今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教05/28|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-05-28『わたしに従いなさい』 (ヨハネの福音書21章20-25節)

 (イントロ)
  私たちは、他の人のことが気になります。あるいは、他の人と比べて生きることが多 いです。それはクリスチャンになっても同じです。クリスチャンになったら、誰もが 同じ生き方をするということはありません。みんな病気にならずに長生きするとは限 りません。みんな金持ちになるとも限りません。キリストと共に生きる者になりました。しかし、ひとりひとりの人生は異なっています。ですから、私たちには私たちに 与えられた人生があり、神様が与えられた使命がありますので、他の人と比べること は意味がないのですが、私たちは、なぜか他の人のことが気になるんですね。自分 のこと以上に周囲の人のことが気になるのです。だからテレビでもワイドショーと言 うのが人気があるのです。先週のメッセージでは、大失敗したペテロを主イエスが信仰を回復させ、新たに神のために働きなさいと命令を与えられた所を学びました。主 イエスは、ペテロに羊を飼いなさいと言われました。これは、ペテロが大好きだった ヨハネがペテロの名誉のためにこのことを書いたのだと、先週お話ししました。紀元1世紀の頃の教会を初代教会と言いますが、当時のクリスチャンも、今の私たちと変 わらず、人をいろいろ比較しては、自分なりの評価をしていました。当時、ペテロや パウロやヨハネはそれぞれ自分に与えられた使命を果たして生きていました。この福 音書が書かれた頃には、すでにパウロもヨハネも殉教の死を遂げていました。ヨハネ は一番長生きをしました。そのような偉大な働き人もそれぞれ人の好き好きがありま すから、当時のクリスチャンもよく彼らを比べていたようです。ある人は「パウロは キリストのために世界の果てまで出かけて福音を伝えた本当の伝道者だ。」とパウロ を誉めました。ある人は、ヨハネは他の人よりも考えが深く、すばらしい福音書を残 した、頭の良い立派な人だと考えました。ペテロは宣教の働きをするために世界の果 てまで行きませんでした。また、ヨハネのように深く考えるタイプでもありませんで した。しかし、彼にはイエス様から直接、キリストの羊、生れたばかりのクリスチャ ンのお世話をするようにという指示を受けていました。イエスの弟子たちも同じように自分と他の弟子たちを比べて生きていました。

 先週お話しした箇所で、主イエスはペテロに「あなたは年を取ると、他の人があなた に帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」と言われました。これ はペテロがどのような死に方をして神の栄光を表わすかを示しているとあります。ペ テロが殉教したことを教えているのですが、ペテロは、昔は、主イエスに従い切れず に自分の命を守り、自分の生活を守る者でしたが、彼は、その後、変えられて、他の クリスチャンの世話をする、あるいは指導することに生涯をささげ、命をささげるま で人々の面倒を見たことが分かります。彼が主イエスから「わたしに従ってきなさ い」と言われたので、彼がついて行こうとしました。その時、イエスが愛された弟子 がついて来ました。これはこの福音書を書いたヨハネのことを指しています。ペテロ はヨハネの足音を聞いて振り返りました。そこで、ペテロは主イエスに尋ねました。 「主よ。この人はどうなのですか?」 イエス様から「私について来なさい」と言われたペテロは嬉しかったに違いありませ ん。ところが従って行く時に私たちはいつも主イエスをしっかり見ていなければいけ ないのですが、彼は、ここでおヨハネの足音を聞いてうっかり主イエスから目を離し てしまいました。ペテロは以前にも主イエスから目を離すという失敗をしていまし た。ある時、嵐が吹き荒れるガリラヤ湖で、弟子たちだけで船に乗っていたことがあ りました。そこへ主イエスが水の上を歩いて彼らに近づいてきました。その時、ペテ ロは主イエスの所へ行かせてくださいと言って水の上を歩き始めました。初めは主イエスをじっと見詰めていたペテロは水の上を歩くことができたのですが、イエスから目を離してふと回りの荒れ狂う波を見て、彼は一気に怖くなりました。すると彼の体 が沈み始めたのです。私たちは、イエスを見ないで回りの状況を見ることは危険なことだということが分かります。この時、つい後ろからヨハネの足音が聞こえたのでペ テロは振り向いてしまいました。そしてイエスに「主よ、この人はどうなのですか」 と質問したのです。

 ペテロがなぜこのような質問をしたのかは分かりません。ある人は、それはペテロの 思いやりからでたものだと考えています。ペテロは同情心のあつい人間でした。ある人は、よくある他の人の人生がどうなるのか知りたい好奇心から尋ねたと考えます。 また、ある人は、ヨハネに対するライバル意識が働いたと考えます。ヨハネはペテロ のようにのろいをかけてイエスを知らないというといような失敗をしていませんか ら、きっとヨハネの方が自分よりもよい人生を送り、自分よりも良い死に方をするの だろうと考えたのかも知れません。ペテロの気持ちは聖書には書かれていませんか ら、想像するだけです。

