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今週の礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2000-08-27『自分の罪を隠すな』(ヨシュア記7章1-5節) 「勝ってかぶとの緒を絞めよ」という言葉があります。私たちは人生で少し成功をす ると、その勝利に酔ってしまって油断してしまうことがあります。そういう油断を警 告する言葉ですが、エリコを完全に滅ぼしたイスラエルの民はそのような状態にありました。イスラエルの民がエリコで大勝利を収めたのは彼らの力によるのではありま せん。神の力が働いたからでした。イスラエルの民は勝利の前も、勝利の後も、同じように神の言葉に従わなければなりません。私たちも同じです。私たちは、自分の願い事をかなえてもらうために熱心に神に祈ります。その時は、祈りが聞かれるためなら何でもする覚悟で祈ります。ところがその祈りが聞かれると、祈りが聞かれたことを喜び満足して、神の言葉に耳を傾けるのを忘れてしまいがちです。 さて、イスラエルの民に対して、エリコを征服する時に命令が出されていました。6章の17、18節です。イスラエルの民は約束の地を征服して行きますが、エリコは最初に征服した町でした。神様は、この町を、パレスチナの征服の初めての勝利としてすべてを捧げることをイスラエルの民に命令しました。申命記の20章14節によると、普通 の場合は戦争に勝った場合、戦利品を取ることは許されていました。しかしエリコの場合は違いました。全てを捧げることが要求されたのです。旧約時代にイスラエルの民は動物を捧げていましたが、最初に生れた一番良いものを捧げていました。私たちは自分で仕 事をして自分の力だけで稼いでいるように考えがちですが、仕事が与えられていること、家庭が与えられていること、健康が守られていること、これら本当に自分の力だけでコントロールできるのでしょうか。クリスチャンは、すべてのことの背後に神様の守りと祝福があると考えています。だから、与えられた収入も神様の働きがあって守られているので、感謝をこめて献金をするのです。ですから、自分のために使った 残り物を捧げるべきではありません。まず収入が与えられたならば、その10分の一を 神様のために特別なものとして取り分けて、そしてその残りのもので生活をすることが大切です。 いずれにせよ、このエリコを滅ぼした時、神様は全部滅ぼして、自分たちの戦利品 としては何一つ取ってはいけないという命令を出されていましたが、群集の中にはその命令を聞かなかった人間がいました。それがアカンという人物です。本当にアカン人でした。名前は「トラブルメーカー」「悩ます人」という意味です。アカンさんの 両親もこの子供がどんな人間になるのか分かっていたのでしょうか。変わった名前をつけたものです。この男が分捕り物の中に美しい外套と、銀と金の延べ棒があったので欲しくなったので、それを盗み自分のテントの下に隠していたのです。一人の人間の罪の結果 は多くの人に影響を与えます。 ヨシュアはアカンが犯した罪のことを知らないまま、エリコの大勝利の後、アイと いう町の攻撃を行います。偵察に行った人たちの話ではアイはわずか2,3千人の兵士で打ち破ることが出来るほど小さな町であったことが分かります。ところが三千人の 兵士が攻撃を行うとアイの人々の反撃を受けて36人の兵士が殺され、彼らは逃げ帰って来ました。エリコの時は一人の兵士も死ぬ ことなく大勝利を収めたイスラエル軍が、本当に小さな町に負けてしまいました。リーダーのヨシュアはその日夕方まで地 面にひれ伏して神に向かって、なぜ負けてしまったのかと叫んでいます。その時、神様はヨシュアに「立ちなさい。どうしてあなたはそのようにひれ伏しているのか」と 言われました。イスラエルが小さな町アイに敗れたのは彼らが弱かったからではあり ません。神の働きがなかったからです。それはアカンの罪が原因でした。彼の罪は誰にも知られていませんでしたが、神の眼をごまかすことはできませんでした。旧約聖書のエレミヤ書の中で神様は次のように言っておられます。「私の目は彼らのすべての行いを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らのとがもわたしの目の前から隠されはしない。」神様の方法はくじを引くことでし た。全ての民が集められました。そしてくじ引きが始まりましたまずイスラエルの民の12部族中、ユダ族が選ばれました。次にゼラフ人の部族が選ばれて行きました。アカンにとっては、なんと恐ろしい瞬間だったことでしょうか。ついにアカンがくじを 引くと、彼が当たりました。聖なる神は、人間の罪を見逃すことはできないのです。 ヨシュアが使いを送ってアカンのテントを調べて見ると、確かに分捕り物がそこに 隠してありました。彼らはそれを掘り出してイスラエルの民の前に持って来ました。 それだけではなく、彼の子供たち、家畜、彼の所有物全部を取って、人々はアコルと いう名前の谷へ連れて行きました。旧約の教えでは無罪の人に罰を加えることは禁止 されているので、恐らく彼の子供たちもアカンの罪に関わっていたのでしょう。彼のいっさいのものを全てのイスラエル人が石で撃ち殺し、火で焼き尽くしました。それは残酷な仕打ちでした。しかし、それが神の命令であり、そこまでやらなければイスラエルの民が神の前に清められることがないのです。これはイスラエルの民にも、今の私たちにも大きな警告です。私たちは神の言葉を軽く考える傾向があります。罪の 恐ろしさを軽く考えている場合が多いです。しかも私たちは、普通、罪の結果 を恐れます。「こんなことをして、人が何と思うだろうか。人から何と言われるだろうか。」と自分がうける恥を恐れます。しかし神の前ではすべてが明かなのです。私たちは、罪の結果 ではなく、罪そのものを恐れなければなりません。 アカンの罪に対してこれほどのさばきがなされるのだとしたら、人類の罪のためにはどれほどの罰が加えられなければならないのでしょうか。イエス・キリストは神であるのにもかかわらず、当時ローマ社会で最も残酷な死刑であった十字架刑の苦しみを受けられました。罪を嫌い絶対的に聖なる神にとって罪の罰を受けるという苦しみの深さは私たちには理解できません。徹底的なさばきが必要でした。そのために、主イエス・キリストがその残酷な刑罰を耐え忍んで受けてくださったのです。主イエス・ キリストの苦しみと死によって、わたしたちの罪が清められました。洗礼式の時に私は洗礼を受ける方に向かって宣言します。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は 赦された。」このように宣言できるのは、主イエス・キリストが恐ろしいさばきを受 けてくださったからです。アカンのうえには石の山が出来ていました。そして神のさばきは終わりました。その谷はアコルの谷と呼ばれました。アコルも「トラブル、悩 み、問題」という意味を持っています。アコルの谷は、旧約の預言書、ホセア書2章 15節に出てきます。「わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門にしよう。」 私たちは、皆、罪を持っています。アカンのようにさばかれなければならない者です。私たちはアコルの谷、「悩みの谷」の中にいます。しかし、不思議なことに、私の代わりに、神の一人子主イエス・キリストが代わって、残酷な刑罰を受けてくださいました。ですから、「悩みの谷」であった場所が「望みの門」に変わったのです。 主イエス・キリストは神の子としての働きを始める時に「神の国は近づいた。悔い 改めて福音を信ぜよ。」と言われました。信仰はただ神を信じるのではなく、まず自分自身が罪を悔い改めることが必要です。絶対的に聖い神の眼にとって、全ての人は 罪人です。私たちの人生にいろいろなことがありますが、問題の本当の根源は、一人 一人の心の中にある自己中心という罪なのです。それを完全に滅ぼして初めて、私たちは神に向かって礼拝を捧げることができるのです。福音を信ぜよ。主が残酷なさば きを受けて下さったから、私たちの人生も、悩みの谷から望みの門へと変わることが できるのです。主イエスが、宣言して下さいます。「あなたの罪は赦された。」と。 私たちはこの宣言を聞いて立ちあがって行くのです。いつまでも悩みの谷にひれ伏し ているべきではありません。罪の赦しを受けて立ちあがって望みの人生、現在にも未 来にも希望のある人生を歩んで行くことが赦されているのです。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |