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今週の礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2000-05-14『イエスの母マリヤ』 (ルカの福音書1章46-56節) マリヤとは「神から愛された娘」という意味です。伝説によると、マリヤは両親が 早く死んだために神殿に預けられていたそうです。そして14,15才になった時、神殿 の祭司がマリヤのために婚約者を選ぶことになりました。祭司は何人か候補になる人 を選んで、その人に杖を持ってくるように命じました。マリヤの夫になる人には特別 なしるしが現れるはずでした。一夜明けて、一本の杖に花が咲いていました。その杖 はヨセフのものだったというのです。祭司はヨセフを婚約者に選びました。ヨセフは ダビデの子孫。ナザレという町に住む貧しい大工でしたが、神を信じる真面 目な青年 でした。当時は結婚までに一年間の準備期間があり、マリヤは一人で結婚の準備をし ていました。 そのような時に、突然、不思議な声が聞こえました。「おめでとうマリヤ。恵まれ た方。主があなたとともにおられます。」それは天から来た神の御使いガブリエルで した。この言葉にマリヤはひどく戸惑いました。赤ちゃんの誕生を待っていたならと もかく、彼女は結婚に備えて純潔を守っていたのです。しかも、彼女は、当時の生活 習慣を考えるとまだ10代だったと思われます。突然未婚の母になるという知らせを喜 ぶことなどできるはずがありません。神様のご計画は、私たちの計画や考えを遥かに 越えているため、理解できない場合があります。このことが人に知られると、石打ち にされて殺されるかもしれません。ヨセフとの幸せな結婚を夢見ていたマリアは突 然、不安と絶望のどん底に突き落とされてしまいました。その時、御使いがマリヤに 言いました。マリアにこのことが神の奇跡であることを知らせるためでした。「あな たは神の子を宿すのです。これは神の業です。あなたの親類のエリサベツもあの年に なって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう妊娠6ヶ 月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」その時、マリヤは「神に とって不可能なことは一つもありません」という約束の言葉を受け取りました。今後 ナザレの町の人々が彼女のことをどう思うか分かりません。しかし、彼女は「あなた のおことばどおりこの身になりますように」と自分に与えられた神の計画を受け入れ ました。マリヤには自分がまったく予想もしていなかった計画を受け入れる勇気があ りました。 彼女は自分の妊娠が本当に主から来たものかを確かめるためにエリサベツに会いに 出かけました。マリヤの住んでいた町はイスラエルの北にあるナザレ。一方、エリサ ベツが住んでいたのはイスラエルの南エルサレムの近くだと思われます。普通 に歩い て2、3、日かかる距離を、危険も顧みずに彼女は出かけました。そして御使いが 言った通りであったことを発見するのです。それで、マリヤは感謝に溢れた歌を歌い ました。これはマグニフィカートと呼ばれるものです。ラテン語で彼女の歌が「マグ ニフィカート」という単語で始まるからです。それは主をあがめるという意味の言葉 です。これからどうなるか分からない状況の中でマリヤは神様の約束をしっかり受け 取りました。それでこのような信仰告白が出来たのです。この歌は3つの部分に分か れています。 (1) 神が自分にしてくださったこと(46-49節) マリヤがまず主に向かって言っていることは48節にあるように、主が目を留めて
くださったということです。神様は全世界の中から彼女に目を留めて彼女を選ばれま した。第一コリント1章には、「神は強い者をはずかしめるために、この世の弱い者
を選ばれた」という言葉があります。不思議なことに神様が選ばれるのはこの世的に 見て強い者、権力ある者ではなく、実は弱い者です。預言者サムエルがイスラエルの
2代目の王様ダビデが選ばれた時も、彼の兄弟7人がサムエルの前を通りました。彼 の兄弟は皆体格も立派で、サムエルは一人一人見るたびに「この人だ」と思うのです
が、そのたびに神様は「私が選んだのはこの人ではない」と言いました。最後に末っ 子のため、父親が忘れていたようなダビデが選ばれたのです。私たちは自分を軽く見
る必要はありません。また軽く見るべきでもありません。私たちが自分の人生を神様 にささげるときに、必ず神様があなたを大いに用いて、生きがいのある人生にしてく
ださるのです。 (2) 神様が私たちにしてくださること(50-53節) マリヤは神様が自分にしてくれたことだけではなく、私たちすべての者に神様がして くださることを歌いました。神様は特に三種類の人間に特別に祝福と恵みを与えられ ます。主を恐れかしこむ者、低い者、飢えた者と彼女は言っています。当時の人々の 大部分は、自分の権利を主張することのできない、貧しい人々でした。ローマ帝国の 人間と、ユダヤ人の一部が富を独占して、世の中は不正がはびこっていましたが、誰 にもこの制度を変えることはできませんでした。しかし、マリヤは神様がすべてのこ とをひっくり返す方だと主張しています。傲慢な人間は追い散らされ、権力ある者は 引きずり下ろされ、富む者も追い返されると見ていました。私たちがこの世の状況だ けを見ていれば落胆してしまいます。しかし、主を恐れる者に神様が大いなることを して下さると確信する時、希望が与えられます。 (3) 神様がイスラエルにしてくださったこと(54-55節) 主はその憐れみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになったと マリヤは歌っています。旧約聖書を見ると、イスラエルの人々は本当に不信仰でし た。神の言葉を信用せず、よく神様に不平を言っていました。それでも、神様はイス ラエルの民と一度約束を結ばれたので、イスラエルの態度がどんなに悪くても、神様 はご自身の約束を果たし、イスラエルを助けつづけました。神様はつねにイスラエル の民の味方でした。私たちは、時々信仰生活を勘違いすることがあります。信仰とは 私たちが何かをして神様を喜ばせることだと考えて、あれやこれをしなければという 行い中心型の信仰になってしまいます。ところが信仰とは、神がまずしてくださった ことに対する喜びと驚きから出発するべきものです。信仰とは、ある意味で、何かを することではなく、神様が私たちにしてくださったことを覚えていて喜び歌うことで す。マリヤがこの歌を歌ったのは、自分や、イスラエルの民や、すべての人々のした くださることのすばらしさを覚えて歌ったのです。 そしてマリヤは三ヶ月ほどエリサベツと生活してナザレに帰りました。そのころには もう妊娠していることが人の目にも分かったかも知れません。ナザレに帰ったら、自 分が人々からどう思われ、何をされるかも分かりません。三ヶ月の留守の間、人々が どんな噂をしていたことか分かりません。また婚約者のヨセフがどのような思いでい たかも分からなかったはずです。しかし彼女は覚悟してナザレに帰ることができまし た。しかし、マリヤが知らないところで、神様は婚約者のヨセフに御使いを遣わし て、彼にも素晴らしい知らせを告げておられたのです。私たちが、神様の約束を信じ て行動する時、私たちが知らないところでも神様は働いてくださるのです。 こののちの人生も、人間的に見ればマリヤは本当に幸せな生涯であったかどうか分 かりません。イエスが30歳ぐらいなると、イエスは家を出て、神の子としての働き を始めました。イエスが素晴らしい教えをし、奇跡の業をするために、主が行く所ど こにでも群集が集まるようになりました。しかし、イエスに対して妬みを持つ者が現 れ、しだいに対立が激しくなります。マリヤはそのような様子も知っていました。息 子に批判的なグループがいること、息子を殺そうとするグループがあるこなどを人か ら聞いた時のマリヤの気持ちはどうだったでしょうか。一度でもいいからイエスと個 人的に会ってゆっくり話をしたいと思っても、それはかなえられない願いでした。十 字架にかかる時、マリヤもイエスが十字架を担いで歩かれたビア・ドロローサでイエ スを見ていたことでしょう。また、イエスの弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行き ましたが、彼女は十字架のそばに生きました。息子の変わり果てた姿を見ました。イ エスが苦しそうに叫んでから、最後に「父よ私の霊をあなたにゆだねます。」といわ れてから、マリヤの目の前で息を引き取られました。イエスの体が十字架から下ろさ れました。マリヤはそのイエスのからだを膝の上に抱いたことでしょう。この姿をピ エタと言って、イエスを抱くマリアの姿の得や彫刻が多くあります。バチカンにもミ ケランジェロの作品が置かれています。しかし、彼女も確かに聞いたはずです。主イ エスの十字架の言葉を。「父よかれらをお許しください。彼らは自分で何をしている か分からないでいるのです。」マリヤは確信したことでしょう。「やはり、あの方は 神の子だったのだ。そして務めを完了されたのだ。」 人間的に見ると、マリヤの生涯は辛いことが多かったと思います。しかし、彼女は 神への信仰を決して失うことなく最後まで神を信頼しつづけました。使徒の働き1章 14節には次のように書かれています。「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリ ヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」 彼女は弟子たちと一緒にあつまって毎日お祈りをしていたのです。彼女は御使いから イエスの誕生を知らされた時から、地上の生涯を終えるまで神の御心に全てを委ね て、信頼し、信仰を貫いたのです。私たちも、マリヤほどではないとしても、自分で は分からないようなことが人生に起きるかもしれません。しかし、このマリヤを見 習って、「主のお言葉通り、この身になりますように」という主の御心を第一にして 人生を歩みつづけて行きましょう。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |