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礼拝説教
2000-07-23『思い切って新しく生きる』 (ヨシュア記3章7-13節)
(イントロ)
聖書は不思議な書物です。以前、聖書刊行会が出している新約聖書に「聖書」という題ではなく「人生を変える」というタイトルがつけられていましたが、なるほど、聖書は本当に人の人生を変えるものだと思いました。今、やくざからクリスチャンになった人たちが「ミッションバラバ」というグループを作って海外にまで出かけて色々な働きをしておられます。その人たちの人生を描いた映画が今作られています。今年の秋公開予定です。渡瀬恒彦さんが主演の映画です。「親分はイエス様」というトラクトがあるのですが、その中にこんな文章があります。
「刺せば監獄、刺されれば地獄」 極道の道、それはまさに一寸先は闇です。憎しみ、恐れ、不安が常につきまとい、金、セックス、ギャンブル、酒、覚醒剤とつかの間の解放を求めて行くが、心は渇いてしまう。見栄を張って派手な生活をしても、さみしさ、むなしさ、悲しさがつきまとう。しかしそのような私たちに、主イエスは「私が道です、私は失われた人を捜して救うために来たのです。」と優しく語ってくださいました。
聖書の中に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました」という言葉がありますが、この言葉は、例えやくざであっても、どんな人でもキリストによって新しく変わることができると約束しています。
先週から読んでいます旧約聖書のヨシュア記が語っているのは今から3000年以上も前の出来事です。しかし、ヨシュア記は単に昔の出来事を記した歴史の本ではありません。神様が、昔の出来事を通
して、今を生きる私たちに神様が何を願っているか、何をしようとしておられるか、そのメッセージを伝えようとしておられるのです。ヨシュアというヘブル語の名前はギリシャ語ではイエスです。ヨシュアの姿はイエス・キリストを示していると考えられます。今日、読みました聖書の箇所は確かに、今か3000年以上も前のできごとです。しかし、その出来事を通
して、今日集まっておられる皆さんお一人お一人にメッセージを語っておられます。神様が今日私に語ってくださるメッセージは何かと考えながら、ご一緒にこのテキストを読んで行きましょう。
(出来事の背景)
エジプトで奴隷として苦しい生活をしていたイスラエルの民を救うために神様は指導者モーセを立てて、民をエジプトから脱出させてくださいました。途中でイスラエルの民の神への反逆や不信仰があったため40年かかって、ようやく約200万人の民は約束の土地への入り口までやってきました。モーセが死に、後継者としてヨシュアが選ばれ、いよいよ、約束の地にはいる境界線を越える時が来ました。その境界線はヨルダン川という川でした。この川は普段は幅が30メートルくらいのそんなに大きくない川なのですが、春の洪水の季節には川幅が1キロ以上に広がるほど、水が増える川でした。この川を越えると同時に、イスラエルの民の40年間の放浪の旅は終わるのでした。 いよいよイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の土地に入る時が来たのです。
イスラエルの人々はとうとうと流れるヨルダン川の手前で待っていた時に、リーダーのヨシュアはどうするつもりなんだろうと考えていたに違いありません。洪水の季節ですから泳いで渡ることはできませんし、200万人もいる群集を向こう岸に渡せるほど大きな船を作ることも不可能です。また、そんなことすれば向こう岸で待ち受けている敵に狙われてしまいます。リーダーのヨシュアは、先輩のモーセと同じように、つねに神様の指示を待ち、神様の指示に信仰によって従っていました。旧約時代に偉大な信仰者が何人も現われましたが、彼らは、皆、信仰に従って行動しているのが分かります。アブラハムは神を信じて自分の住み慣れた街ウルから行く先も知らずに旅立ちました。モーセは神を信じて、エジプトの王に逆らってエジプトから脱出しました。臆病者のギデオンは、神を信じて、ミデアンという外国の大軍と闘って勝利を収めました。このように、生きた信仰はみな行動につながっています。新約聖書のヤコブの手紙の中に「たましいを離れた体が死んだものであると同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」と書かれています。
今日読んだ箇所には、いくつかのメッセージが書かれています。それぞれが聖書の言葉に基づいています。イスラエルの人々は信仰をもってこれらのメッセージに従いました。そして、そのことによって、神が働かれて、彼らは無事にヨルダン川を渡ることができたのです。
(1) つかさたちの民へのメッセージ(1-4節)
ヨシュアはイスラエルの人々とともにシティムという場所からヨルダン川の岸辺まで進みました。川の反対側にはエリコの街の城壁がそびえていましたから、エリコの人々は大勢の民が自分たちの街に近づいてくるのを見ていたことでしょう。そこでしばらく休んで三日目につかさと呼ばれた軍隊のリーダーたちがイスラエルの民に命令を出しました。それは「祭司が契約の箱を担いで、その後ろをイスラエルの民がついて行ってヨルダン川を渡るというものでした。この契約の箱という言葉がヨシュア記の3章と4章に繰り返し出てきますが、この契約の箱は神様がともにおられることの象徴でした。当時、イスラエルの民はずっと移動を続けていたので、「幕屋」と呼ばれたテント式の神殿を持っていました。どこかの場所にイスラエルの民がしばらくとどまる時は、その幕屋を立ててその一番聖なる場所にこの契約の箱を置きました。ですから、彼らにとって、自分たちの先頭に契約の箱が進むということは、神御自身が自分たちの前を進んで、行くべき方向を示し、また、進んでいくための道を開いてくださるということを意味しましたから、非常に心強かったことと思います。まだモーセが生きていた頃、神様は彼に言われました。「わたし自身が一緒に行って、あなたを休ませよう。」イスラエルの民にとって、ヨルダン川を渡って40年間の放浪の旅を終えるという大きな節目の時に、神様がいっしょにいてくださるという保証が、この契約の箱だったのです。
