今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教07/09|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-07-09『主イエスにある一致』 (ヨハネ17章20-26節)

 (イントロ)
 6月の最後の週に私たちは沖縄で開かれた第4回日本伝道会議に参加しました。2000年を記念する大会であり、また和解というテーマの会議ですので、沖縄で開かれました。沖縄は戦争の悲惨な体験を持っています。沖縄の人々は日本は戦争に負けることが分かっているのに、沖縄を犠牲にして、本土を守ったのだという思いを持っています。自分たちは日本軍に裏切られた、自分たちを守るはずの日本軍は自分たちを見捨てたという考えを持っています。会議の中に「沖縄に聞く」という時間があって、その時に戦争を体験された3人の牧師の話を聞くことができました。その時の録音テープを買って来ましたので、またぜひお聞きください。そのような歴史的背景により、 沖縄の人々は本土の人々に対して複雑な思いを持っておられるのですが、私たちはほとんどその頃のことを教えられていないために、沖縄の人々の悲しみが分からないのです。それはアジア諸国の人々の苦しみが分からないのと同じです。そのような意味で、今回は「和解」をテーマにして沖縄の教会と本土の教会の和解が語られ、また、今の時代に教会がこの世の人々の本当の和解、神との和解を伝えていかなければならないことが教えられました。しかしながら、この世の人々に私たちが「和解」メッ セージを語る前に必要なことがあります。それは教会の中における和解とでも言うべ き教会の一致です。そのことは主イエスご自身もよく知っておられました。ですから、主は、十字架にかかる直前、お祈りをされました。十字架を目の前にして、主はこの世に残して行く弟子たちのこと、また、弟子たちを通 して信仰を持つクリスチャンたちのことを考えておられました。その祈りがヨハネの福音書の17章に記されてい ます。

 私たちは誰もがみんなと仲良く暮らし、いろいろの違いを乗り越えて一つになることを願っています。街を歩けば「世界人類みな兄弟」という言葉を見たり、「世界は一 つ」という歌が聞こえてきたりします。誰もが地球が一つの村のようになることを願っています。しかし、皆さんもご存知のように20世紀は戦争の世紀でした。これまでに経験したことのないほどの戦争や殺戮(さつりく)が続いた世紀でした。国同士の争いだけで はなく、家庭でも職場でも学校でも、人々はみなお互いに対立したり、憎みあったしして、「世界は一つ」という歌からは程遠いのが現状です。ですから、私たちは、本 当に自分のことを理解してくれる友達を持つことができず、周りにはライバルばかりがいるような世界に生きています。なぜ、そうなんでしょうか。聖書は一人一人の心の奥底に潜む罪が原因であると教えています。だれもが「自分が一番良い」「自分が 一番正しい」という考えに捕らわれて生きています。だからどうしても他の人とぶつかってしまうのです。そのことをよく知っておられた主イエスは、そのために敢えてここに記されているような祈りをされました。17章の21節の言葉を読みましょう。 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみ な一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのこ とによってあなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」17章に 記されている主イエスの祈りは、少しずつ広がっています。主はまず十字架を前にし て自分のための祈られました。次に12弟子のために神の守りがあるようにと祈られました。その祈りに続いて、主は一歩未来に進まれて、後に生れる教会、クリスチャン のために祈られました。主イエスは十字架の苦しみを目の前にしておられましたが、 はっきりとその先を見据えておられました。今日読んだ箇所は主イエスが将来の教会のために祈られた祈りです。ここに「彼らがみな一つとなるためです」という言葉があります。十字架にかかる直前の主イエスが、将来の教会を見てなによりも願われたことは「一つになること」でした。主イエスが信仰者のグループである教会に第一に 願ったことは、奉仕することでも、伝道することでも、聖書を研究することでもな く、一致することでした。主は自分を信じる者たちは一致するべきだと考えていまし た。それはご自分が父なる神と一つであるように一つであって欲しいと願われたからです。これは教会が、人間的な方法や組織によって一つになることではありません。 父なる神と御子イエス・キリストが一つであるように、一つになるとは、人格の関係 において一つになることです。教会はクリスチャンの集まりですが、クリスチャンは 三つのものを共有する共同体です。

 (1)救いの喜びを体験した人々の共同体
  クリスチャン一人一人は主イエスキリストの十字架の死によってその罪を赦されたと いう体験を持っています。教会は救われた喜びを体験した人々の集まりです。その喜 びが教会に一体性をもたらすのです。一人一人のクリスチャンがキリストによって罪 を赦してもらったために永遠の滅びから救われたのだという体験を持っている訳です から、誰一人として他の人を責めたり批判したりする資格など持っていないことが分 かります。誰もが滅びるはずの人間だったわけですから。自分は他の人と比べて何も 優れたものを持っていません。しかし、そのような者を主イエス・キリストは十字架 のあがないによって救って下さいました。危機一髪のところを助けてもらった兄弟姉妹のようなもので、そこから一体性が生れてくるのです。 例えで話してみましょう。私たちがあの有名なタイタニック号に乗り合わせた乗客 だったとしましょう。船が氷山にぶつかって沈没しました。私たちは死ぬ運命にあり ましたが、どういう訳か、そこに救命ボートがあって私たちは助かったとします。広 い海の真ん中で、自分の乗っていた船が沈み自分たちは小さなボートに助けられて海 の上をさまよっています。どれほど恐ろしい夜を過ごしたことでしょう。翌日、近くを通 った船に助けられて初めて自分の命は助かったことが分かります。この時、一緒 に助け出された人たちはどのような気持ちを持っていると思いますか。乗り合わせた人々は性格も違い、社会の身分も違い、もしかすると国籍も違うかもしれません。しかし、死ぬ はずだったのが命拾いした人々は船の上で、そのような違いをお互いに批 判し合うでしょうか。お互いに文句を言い合うでしょうか。いいえ。そんな違いなん かすっかり忘れて、とにかく、命が助かったことをお互いに喜び合うのです。性格が救ったのではありません。身分が救ったのでも国籍が救ったのでもありません。小さな救命ボートです。どれほどこのボートに感謝することでしょう。例えて言えば、ク リスチャンとはこの助け出された人々に似ています。私たちは本当は自分の罪のため に体も魂も滅びなければならない者たちでした。しかし、主イエスが私たちの代わり に私たちの罪を背負って十字架にかかってくださった、ただそのことのゆえに永遠の滅びから救われたのです。あなたは、本当にそのことを喜んでいますか。本当にお互 いが救われていることを喜んでいますか。その時、教会には、この世には見られない 一致が生れるのです。

 私が初めてクリスチャンの集会に行った時、一番強い印象を受けたのはクリスチャン たちの暖かい交わりでした。それまで経験したことのないような暖かい交わりを見ま した。初めはそれが何であるか分かりませんでしたが、そのうちに、クリスチャンが 皆、イエス・キリストを信じ、そしてイエス・キリストの十字架を喜んでいることを知 りました。そして、その十字架が私たちの罪を赦すためのものであったことを知った のです。

 (2)栄光ある使命を与えられている共同体
  主イエスは22節で父なる神に向ってこう言われました。「わたしは、あなたがわたしに下さった栄光をかれらに与えました。それは、私たちが一つであるように、彼らも 一つであるためです。」この箇所から分かることは、教会の一致、主イエスにある一 致はキリストの栄光による一致だということです。ところで、主イエスは何を栄光だ と言われたのでしょうか。それは十字架を指して言われたのです。主は十字架にかかるとは言わずに、「私は栄光を受ける」と言われました。ですからクリスチャンの栄 光とは、まず各自に与えられた十字架のとです。教会はイエス・キリストのために苦 しみをも栄光と呼ぶ人々の集まりであると言えるでしょう。十字架は苦しみとつな がっているので、十字架を何かの罰のように考える人もいるかも知れませんが、そうではありません。私たちの栄光なのです。クリスチャンには共通 の栄光が与えられています。あるいは栄光ある使命が与えられていると言ってもよいでしょう。この世において、例えば、お医者さんにしても、ビジネスマンにしても、芸術家にしても、自 分に任せられた仕事が困難であればあるほど、その仕事を成し遂げた時には、その人 に栄光を与えることになります。私たちクリスチャンにも、困難ではあるけれども栄 光ある使命が与えられているのです。教会はただ救われたと言って喜んでいるだけの集まりではなく、共通 の使命を与えられている人々の集まりです。第二コリントの5 章18節に「神は、キリストによって神と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」20節では「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです」 とも言われています。共通の目的を持っている時に、内部で争っている暇はありませ ん。例えば、綱引きをする時に、チームの中で互いに争っていては相手チームに勝てるわけがありません。皆で力を合わせない限り勝ち目はありません。

 (3)共通の望みを持つ共同体
  三番目の共通点として、主イエスは24節で別の栄光について祈っておられます。「父 よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっ しょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」ここでいわれ ている栄光はクリスチャンたちが天にある主イエスの栄光を見ることであり、そのこ とを主は祈られました。クリスチャンは十字架の栄光を受けるだけではなく、天国の栄光をも与えられているのです、この世で生きる時は、私たちは、ガラス越しに天国 のすばらしい栄光をぼんやりと見ているようなものです。しかし、聖書の約束は、私 たちが肉体が死んで、魂が天国に行く時にはキリストを顔と顔を合わせて見るので す。(第一コリント13章12節)この世で、イエスを信じて生きる時にも喜びを味わいます。主とともに生きることはこの世のものが与えるのとは全く違う平安を与えま す。しかし、それはやがて私たちが天国において体験する栄光に比べればフルコース のオードブルのようなものです。それはそれなりにすばらしいのですが、メインディッシュの素晴らしさの前ぶれです。教会は地上の生涯が終わる時にイエスと同じ 栄光と勝利にあずかることを楽しみにしている人々の集まりです。これ以上に大きな 希望があるでしょうか。

  私たちは、時々、自分に与えられた栄光ある使命や栄光ある希望を忘れて、お互いを 見過ぎていないでしょうか。そしていろいろな違いがあるために、一致していないような状況になっていないでしょうか。私たちが一致していなければこの世の人々は聖書のすばらしい教えを知ることはできません。また、地上の教会でキリストにある兄弟姉妹たちが愛し合って、赦し合って、譲り合って、認め合って生きていなければ、 天国にいったらどうなるのでしょうか。私たちは天国で永遠にともに過ごすことにな るのです。だとすれば、地上にいる時から主にある一致をもってともに生きることが 必要だと思います。主イエスは、この祈りを終えて、まっすぐに裏切り者が待つ所、 十字架の苦しみに向って進んで行かれました。復活の時まで、もはや弟子たちと話すことはありませんでした。主がこの地上の生涯の最後に祈られた御自身の願いを私たちはどう受け止めるでしょうか。共通 の使命、共通の希望を持つ者たちの集まりとし て、主が心から願っておられるように、主にある一致を皆で力を合わせ、心を合わせて築いて行きましょう。    

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