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礼拝めっせーじ
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| 礼拝説教04/30|礼拝メッセージ集|聖日礼拝| |
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礼拝説教 2000-04-30『今も生きておられる主』 (ヨハネ21章1-8) 先週はイースター礼拝を二人の方の洗礼式とともに持つことができて本当に感謝で した。主イエスの十字架と復活によって世界の歴史は変わりました。BC(紀元前)つま りキリスト以前の時代から、AD(Anno Domoni)主の年、復活の主イエスがおられる時 代へと変わりました。しかし、それは世界の歴史だけではなく、私たちの個人の生活 においても同じです。キリストを知る前は、私たちは自分の願望、自分の考えに縛ら れて不自由な生活をしていました。しかし、復活によって死ぬことの恐怖や私たちを 縛る罪の力を打ち砕いてくださいました。もはや、わたしたちは一人で苦しみ闘って 生きるのではなく、神の子供として復活の主とともに本当の平安、希望をもって生き る時代へと移ったのです。 さて、多くの人はヨハネの福音書は20章で一旦終わっていると考えています。20章の 終わりは、まるで福音書全体の終わりのように、福音書が書かれた目的が記されてい ます。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あな たがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得 るためである。」では、なぜ21章が書かれたのでしょうか。 その目的は二つあったように思われます。第一に、それは、ヨハネが自分の親友で あった同じイエスの弟子ペテロに敬意を表わすためでした。この福音書が書かれたこ ろ、すでにペテロは殉教の死を遂げていました。ローマのネロ皇帝の迫害によって死 んだと言われています。彼は12弟子のリーダーでしたから有名ですが、彼の人生で一 番知られていることは、やはり、ペテロが主イエスを知らないと三度否定したことで はないでしょうか。ペテロはその後の人生でずっと自分の失敗の恥を背負って生きて いかなければなりませんでしたが、しかし、21章には主イエスご自身がペテロの信仰 を回復させておられる場面が出てきます。もう一つの目的は主イエスの復活が現実の ものであったことを知らせるためでした。当時、復活のキリストは弟子たちが見たま ぼろしに過ぎないと考える人が多くいました。しかし、ヨハネは復活の主キリストが まぼろしではなく、手には釘の跡、脇腹には槍の傷痕がある真の体をもって復活され たことを述べているのである。 主イエスは弟子たちにガリラヤで待つように言われました。エルサレムからガリラヤ までは大人の足で2,3日の旅です。彼らは主の言葉に従ってガリラヤに行っていまし た。11人の弟子たちのうち何人かは漁師でした。それで、ペテロが「私は漁に行く」 と言いました。すると他の弟子たちも一緒に出かけました。その時は皆で7人いまし た。ある人は、以前漁師だった彼らは何もかも捨ててイエスに従ったはずなのに、ま た漁師の生活に戻るのは間違っていると考えます。しかし、彼らはイエスの言葉にし たがってわざわざエルサレムからガリラヤまで来ていたのですし、湖のほとりで昔の 生活がなつかしくなって、気分転換のつもりで漁にでたのではないかと思います。彼 らは復活の主に会った後も、これからどのように生きていけば良いのかまだはっきり していなかったので、少し気分が落ち込んでいたのだと思います。彼らはもともと漁 師ですから、ペテロの提案にすぐに飛び付きました。そして、近くにあった船に乗り 込んで、湖の中でも魚が取れる場所を目指して沖へ漕ぎ出しました。慣れ親しんだ場 所です。経験も豊富です。どこに行けば魚が採れるか、彼らは良く知っていたはずで す。ところが夜は何も獲れませんでした。彼らの努力は無駄でした。 彼らはがっかりして岸辺に戻って来ました。その時、岸辺に復活の主が立っておら れましたが、朝もやがかかっていたでしょうし、朝日が逆光になったためか、彼らに は主イエスであることが分かりませんでした。しかも、この地方では、魚を買う商人 が漁師の帰りを待って岸辺に立っていることが多かったのです。主が「食べるものが ありませんね。」と言われました。漁師たちは岸辺に立って待っている魚商人たちか ら何か売れる魚があるかと尋ねられることが多かったので、弟子たちは、そういう人 だろうと思ったのでした。彼らは、少し恥ずかしい思いで「何もありません。」と答 えました。 しかし、私たちの主は失敗を成功に変えてくださる主です。気落ちしていた弟子たち に主は言われました。「船の右側に網を下ろしてみなさい。そうすれば捕れます。」 彼らがその言葉に従うと、たちまち多くの魚が捕れました。153匹と詳しい数字まで 記されています。網を引き上げられないほどの魚が捕れました。その時、弟子のヨハ ネは霊的な直感で、主イエスであることが分かりました。それで、彼は誰よりも先に ペテロに「あれは主イエスだ」とささやきました。それを聞くとペテロはすぐに行動 します。ペテロは漁をするために上半身は裸だったので、上着をまとって湖に飛び込 みました。とにかく、一刻も早く主イエスにお会いしたかったのです。わざわざ上着 を着て湖に飛び込む所がペテロらしいと思うのですが、彼は、きっと主にお会いする のに裸ではいけないと思ったのでしょう。彼は全力で岸辺に向って泳ぎました。船は 魚が一杯入った網を引きながらゆっくりすすみましたから、恐らくペテロが先に岸辺 に着いたでしょう。 これらの出来事は私たちにいろいろなことを教えてくれます。それは、彼らが最初、 神様から離れて自分が持っている人間の知恵や経験だけに頼って行う働きは空しいと いうことです。彼らは夜通し働きました。一生懸命働きました。しかし、主の祝福は ありませんでした。私たちも、自分の生活を優先して神様のことを後回しにすること がないでしょうか。仕事が忙しいから、受験勉強で忙しいからと主を第一にしないで 自分の計画を優先するところには主の祝福を期待することができません。私たちは、 神様の御心から離れて、自分の力や知恵だけにより頼んで何かをするとき、そこに神 様の祝福が注がれないことを知らなければなりません。 詩篇127篇に次のような言葉があります。「主が家を建てるのでなければ、たてる者 の働きはむなしい。主が街を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなた が早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主は 愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」私たちはいつも自分 は何をするべきだろうか、自分が何かをすることが大切だと考えがちですが、聖書は 何をするかではなく、人生の基盤が何であるかが大切だと教えていると思います。と いうのは、私たちは自分が目を覚ましている間、あれもしなければ、これもしなけれ ばと考えています。これは自分でコントロールできる時間を指していると思います。 しかし、人生には眠っている間もあります。つまり自分の力が及ばない部分があるの です。そこはどうなのかとこの詩篇は語りかけているように思います。自分がどうし ようもない時、あるいは気がつかずに過ごしている時、そうした時にも、復活の主は 働いてくださり、なくてはならないものを備えてくださるのです。だから私たちは生 きていけるのです。今も生きておられる主が、私たちの人生にこのように働いてくだ さることを信じて、信頼して歩んで行きましょう。その時、私たちは必要以上に心配 したり、悩んだりしなくなるのです。 しかし、今日の出来事はここで終わるのではありません。陸に上がって見ると、弟子 たちは、岸辺に炭火が起こしてあり、その上に魚とパンが載せてありました。そし て、弟子たちに「今とった魚を何匹か持ってきなさい。」と言われました。主御自身 が実は彼らのために食事を用意していてくださったのです。復活された主イエスは、 何よりも弟子たちを励ましたいと思われたのでしょう。そのために食事の準備をして くださいました。弟子たちは、復活の主と出会ってこれが三度目ですが、まだ彼らは イエス様と一緒にいても何となく落ち着かない、不安な気持ちになっていたと思いま す。彼らは、十字架にかけられた主がよみがえるということを頭で理解していても、 まだ妙な気持ちがしていたでしょう。確かに目に見える姿も、聞こえる声も同じです が、やはり十字架の前とは何か雰囲気が異なっていたと思います。そのような弟子た ちを主は食事に招かれました。いっしょに朝ご飯を食べようと言われたのです。ゆっ くりと食事を話しをしながら、彼らは前にも同じように食事をしたことを思い出しま した。主は、このように共にすごしながら弟子たちを励まし、必要を満たしてくださ いました。弟子たちは、復活の主イエスとともにガリラヤ湖畔でゆっくり食事をした ことを決して忘れることはなかったでしょう。ペテロも後に説教の中でこのことを 語っています。使徒の働き10章42節です。「私たちは、イエスが死者の中からよみが えられて後、ごいっしょに食事をしました。」 今も、復活の主は生きておられます。私たちが失敗や困難な中で落ち込んでいるとき に、私たちを励まし、満たしてくださる方です。聖書を通して霊的な食べ物であるみ 言葉を与えてくださいます。聖書の中には、私たちがどんな問題に直面していても、 それを乗り越える力を与えるみ言葉がたくさんあります。私たちは、毎日、祈ること と聖書を読むことを通して主イエスとの食事の時を持つことができます。復活の主は 今日も私たちを招いてくださいます。人生の中心を主イエスとの交わりに置くことが 一番大切なことなのです。主イエスはヨハネの福音書15章5節で言われました。「わ たしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人 の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができないからです。」主イエスが私たちに望んでいるこ とは、私たちが何かがんばって生きることではありません。人間の社会では、私たち は何ができるかということで評価されます。しかし、神様の評価は違います。わたし たちは、たとえ何もできなくても、そのままで評価してくださいます。求められてい ることは、私にとどまりなさいということです。神様をいつも第一にして、神様の御 心を第一に生きるときに、私たちは神様が期待しておられるような実を結びます。一 つは、御霊の実です。ガラテヤ5章22-23節に描かれています。それは、愛、喜び、平 安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。私は、このような実を結んでいるで しょうか。このような実を結んでいないとすれば、それは十分に主イエスとつながっ ていないことになります。他の人をさばくためでなく、私自身の点検のために、つね に、御霊の実を結んでいるかをチェックすることが必要です。この実を結んで生きる ときに、自然にもう一つの実も結びます。それは救いの実です。私たちが御霊の実を 結んで生きる時、それは人の目にも明らかになります。人々は不思議に思います。そ してその秘訣が十字架と復活の主にあることを知るのです。復活の主は今も生きてお られ、私たちとともに歩んでおられます。それは私たちが本当に実を結ぶ人生を生き るためです。弟子たちは、この後、送り出されて、いのちをかけた伝道人生に入って 行きました。あなたも実を結ぶ人生を歩んでみませんか。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |