今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教05/21|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-05-21『主イエスを愛するとは』 (ヨハネの福音書21章9-18節)

 (イントロ)
  この間お話しましたように、ヨハネの福音書は後書きとして付け加えられたもののよ うです。それには二つの理由がありました。一つは主イエス・キリストの復活が現実 のものであったことを知らせるためでした。当時、弟子たちはキリストの幽霊を見て いるのだと考える人々がいたからです。もう一つの理由は、この福音書を書いたヨハ ネが弟子の仲間でリーダーであったペテロのために書いたものだということです。ヨ ハネとペテロは親友でした。ペテロという名前はイエス様が彼に与えた名前でギリ シャ語で「岩」という意味です。彼はキリストを信じる信仰のためにローマで殺され ました。その人生の最後は本当に岩のような堅い信仰を表わしていますが、最初から そうであったわけではありません。彼には一生忘れることのできない失敗がありまし た。ペテロは行動力があり勇気もあり、リーダとなる性質を持っていました。そして 自分に自信を持っていました。ある時イエス様が、すべての弟子が自分につまずくと 警告されました。その時ペテロは自信を持って答えました。「たとい、他の弟子が全 部つまずいても、私はつまずきません。」他の弟子たちも皆、「つまずかない」と言 いました。ところが、主イエスが十字架につけられるために逮捕されたとき、弟子は 皆、主イエスを捨てて逃げていきました。その後、ペテロは、イエスの後をつけて行 くのですが、その時に周りにいた人たちに彼が主イエスの弟子の一人であることに気 づかれた時、彼は三度も繰り返して「私は主イエスを知らない」と言ってしまったの です。三回の言葉は、だんだん強くなって行き、三回目は呪いをかけて激しく否定し ました。このペテロの失敗は4つの福音書のすべてに書かれていますが、マルコの福 音書の14章71節では「彼はのろいをかけて誓い始め、『私は、あなたたがたの話して いるその人を知りません』と言った」とあります。マルコの福音書は、後にペテロが 伝道活動をしたときに彼の通訳として働いていた人間ですから、この福音書は、実際 には、ペテロの言葉だと考えてもいいのです。彼は自分の失敗を正直に述べていま す。一方ヨハネの福音書を見ると18章の27節に意外とあっさり「それで、ペテロはも う一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」とあります。のろいをかけたということ は言っていません。それはペテロへの心遣いだと思います。

 いずれにしても、ペテロはイエスを知らないと3回言った夜、ほとんど眠ることがで きなかったでしょう。その次の日、イエス様が十字架にかけられた時、十字架のそば にペテロはいませんでした。おそらく群集のかげに隠れて、十字架の苦しみを受けら れるイエスの姿を見て何度も何度も泣いたことでしょう。そして、その後も自分を責 めつづけていました。彼は自分が強い人間だと思っていましたが、本当は、彼の心に あったのは臆病、いつわり、多くの弱さを抱えていました。彼が主イエスを知らない と言ったのは、彼が主イエス御自身とともに3年間を過ごし、いろいろな教えを受 け、いろいろな奇跡を見た後でした。しかもイエス様が最も助けを必要としていた時 の裏切りだったのです。それだけに、これまで自信に満ちていたペテロは絶望して、 まったく落ち込んでいました。

