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礼拝めっせーじ
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| 礼拝説教04/23|礼拝メッセージ集|聖日礼拝| |
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礼拝説教 2000-04-23『平安でありなさい』 (ヨハネ20章19-25) 今日は復活祭、主が十字架に掛けられた後、三日目によみがえられたことを記念する 日で、教会にとってはクリスマス以上に大切な日です。なぜなら、復活は私たちに とって大きな希望の日だからです。主イエスが死に勝利されたように、私たち信じる 者も、もはや死を恐れる必要がなくなったからです。 2000年前の人にとっても「死んだ者が復活する」ということは信じがたいことでし た。ですから、主イエスが弟子たちに繰り返しご自分が十字架の苦しみの後に復活す ると教えておられたにもかかわらず、弟子たちの中に復活を期待していた者はいませ んでした。それで彼らは、「その日の夕方、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて集まってい た」と書かれています。自分たちも主イエスと同じように殺されるかもしれないと恐 れていたのでしょう。一方、ユダヤ教の指導者たちは、イエス・キリストがご自身の 復活について話しているのを聞いていたため、ローマの兵士を墓につけて、弟子たち が主の死体を盗みに来ないように手配していました。人が期待していなくても、ある いは人はそれを妨げようとしても、神のわざを止めることはできません。主は確かに よみがえられました。イエスの墓が空っぽだったのです。誰もイエスの死体を見つけ ることができなかったのです。 そこで復活を認めたくない人々はいろいろと説明しようとしました。代表的なものが 二つあります。一つはイエスが完全に死んでいなかったという説です。墓に収められ た後、息を吹き返して、どこかへ逃げたというのです。しかし、これはありえないこ とです。十字架に掛けられる犯罪人はまずムチ打ちの刑を受けます。多くの人がこの 段階で死んだそうです。イエスは背中の激痛に耐えられず、十字架の木を運ぶ途中で 倒れてしまいました。十字架刑はあまりにも苦しいので、ローマ兵も憐れみの心から 途中で罪人のすねの骨を折りました。それは十字架に掛けられた人間は体が下がって くるために呼吸ができなくなります。そこで何とか体を持ち上げようとするのです。 その時手足に激痛が走ります。しかし、すねの骨を折られると体を持ち上げることが できず、早く死にます。それほど十字架の苦しみは大きいのです。しかし、ローマの 兵士がイエスのすねの骨を折ろうとした時、イエスはすでに死んでいたので骨を折り ませんでした。また、死体を降ろすときにも必ず兵士たちは本当に死んでいることを 確認したはずです。なぜなら、死刑囚を逃がした場合、自分たちが殺されるからでし た。たとえ死んでいなくても、そのような刑罰を受けて瀕死の者が、墓の中で息を吹 き返しても、墓の入り口をふさいでいた1トンもある大きな石を動かして、外に見 張っているローマ兵士から逃れて脱出できたでしょうか。しかも、もし生き返ったと したら、その後いつまでも隠れているでしょうか。 もう一つの考えは弟子たちがイエスの死体を盗んだというものです。そしてその後で 弟子たちが主が復活したとうわさを流したというのです。しかし、これもありえない ことです。弟子たちは、私たちと同じ弱さを持っていた人間です。主が逮捕される直 前に「たとえ死ななければならないとしても主に従って行きます」と誓っていた弟子 たちは、いざ実際に主が逮捕されると、皆、主を見捨てて逃げて行きました。さきほ ども言いましたように、弟子たちは、主の復活の夕方ユダヤ人を恐れて密かに集まっ ていたのです。彼らにローマ兵が厳重に見張っている墓に行って主の体を盗むほどの 勇気があったでしょうか。しかも、うそ偽りと分かっていながら、「主が復活した」 と人々に教え、迫害や殉教にもめげず、どうどうと伝道して行ったでしょうか。主の 復活の後、ローマ帝国の片田舎パレスチナでわずか120人から始まったキリスト教信 仰は、その後あっと言う間に地中間沿岸全域に広がって行きます。ペテロもパウロ も、多くの弟子たちが信仰のゆえに命を落としました。うそ、偽りのために、あの臆 病だった弟子たちがこのような働きをすることができるでしょうか。しかも、当時最 強のローマ軍が弟子たちの犯罪を止めることもできず、また、盗んだ遺体を発見する こともできないというのも考えにくいことです。いずれにしても、ローマ帝国の歴史 は、キリストの十字架と復活の後、大きく変わって行きます。そして300年後には遂 にキリスト教の国へとひっくり返るのです。 このように見てみると、あの時に何か大きなことが起こったとしか考えられません。 聖書は主イエスが確かに復活したと宣言しています。長々と主の復活の事実を証明す るために語りましたが、いくらそのような証明をしても、それだけでは私たちの生活 にはなんの影響も与えません。しかし、復活の主が弟子たちの前に現れて語られたよ うに、今も生きておられる主は私たちにも語りかけてくださいます。今日読みました ヨハネ20章19-23節のところで、弟子たちに向かって主は「平安があなたがたにある ように」と言われました。主が何よりも弟子たちに、あるいは今を生きる私たちに与 えようと思っておられるのは「平安」なのです。今日は、復活の主が与えてくださる 三つの平安について語りたいと思います。 1)私たちの過去に関する平安 2)私たちの現在に関する平安 3)私たちの未来に関する平安 私たちは、今、不安の時代に生きています。あなたはどうですか。しかし、ここに 「平安があるように」と言ってくださる復活の主がおられます。今も生きておられる 主はたえず私たちとともに生きてくださり、必要な助け導きを与えてくださる方で す。あなたも主イエスを信じて生きてみませんか。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |