今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教05/07|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-05-07『主イエスに従って生きる』 (ルカの福音書9章57-62節)

 クリスチャンとは、端的に言うと主イエスに従って生きる者です。しかし、主イエス に従う生活がどのような生き方を意味するのか、私たちは本当に理解しているでしょ うか。主イエスがいろいろな場所ですばらしい説教をし、多くの奇跡的な働きをする につれて評判が高まり、主イエスの弟子になりたいという人が増えてきました。しか し、その中には、主イエスと一緒にいれば、何か得になると、自分の利益を求めて弟子になろうとした人もいたのです。イエスはそのような人々の本心を見抜いておられました。そのことがヨハネの福音書2章23-24節にも記されています。「イエスが過越 の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたし るしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかっ た。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」今日の個所で は、イエスに従うことを願った三人の人のことが書かれています。そして、その三人に主は忠実に従って生きることの大切さを語られました。

 ルカの福音書9章51節を見ると「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、 エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられた」と書かれています。十字架 にかかるべき時がいよいよ近づいて来たことを知って顔をまっすぐにエルサレムに向 けて、主は弟子たちとともにガリラヤ地方からエルサレムに向けて出発されました。 顔をまっすぐに向けたという言葉から、主が緊張と決意をもって歩いておられる姿が 思い浮かびます。そのようにして彼らが道を進んでいる時に、三人の人が近づいて来 たのです。最初の人はこう言いました。「私は、あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」この人はマタイの福音書を見ると「律法学者」であることが分かります。学者というのですから、相当の年を取っていて地位 もあり人々の尊敬を集めていたと思います。その人がまだ30過ぎのイエスに向かって「ラビ(へブ ルの言葉で先生という意味)」と呼びかけています。当時、律法学者の多くはイエス が正規の学校で学んでいないとイエスのことを非難していました。しかし、この学者 は、恐らく、どこかでイエスの説教を聞き、また奇跡のわざを見ていたのでしょう。 イエスの弟子になりたいと思いました。それで「どこにでもついて行きます」と言っ たのです。自分の仲間が非難しているイエスのもとに来てこう言ったのですから、そ の願いは強かったと思います。しかし、その願いがどんなに強かったとしても、彼が イエスの弟子として生きることの意味を本当に理解していたかどうか疑問です。彼は 律法学者として、ある程度の地位と名誉を手に入れていたでしょう。素晴らしい説教 をするイエスについて行けば自分の経歴に何かプラスになると思ったかもしれませ ん。彼はイエスに期待していました。自分の益になることを期待していました。彼は 自分のことを考えていたのです。その彼に対して主イエスは言われました。「狐には 穴があり、鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」主イエスは自分 の家を持っていませんでした。ある人が「主イエスの生涯は借り物の飼い葉おけから始 まり、借り物の墓で終わった。」と言いました。主はガリラヤ地方ではカペナウムに あった弟子ペテロの家を使ったり、エルサレムの近くではベタニヤという村に住んで いたマルタ、マリヤ、ラザロの兄弟の家によく泊まりました。ご自分の家を持たない 主イエスは、いつも宿を提供してもらわなければなりませんでした。それで、主は自分に従う者は、そのために犠牲も払わなければならないことを教えられました。主イエスを信じて生きる者には多くの祝福と特権が約束されています。しかし、もし、 我々が、イエスを信じることによって自分の心が楽になるとか死の恐れが無くなるなど自分の幸福だけを考えるなら、本当のクリスチャンとは言えないのです。本当の平安、充実感が得られません。これは実に不思議なことですが、人は自分のことを考え 自分の利益ばかり考えて生きるときに平安がないのです。しかし、自分のことを一度忘れて、神のため、他者のために生きるときこの世のものが与えるのとは違う本当の平安があたえられます。この律法学者が主イエスに喜んでついて行ったとは書かれていません。何も書かれていませんから、イエスの言葉を聞いて何も言わずに立ち去っ たようです。