 しかし、そのように落胆していたペテロを一番心にかけていたのは主イエスご自身で ありました。まず最初のイースターの朝早く、主の墓が空になっていましたが、その 時墓に現われた天使がわざわざ「主がよみがえられたことを弟子たちとペテロに言い なさい」とペテロだけ名前をあげて言いました。主は、自分のことを知らないと3回 も言ったペテロを見捨てることなく、心にかけていました。また、ルカの福音書24 章33-34節を見ると「本当に主はよみがえて、シモン(ペテロの旧名)にお姿を現さ れた。」と弟子たちが話し合っていることが書かれています。もう一つ、第一コリン ト15章4,5節にパウロが主イエスの復活のことを語っているところがありますが、そ こに「主は聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロのヘブル 語名)に現われ、それから十二弟子に現われたこと」と言っていますから、主は復活 の後、まず弟子の中で個人的にペテロに現われてくださったことが分かります。その 時にペテロは、自分が、自分の命を守ろうとして思わず三回も主イエスを知らないと 言ったことを、その失敗と、またそれによって経験した恥と辛さの思いをイエスに告 白したに違いありません。そして主は、ペテロを赦し、もうそれ以上に悲しまないよ うにと言われたはずです。ですから、ペテロは個人的に、主イエスの赦しを受けてい たのですが、しかし、主はそれだけではなく、他の弟子たちの前でも彼の信用を回復 することが必要だと思われて、弟子たちが集まっているときに、ペテロに語り掛けら れたのです。他の弟子たちに主ご自身がペテロを赦し、新たに主の働きに任命したこ とを知らせるためでした。

 イエス様は間もなく弟子たちを残して天に帰られます。これからは弟子たちだけで伝 道をしなければなりません。イエスは、自分を3回も知らないと言ったペテロをもう 一度立ち直らせて、伝道の働きに用いたいと思われました。主イエス・キリストのた めに働くのには、どのような能力、どのような資格がいるのでしょうか。主はペテロ との質問の中で3つのことを言っておられると思います。

  (1)キリストを心から愛すること
  皆で朝ご飯を食べ終わった後、他の弟子たちがいる所で、主はペテロに3回質問をさ れました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛します か。」3回ともイエス様はペテロのことを、ヨハネの子シモンと呼びかけておられま す。これはペテロの本名です。昔の名前です。しかし、弟子になった彼に主は「岩」 かたく動くことのない「岩」という意味の名前「ペテロ」をお与えになりました。 「岩」のように堅い信仰に立って歩みなさいというイエス様の期待が込められた名前で した。イエス様は、この時にもう一度ペテロに新しい思いで伝道者になって欲しいと 思われたのでしょう。わざと昔の名前で呼んでおられます。イエス様が私たちに何よ りも求めておられるは「イエス様を心から愛すること」です。これがイエス様のため に働くのにどうしても必要なものなのです。彼は、これから教会の指導者として人々 を導かなければなりません。教会には疲れた人、重荷を負った人、こんなを経験して いる人、色々な人が集まって来ることでしょう。そのような教会の働き人、牧師は牧 という漢字が入っているように羊の世話をする羊飼いの意味があります。羊飼いに第 一に必要なものは愛です。それでイエス様は、わざと3回も同じ質問をされました。 それに対して、ペテロは「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」とだ け答えています。

(2) 本当の謙遜
  また、主のために働くのに必要なものは「本当の勇気」です。「愛」を表わすギリ シャ語はいくつかあるのですが、ここで主は二つの言葉を用いておられます。一つは 聖なる神に対して抱く尊敬の気持ちが込められた愛で、これをギリシャ語では「アガ ペー」と言います。もう一つは、人間的な相手を親しく感じる愛情を意味する言葉で 「フィレオー」と言います。主イエスはペテロに3回同じ質問をされましたが、最初 の二回は「アガペー」の愛で愛するかと尋ねられました。それに対して、日本語の聖 書では「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」となっていますが、こ の「愛する」はフィレオー使っています。つまり、その言葉の意味は、「イエス様、 私にはあなたをアガペーの愛で愛することはできません。しかし、私はフィレオーの 愛であなたを愛しています。」と答えているのです。3回目に主がペテロに質問され た時、主はペテロのレベルまで下がって、「じゃあ、確かにそのような愛で私を愛す るのだね?」尋ねられました。するとペテロが「主よ、あなたはいっさいのことをご 存知です。」とすぐに答えています。ペテロは主が十字架にかかる前の晩の食事の席 では、自信満々に「他の弟子たちがあなたを捨てても、私は絶対にあなたを見捨てま せん。」と言っていました。それで、主は1回目の質問では「あなたは、この人たち 以上に、わたしを愛しますか。」と尋ねられました。しかし、その質問にペテロは答 えずしばらく黙っていました。そして「私があなたをフィレオーの愛で愛することは あなたもご存知でしょう」と答えたのです。彼は、大きな失敗を経験して、前のよう に自分のことを自慢することができなくなりました。最後の晩餐の時は、弟子たちは 自分たちの中で誰が一番偉いんだろうと話し合っていたと聖書にありますから、ペテ ロも同じ気持ちだったに違いありません。何とか他の弟子たちよりも自分が優れてい る所を主に見てもらいたいと必死でした。だれも、互いの足を洗わなかったのもその ような弟子たちの間のライバル意識が原因でした。ところが、今は、ペテロも一番価 値の低い座席にすわる心が準備できていました。他の弟子の前に立てなくなっていた からです。しかし、実は、この心こそ主のために働くのに必要な心だったのです。主 は、きっと、他の弟子たちが見ている前でペテロの手を取って、「ペテロ、これから の働きをお前にまかせたよ。羊を飼いなさい。」と言われたことでしょう。ペテロの 失敗は、実は、彼のこれからの働きにどうしても必要なことだったのです。本当に謙 遜な人でないと神様は、神の働きにその人を用いることができないからです。

(3)何にも負けない勇気  
  主は、この世での働きを始めた時から、つねに遥か彼方に十字架がたっているのを 見ておられたと思います。主イエスがガリラヤ地方で働きと説教を始められた頃は、 人々が主の教えや奇跡にびっくりして大勢の人がついてきました。そのような時も主 イエスは十字架をいつも見ておられました。ですから、彼がニコデモというユダヤ教 の指導者と会って話しをした時も、主イエスは彼に「モーセが荒野で蛇を上げたよう に、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子に あって永遠のいのちを持つためです。」と言われました。主は、この地上での働きの 初めから、十字架の死という恐ろしいところに続く道を歩き続けられたのです。ペテ ロも同じような道を歩むことを主はペテロに預言されました。18節をもう一度読んで みましょう。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、 自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自 分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて 行きます。」かつて、自分に自信があったペテロは言いました。「主よ、私は牢獄で あれ、死ぬことであれ、何があってもあなたについて行きます。」しかし、彼は自分 の命を守るために、イエスを知らないとうそを言うという大きな失敗をしました。し かし、彼は変わりました。自分への自信を失ったペテロは、もはや自分に頼ることが できず神に頼ることしかできません。彼の祈りが変わったでしょう。彼の信仰が変わ りました。だから、今こそ、彼は働き人としての本当の準備ができたのです。その 時、主イエスはペテロが世の中の人々から憎しみや反対を受けて苦しむことを預言さ れました。ペテロは主イエスに対する熱い愛と、自分の弱さを知ったからこそ、それ に対する備えができました。本当の勇気を持つ人となったのです。  

 そしてペテロは、この後、パウロとともに福音を全世界に伝えるための優れた働き 人になりました。確かに一度はつまずきました。しかし、そのような者をも主は立ち 直らせて用いてくださるのです。そして主は言われました。「これは、ペテロがどの ような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」ペテ ロが殉教の死を遂げたことは聖書以外の当時の使用の中に書かれているのですが、彼 は実は、その死を通して神様に栄光を表わしました。私たちは、神様の栄光を表わす のは生きている時だけと思いますが、私たちは死ぬ時にも神様の栄光を表わすことが できるのです。ペテロは変わりました。私たちのために十字架にかかって死んでくだ さった主イエスを心から愛する者に変えられました。そして本当に謙遜な人に変えら れました。彼はつまずきましたが、私たちが何につまずくにしても、それは自分のこ とを考えているからです。しかし、彼は主イエスのことを第一に考える人に変えら れ、しかも主の任命を受けて他の人々のことを考える人になった時、彼は何にもつま ずかない勇気ある人になりました。イエス様は、私たちにも尋ねておられます。「あ なたは私を愛しますか。それなら、わたしの羊の世話をしなさい。」

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