(2) ヨシュアのメッセージ(5節)
このメッセージの中には命令と約束が記されています。ここでの条件とは「身をきよめなさい」というものでした。聖書で、身をきよめるとは、体を洗って新しい服を着ることを意味するのですが、これは神と共に新しい人生を始めることの象徴でした。聖い神の前で、罪とは汚れたものです。ですから、私たちは汚れたままでは本当の意味で神の後をついて行くことができません。身を清めることが必要でした。私たち日本人にとって水はいつでもたくさんありますから、体を洗うことはそれほど難しいことではありません。今はシャワーがありますから、いつでも体を洗うことができます。しかし、当時のイスラエルの民にとっては体を洗うことは大変なことでした。水が本当に少ないからです。このような大変なことを神様が要求したのは、人間の心の中の汚れ、聖書が罪と呼ぶものを真剣に取り扱わなければいけないことを現わしています。だれでも、神に近づこうと思う者は純粋な心をもって近づかなければなりません。私たちも、神様に近づく時に、心の中の汚れを認めなければならないのです。
一方、神様の約束は「不思議なわざを行う」ことでした。ヨシュアは40年前に、神様はエジプトを脱出した後に、彼らが前進できるように海を二つに分けるのを自分の目で目撃していました。ですから、同じ神が今度は彼らがヨルダン川を渡って約束の土地へ入るために道を開くことも十分可能であると信じました。神様は、私たちの人生の中にも不思議なわざをなしてくださる力を持っておられる方です。
(3) ヨシュアのイスラエルの民に対するメッセージ(9−13節)
リーダーのヨシュアに神様が7,8節で語っておられます。ヨシュアは自分が受けたメッセージをイスラエルの民に伝えました。ヨシュアは、イスラエルの民が神の約束をいつもおぼえているようにと言いました。ここでヨシュアは自分が信じている神のことをいくつか述べています。まず、10節にあるように、ヨシュアの神はただ単に神であるだけではなく、今も生きておられる神であると彼は述べています。しかも、その神は13節にあるように、全知の神でもあられます。今も生きておられる神様ですから、今を生きており、今いろいろな苦しみ悩みを抱えている人をも助けることがおできになるのです。また、同時にただイスラエルを支配するだけの神ではなく、全世界の神であるとヨシュアは言いました。イスラエルだけを支配しておられるのではなく、私たちが住んでいる世界全体を支配しておられる神が、彼らの先頭に立って進むことを覚えるとき、それがどんなにこんなことであろうとも、また、その先にどんな困難が待ちうけているとしても、彼らは恐れることはありませんでした。私たちの人生の先頭にも、この同じ神、つまり、今も生きておられる神、また全世界を支配しておられる神が進んで行ってくださるのです。
(4) 信仰の前進(14-17節)
14節で、イスラエルの民はヨルダン川を渡るために、天幕から出発しました。列の先頭に契約の箱をかつぐ祭司たちがいました。さきほども言いましたように、ヨルダン川は洪水の季節を迎えて川幅が大きく広がっていました。とても普通
の方法では渡ることができません。しかし、彼らは神様の約束を信じて立ち上がりました。そして、列の先頭にいた祭司たちがヨルダン川まで来ました。まだ川の様子は何も変わっていません。川の水が溢れていました。しかし彼らは信仰を持って進みました。そして彼らの足が川の水に触れた瞬間、水の流れが止まって、はるか彼方にあったアダムという町の所で川の水が壁のようになったのでした。私たちも、信仰による一歩を踏み出さない限り、この祭司のように、足をぬ
らさない限り、神の不思議なわざは起こりません。祭司が神様の約束を信じて一歩一歩足を前に出すと同時に、その足が踏んだ場所の水が引いて道が現われて行きました。イスラエルの民がヨルダン川を渡ったとき、この奇跡を行わせたのはリーダーであるヨシュアの力ある働きや祈りではありませんでした。イスラエルの民の信仰の一歩が川に道を開いたのです。私たちも、神の言葉、神様の約束を信じて一歩踏み出さない限り、神様が道を開くことはないでしょう。
しかし、イスラエルの民がヨルダン川を渡る前に、祭司と呼ばれる人々が契約の箱を担いで川の中に入りました。そしてその足が水面
に触れた瞬間、川の流れが止まりました。新約聖書では、イエスは祭司の務めを果 たされたと教えています。主イエス・キリストは私たちの祭司として、私たちの前を進んで先に水の中に入ってくださるのです。そして、私たちが川を渡る間ずっと川の中に立ちつづけてくださるのです。イザヤ書43章2節に次のような言葉があります。「あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたとともにおり、川を渡る時も、あなたは押し流されない。」私たちは人生の中で、時に苦難を経験しておじけたり、不安になることがあります。しかし、私たちの神様は、その困難を通
りすぎる間、ずっとともにその中に立ち続けて、私たちが渡り終えるまで支えてくださるのです。信仰の本当の喜びは、人生がつねに順調で平穏無事の生涯を送ることではなく、いろいろな困難の中にあっても神がともにおられて勝利を経験させてくださることです。
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