神でない人間が「私は神である」と言うことは絶対に許せないことでした。ユダヤ人は、ローマ人やギリシャ人と違って、 神は唯一人の方、この世界を守り支配しておられる方という信仰を持っています。ですから、誰かが「私は神だ」と言うならば、死刑に価するほどの重い罪だと考えられていました。ところが総督ピラトはローマ人でした。誰かが自分は神だと言ったとし ても、その人の頭が少し変になったかなと思うぐらいで、それぐらいで死刑にするな んて考えられないことでした。ローマの人はローマ皇帝も神のように見ていましたし、他にもいっぱい神があって、それぞれの祭があればその神に拝んでいました。今の、日本とよく似た状況だったのです。ですから、ピラトは主イエスが死刑に価する ような者じゃないことが分かっていたのです。それでピラトはユダヤ人に向って、 「自分達の律法に従ってさばきなさい。」と言われました。すると彼らの答えは「私たちには、だれを死刑にすることも許されていません。」でした。つまり、彼らはど うしても主イエスを死刑にしたい。しかし自分達だけでは決められない。だから、とにかく主イエスを死刑にするために、ピラトに裁判をするように頼んでいるのですね。

それで、ピラトは仕方なくまた自分の家の中庭、イエスがおられる場所へ行きまし た。そして主に質問しました。ピラトの所へ連れてこられる前に、主イエスはユダヤ の大祭司の家で裁判を受けていましたが、主イエスが自分が救い主、神であると言っ たときに、そこにいた人々が怒り狂って、主イエスの顔につばを吐き掛ける、こぶしでなぐりつける、平手で殴るなどしたため、主の顔はつばに汚れ、殴られてひどく腫れ上がっていました。ピラトの前に立っていたのは非常にみすぼらしい若者だったのです。彼は「あなたはユダヤ人の王ですか。」と質問しましたが、それはピラトには この若者がとてもユダヤ人の王様には見えなかったからです。ピラトの質問に対して イエスは36節で次のように答えておられます。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人 に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のもの ではありません。」主イエスは、ご自分が王であることを否定しておられません。そ して自分の王国についてははっきりとこの世のものではないと2度言われました。それは、主イエスが王として私たちに与えようとしておられたのは、人間の力で生れる政治的な国、経済的な支配ではなく、この世の精神、この世の考え方に対立するものであると言われました。この世の国は力が物を言う世界です。強い者、権力を持つ者が有利な世界です。だから、だれもがどうしたら出世するか、どうしたらお金が儲かるか、そういうことばかり考えて生きているために、様々な問題があり、陰で泣いていたり、苦労していたりする人が多くいます。ところが、イエス様がわたしたちに与えようとしておられたのは、私たちの心の中に神の姿を回復することだったのです。 聖書は、人間は神のかたちに似せて創られたと言っています。それは外見だけではな く、心の中も神に似せて創られました。ところが、その心の中に自己中心という罪が 入り込んだために、本来すばらしかった私たちの心、神様の姿に似た私たちの心が傷つき歪んでしまいました。それを回復するために私はこの世界に神の王国をもたらすために来たと言われました。

それで、ピラトはもう一度主イエスに質問しています。みすぼらしく薄汚れた青年が 堂々と答える姿が彼には不思議だったことでしょう。「それでは、あなたは王なので すか。」それに対して、イエス様は「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生れ、このことのために世に来たので す。真理の属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」主が言われたのは、「自 分が王として治める王国は、真理によるものであり、真理に聞き従う人がその国民なのだ。」ということでした。この主イエスの言葉はピラトにとっては分かりにくいものだったので、彼はイエスに「それでは真理とは何ですか。」と尋ねました。というのは「真理」あるいは「まこと」という考え方が、ローマ人、つまり西洋人の考え方と、ユダヤ人との考え方が違っていたからでした。ローマやギリシャの考え方は、真 理とは事実と同じ事、嘘ではないことを意味しています。ところがユダヤ人の考え方としては、それ以上のことを意味しました。主イエスはポンテオ・ピラトに向って 「わたしは真理のあかしをするためにうまれ、この世に来た。」と言われました。これは「私は本当のことを言うために来た」ということではありません。主イエスは、 本来肉眼では見えない、無限に大きな神様のことを私たちの頭と目と耳とで分かるよ うに人間の姿をとってこの世に来られた方です。そして十字架を示すために来られた 方です。ですから言いかえると、真理のあかしとは十字架に示された神様の心を表わすものと言えます。私たちが礼拝で歌う賛美の中に「父の神の真実は」というのがあります。これは旧約聖書のエレミヤ哀歌3章22-23節の言葉を歌詞にしています。「わたしたちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。」とあります。ここにあるよう に、神様の真実というのは恵みと憐れみと深くつながっているのです。ですから、主 イエスがピラトに言われた言葉は「わたしは人々に神のいつくしみと憐れみを証しするためにこの世に来た」ということなのです。

旧約聖書の中に、もう一ついつくしみと憐れみとつながっている神様の真実を語って いる箇所があります。それは預言者ミカ書の7章です。預言者ミカが生きた時代も、 イスラエルの人々は悪に満ちていました。7章の2節に「敬虔な者はこの地から消え失せ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網 を掛け合って捕らえようとする。」この時、エルサレムには正しい人が一人もいない という絶望的な状況でした。神様は預言者ミカを通して現実の姿を語っています。5 節を見ると「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。」とありますし、6節には 「息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとに逆らい、それぞれ自分の家の者を 敵としている。」と絶望的な現実がつぎつぎに語られています。ところが、預言者ミ カはそのような現実のただなかでも、しかし、「私は主を仰ぎ見、私は救いの神を待 ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」彼は、どんなに現実がひどい状態であっても失望していないのです。そして預言しました。11節に「あなたの石垣を建て直す日、その日、国境が広げられる。」民が神に背を向けて悪を続けていた時に、 預言者ミカが確信をもって将来の回復を預言したのはなぜでしょうか。それは、この7章の最後18節以下に記されている彼の言葉が教えてくれます。「あなたのような神 が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。」そして最後20節に「昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコ ブに、いつくしみをアブラハムに教えてください。」と預言者ミカは祈りました。私 たち人間に対する神の愛、約束、ゆるしは、永遠に変わらない真実です。どんな状況 の中でも変わらないいつくしみと憐れみです。神は聖なる神ですから、罪を見逃すことが出来ません。罪を罰しなければなりません。しかし、もし神がイスラエルの民を 罰したとしたら、神の真実の愛は変わってしまうことになります。このような状況の 中で、神はご自分が御子イエスとして人間となり、罪のない者が十字架で私たちの代 わりにその罰を受けることを決められたのです。それは、私たちに対する神様の真 実、私たちを赦し、私たちを愛し、私たちをあわれむ神様の真実を貫くためでした。 私たちは、実は、みなエゴと罪に満ちた絶望てきな状態の人間です。他の人にはごま かせても、自分の心の奥底を見れば、結局、私も自分のことしか考えていないエゴイ スト、神の前には滅ぶべき人間なのです。さばきを受けても当然の者です。しかし、 そのようなエゴイストのために主イエスが真実を貫いて十字架にかかってくださっ た。これが私たちに本当に生きる意味、本当の命を与えてくださるイエス・キリストの真実です。これが私たちを生かしつづけてくれるのです。あなたは、一回だけの人 生をどのように生きて行きますか。結局、この世のこと、何が楽しいか、何が美味し いか、自分の学歴、自分の仕事、自分の外側のことばかりを求めて生きていくだけで しょうか。聖書は、それは滅びにいたる人生だと教えています。むしろ、目に見えるものは一時的であり、みえないものはいつまでも続くのですから、見えないものにこそ目を留めて真実の生き方をしようではありませんか。

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