 続いて、主イエスは二人目の人に「わたしについて来なさい。」と言われました。す るとその人は「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」と言いました。 ちょっとおかしいと思いませんか。自分の父親が死んだのに、なぜこの人は父親のそ ばにいないで、こんな所にいるのでしょうか。ユダヤでは死体に薬を塗ってミイラにすることはありませんでしたし、気候の点からも、人が死ぬ とすぐに埋葬されました。実は、この「父を葬ることを許してください」というのは当時ユダヤ人が使って いた慣用表現だったのです。父が死んで遺産が分けられるまで父の面倒を見るのが息子の責任であるということを意味する言葉です。ですからこのような責任は20年も 30年も続くのでした。もしも息子がそのような責任を果たさない場合、遺産がもらえなかったり、その額が減らされたりしたそうです。ですから「父を葬らせてくださ い」というのは、「私が父の面倒を見て遺産をもらうまでは待たせてください」ということを意味します。この人は気持ちとしてはイエスに従って行きたいのですが、自分の生活、また自分の財産を守ることがもっと大切だったのです。主イエスは、この 人のことも見ぬいていました。この人は今従わなければ永遠に従うことはできないことを知っておられました。私たちも、信仰を深めたい、神のために働きたいと思うこ とがあります。しかし、実際には、実行に移すことができず、与えられたチャンスを 逃すことが多いのです。それで主イエスは彼に言われました。「死人たちには彼らの中の死人を葬らせなさい。」これは「この世のことはこの世の人々にさせておきなさ い。」という意味です。主イエスは父親ことなどどうでもいいと言われたのではありません。自分の人生のプライオリティーを正しくしなさいと言われたのです。父親が 死んで葬るのを待つ前に、魂が滅んでいる人々を救うことがもっと大切ではないかと いうことです。私たちの生活の中にはしなければならないことが多くあります。大切 なこともいっぱいあります。しかし、私が生きる使命として私にしかできないことが あります。神様が私にだけ期待しておられることがあるのです。ですから、他の人で もできることならば、それはその人々にさせておきなさい。あなたは、あなたの使命 に生きなさいと言われ、その人に「あなたは、出て行って、神の国を言い広めなさ い。」と言われました。しかし、この人も立ち去ったようです。

 さらに三番目の人が主イエスに近づきました。この人は主に従う前に、家族の別 れの 挨拶をしたいと言いました。別れの言葉を言うのにそんなに時間はかかりませんか ら、それぐらい問題ないと思われます。しかし、主イエスはこの人の心もよく知って おられました。彼は、まだ完全に主イエスに従って生きる決断ができていなかったよ うです。私たちが主イエスに従って、信仰の道を生きようとするとき、周囲の人々、 特に家族は、励ますよりも「やめたほうが良いんじゃないか」と引きとめようとする ことが多いのです。主イエスは言われました。「だれでも手に鍬をつけてから、うし ろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」畑を耕すときは、だれも後ろを見 ません。まっすぐに前を向いて耕して行きます。そうするとまっすぐに耕すことがで きるのです。私たちはいろいろなことを気にして生きています。いろいろな人の言葉 を気にして生きています。あるいは、昔は良かったなあと過ぎ去った過去の楽しい 日々を思い出して生きています。しかし、クリスチャンは過去に向かって生きるべき ではありません。また、過去の自分の過ちや悲しい経験を嘆きつづけて生きるべきで もありません。あたりをきょろきょろ見まわさないで、自分の前に置かれている神様 の約束、また神ご自身をしっかり見つめて前進して行かなければならないのです。過 去は十字架がすべて清算しました。今、私たちは神と共に生きることが許されていま す。私たちが本当に味わい手にする神の約束と祝福は私たちの前、つまり将来にある のです。

  キリストに従うことは確かに簡単なことではありません。しかしキリストに従って生 きる時、私たちは永遠に続く絶大なる価値を得るのです。そこに到達するプロセスが 大変でも、素晴らしい目標を目指して前進するのです。今年シドニーオリンピックが あります。選手は金メダルを目指して厳しい練習をしています。イエス様がある時こう言われました。「人がたとえ全世界を手に入れても、もし自分のいのちを損じたら 何の得になるだろうか。」この世で得られるものは、すべて一時的なもので、私たちが肉体の死を迎えるときに、すべて消えるか他の人のものになります。しかし、主イエスに従って生きるとき、私たちには永遠のいのち、永遠の希望が与えられるので す。多少の困難に負けずに、主に従い続けましょう。

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