 しかし、ペテロの動機がどのようなものであるにせよ、主イエスは彼の質問に対し てはっきりとお答えになりました。22節で「わたしが再び来るまで彼が生きながらえ るのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは わたしに従いなさい。」と言われました。 ペテロはどういう動機にせよ、ヨハネの 将来がどうなるのか知りたいという気持ちが強かったのですが、主イエスは、その質 問にはお答えにはなりません。ヨハネの将来がどうなるかということについてはっき りと話されませんでした。「わたしがヨハネが長生きすることを望んだとしても、それは、ペテロ、お前の人生とはまったく関係がないことだよ。」と言われたのです。 ペテロに対して、「あなたがしなければならないことは、わたしに従ってくること だ。他の人のことに首を突っ込むことではないよ。」と言われたのです。私たちは、 主から目を離し他の人のことを気にし始める時、大きな危険に直面してしまいます。 主は私たち一人一人に最高の計画を持っておられます。それを決めるのは神様の権威 によって決められるのです。神様はパウロには世界の果てまで出かけていって外国人に神様のことを伝えることを使命として与えられました。ペテロにはクリスチャンの 世話をする使命を与えられました。ヨハネにはまた別の人生を与えられました。ヨハネはエペソの教会で高齢になるまで働き、途中、パトモスという島に流された時は、 彼に特別な啓示を与え、それを書き記すという使命を受けていました。しかし、誰が 一番偉いということはありません。それぞれの働きに忠実に生きる者こそ、神に喜ば れるのです。

  主はペテロに対して、あなたにはあなたの人生と使命がある、ヨハネにはヨハネの人 生と使命がある。あなたは自分に与えられた道でわたしに従いなさいと言われまし た。しかし、このように主ははっきりと言われたのにもかかわらず、周りで聞いてい た他の弟子たちはまったく主イエスが言いたいと思われたことを理解しませんでし た。「ヨハネは死なない」と主が言ったと思ったのです。それで、それを他の人々に も噂話で教えたようです。この福音書を書いたヨハネ自身がその噂を否定しなければ なりませんでした。だから22節で、イエス様がいわれたのは「ヨハネが死なない」と いうことではなく、「たとえ主がヨハネが長生きすることを望んだとしても、それは ペテロとは何の関係もないことだ」と言われたのだと繰り返しています。私たちは、 どういうわけか、自分の人生をしっかり生きることよりも、あの人はどうだ、この人 の生き方はどうだとか、周りのことばかり気にして生きていることが多いようです。他の人のことに関心を持つことが悪いのではありません。他の人のために祈り、他 の人のために助けとなり、他の人を自分を愛するように愛することは大切なことで す。しかし、多くの場合、私たちは、自分のことを棚に上げて、あの人はこうだ、あ の人はああだと批判したり、あの人はこうするべきだ、あの人はああするべきだとか 言っているのです。クリスチャンが特に気をつけなければいけないことは、聖書の教 えを読んだ時に、それを自分に当てはめるのでなく、他の人に与えはめようとする態 度です。聖書の教えを読むと、時々思いませんか。「ああ、これはまさに、うちの主 人のために書かれた御言葉だわ。さっそく主人に読ませなければ。」と思って家に 帰って「あなた、この言葉を読みなさい」なんて言ってもご主人のこころはますます 堅く閉じるばかりです。ご主人だけでなく、自分の妻や子供や、友達、とにかく、私 たちは自分のことを忘れて他のひとのことばかり気にしているのではないでしょう か。そのような私たちに、主イエスは 他の人ではなく自分を見詰めて生きなさいといっておられると思います。聖書の教えも、ま ず自分に当てはめるべきものです。他の人のあてはめようとする時、私たちはパリサ イ人になるのです。パリサイ夫、パリサイ妻、パリサイパパ、パリサイママ、パリサ イフレンドなんかになってしまうのです。 

 ヨハネの福音書は、ペテロとヨハネがいっしょにイエスの後に従って行く場面 で終 わっています。主は、しばらくして天に帰られましたが、二人を良き働き人として導 かれました。そして、ヨハネの福音書に続いて「使徒の働き」という書物があるので す。二人は、この後、天から送られた聖霊の力を受けてキリストの証し人としてそれ ぞれが大きな働きをする人間になりました。もし、二人が主イエスを信じなかった ら、二人は作りかえられて新しい人生を送ることはなかったでしょう。二人はガリラ ヤ湖の漁師としては成功していたかも知れませんが、私たちが二人の名前を知ること はなかったでしょう。主イエスは、今も私たちにチャレンジを与えておられます。 「あなたは本当に私に従って来たいと思うのか」「私の言葉を聞いてわたしの後につ いて来たいのか」と尋ねられます。本気で従う者を主は作り変えてくださり、その人 の人生を通して神様は大いなることをして下さるのです。ヨハネとペテロの時代から 2000年経ちました。彼らの働きのおかげでイエス・キリストの福音が日本にまで届き ました。今度は私たちが彼らの行った働きをする番ではないでしょうか。私たちが主 の御心に従い、主のために生きていくべきなのです。 

 ヨハネは福音書の最後のところでイエス・キリストをほめたたえる言葉を残してい ます。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち 書き記すなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」主イ エスのがなされたことがどれほど素晴らしいか、イエスが私たちに示してくださった 愛がどれほど深いかをよく考える時に、私たちはこの世の何にも代えることの出来ない 喜びと平安を感じます。ほかの人のことを気にして生きる生き方ではなく、ただイエ スキリストを見上げ、イエスキリストに従って生きる時、もっともっと深い恵みを体 験することでしょう。詩篇23篇の著者も同じことを述べています。1節に「主は私の 羊飼い。私は乏しいことがありません。」とあります。そして6節には「まことに、 私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。わたし は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」私たちの前を羊飼いなる主イエスが歩 み私たちを導いてくださいます。そして、私たちの後ろからは、主の恵みと慈しみが 私を追って来るのです。主は決して疲れることを知らない方です。私たちが目を留め なければならないのは、他の人がどうのこうのではなく、ただ全能なる神様を見上げ なければなりません。その時、私たちの人生に平安と喜びと生きがいが感じられま す。             

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