今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教09/03|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-09-03『神の祝福を取りなさい』(ヨシュア記8章30-35節)

 (イントロ)
  神様の約束に従って、ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は約束の地の征服に取り掛 かります。最初の場所が頑丈な壁に囲まれたエリコの町でした。イスラエルの民はただ神様の命令に従って行動しました。彼らは自分たちの軍事力を全く用いなかったのですが、エリコの壁が崩れエリコはイスラエルの民によって滅ぼされました。エリコ の次に取るべき町はアイという名前の小さな町でした。エリコに対して奇跡的な勝利を体験したイスラエルの人々は、その勝利が神様が与えてくださったものであること は分かっていたはずですが、どこかで自分たちの力によって勝利したのだと思ってい たのでしょう。彼らはアイの町を軽く見ていました。ところが、イスラエルの民の中 に罪が隠れていました。神様はエリコの町を滅ぼす時に、その町にあるものを決して 分捕り物として取ってはいけないとイスラエルの人々に命令を出していました。とこ ろがアカンという一人の男が欲に目が眩んで金銀と高価な衣装を盗んで自分のテントの中に隠していたのです。このような状況の中では、イスラエルの民が勝利を経験で きるはずがありません。自信に満ちて攻撃をしかけたイスラエルの兵士たちは、アイ の人々から反撃を受けて、36人が殺され、兵士たちは皆逃げて戻って来ました。神様がイスラエルの民に与えると約束していたはずのパレスチナの地で、彼らは戦いに敗れました。完全に失敗してしまったのです。神様はアカンを裁かれました。彼は自分が盗んだもの、自分の所有物、子供や家畜とともに滅ぼされてしまいました。

 イスラエルの神様は敗北を勝利に変えてくださる神様です。アイに敗れたイスラエル の人々はすっかり落ち込んでいましたが、神様はヨシュアに言われました。(8章1 節)「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上りなさい。私は、この町をあなたたちの手に渡した。」最初にアイを攻撃した時、ヨシュアは、偵察に出かけた人々の意見を聞いて3000人だけを送り出しました。しかし、神様は全部を連れて行きなさいと言われました。そして作戦も与えてくださいました。2つの部隊に別 れて、一つは町の後ろに隠れるようにという作戦でした。そして、アイの町は完全に滅ぼされてしまいました。神様はイスラエルの民に、アイの町の分捕り物と家畜は戦利品として取ってもよいと言われました。アカンは、この時まで待てなかったのです。神様の時が待てずに自分の欲に負けて盗んでしまったために、結局彼は捌(さば)かれてしまったのです。この経験を通 してヨシュアは学びました。神様は敗北をも勝利に変えてくださる方であること、そして、その秘訣は神様の方法で神様に指示された通 りに行動することであることを学びました。アカンによってもた らされた敗北は消されました。イスラエルの民は神の約束は一つの言葉も破られることはないことを知って、さらに約束に地の征服を続けて行くことになります。

 しかし、ヨシュアは、アイでの勝利の後、イスラエルの民をアイから北に30キロほど 行ったシェケムという町に連れて行きました。シェケムという町はエバル山とゲリジム山という二つの山に挟まれた場所でした。ここは約束の地、パレスチナ、の中でも 最も美しい場所です。緑が豊かで果物の木やオリーブの木が茂っています。また、あ ちらこちらに小さな川が流れて、せせらぎの音が聞こえて来るような場所でした。ヨ シュアは、この場所で3つのことをしました。それが神様からの祝福を得る秘訣だった思います。ともに考えて見ましょう。

 1) エバル山に建てた祭壇
  31 節を読みましょう。彼らはまずエバル山に祭壇を築きました。モーセの律法の書、これはヨシュア記の前の書、申命記を指しているのですが、そこに書かれている教えに従って、鉄の道具を使わずに自然のままの石の祭壇を築きました。もちろん、 鉄の道具を使って石の形を整え、表面をきれいにしたら見た目に立派な祭壇ができます。しかし、神様は、敢えて自然の石の祭壇を築くように命令されました。それは、 祭壇は何のために作られたかと言えば、それは動物をそこで神に捧げるためでした。 そして動物を捧げる目的は自分たちの罪を許してもらうためでした。ですから、鉄の道具を使わないという意味は、人間の罪が許されるのは、きれいな祭壇を築くと言う ような人間の力によって与えられるものではないこと、ただ神様の一方的な愛と憐れみによって与えられることを表わしているように思います。人々の罪が許されるのは、人間の手によるきれいな祭壇によって与えられるのではなく、その祭壇の上で流される動物の血によって許されるのです。

 今の私たちについて言うならば、わたしたちが神様によって許されるのは人間的な努 力や働きによるのではなく、十字架の上で流された主イエスの血、つまり、イエス様の働きによって許されるのであるということを教えています。申命記を見るとゲリジ ム山は祝福の山であり、エバル山はのろいの山であると書かれています。のろいの山 に祭壇が築くように言われているのは、罪を持った人間は、本来、呪われても仕方がないような者なのですが、動物のいけにえのように、主イエス・キリストが罪ののろいを全部背負って命を捨ててくださったことによって、もはや私たちはその呪いの山 に立つ必要がなくなったことを覚える必要があります。主イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪が許されて、もはや罪の呪いの中に生きるのではなく、新しく神様の祝福の中に生きるためなのです。

 2) 律法の書を記す
  それから祭壇の石の上に石灰を塗って、その上にヨシュアは律法の言葉を書きまし た。このあたりの国々では王様が戦争に勝った時など、記念碑を建ててその石に、王様がその戦争でどのようなすばらしい戦いをしたのかを書き記すことがよく行われていました。しかしイスラエルの民は、このような石に、神の律法、つまり神の言葉を書き記しました。彼らが戦いに勝利したのは自分たちの力によるのではなく、神様の力によることを忘れないためでした。そして、神の教えを守ることによって自分たちの人生が祝福されることを覚えるためだったのです。

 これは今の私たちには何を意味しているでしょうか。私たちが、罪を許され神の子として生きる道は、聖書の教えを守る、律法を守ることによるのではありません。私たちは完全にその律法を守ることができないからです。だからこそ、主イエス・キリストの十字架が必要でした。私たちが主イエス・キリストを罪からの救い主として受け入れる時、罪が許され、神の子として神の家族に受け入れられ、永遠の命が与えられます。それは、一方的に神様から与えられるものです。私たちにできることは、ただ 感謝して受け取るだけなのです。しかしながら、私たちは神の子供として生きる時 に、親である神様の言葉に従って生きよういう姿勢を持つことが自然であるのです。 私たちが誰かを本当に愛する時に、自然とその人が喜ぶことをしてあげようと思います。その人が嫌がることはしません。私たちはお祈りをする時に、「愛する天のお父 様」と言って祈りますが、本当に自分が神様を愛しているのか、その愛は何によって 確かめられるのでしょうか。それは、神様の言葉、命令に自分がどのように取り組もうとしているかによって分かるのではないでしょうか。神様の命令は時に厳しいように思えます。しかし、神様は私たちを困らせるために、嫌がらせるためにそのような 命令を出しておられるのではありません。本当に私たちの益になることを与えようと しておられるからです。例えば、私は、現在太り過ぎで、石黒先生から肉と魚は控え て野菜だけを食べるようにと言われています。それは石黒先生が私に意地悪をしてそう言われるのではありません。私の体に何が一番よいのかを知っておられるからです。ですから、肉も魚も美味しいですが、それを食べつづけるとやがてひどい病気に なるので、控えるように言っておられます。神様の命令も時に厳しいものがあります。しかし、それは私たちにとって本当の益をもたらし、わたしたちに本当の自由や喜びを与えるためなのです。私たちは本当に神を愛するならば、神様の小さな言葉、 小さな願いにも敏感であるはずです。いのちを捨ててまで私たちを愛してくださった 神様の言葉を軽く考えずに、このイスラエルの民のように、忘れないように、わたしたちは心に刻むことが大切です。

 3) 律法を読む
  祭壇を築き、律法が石に書き記されると、ゲリジム山とエバル山の間で、ユダヤ教の指導者である祭司たちやレビ人たち、ヨシュアやイスラエルの民の12部族の代表者たちが集まりました。そして、12の部族が二つに分けられて、半分がゲリジム山の斜面 に集まり、残りの半分がエバル山側の斜面に集まりました。6部族ずつが向き合う形で集まりました。これは申命記でモーセが与えた指示に従ったことなのです。27章 13節以降に書かれています。そこにはどの部族がどちらと細かな指示が出されていますが、これを見ると、ゲリジム山の側にいる部族の方がかなり人数が多いことが分 かります。申命記の28章には事細かにイスラエルの民の祝福の道とのろいの道が書かれているのですが、ここで、ヨシュアがこの言葉を読み上げます。ヨシュアが 「――する者は祝福される」とか、あるいは「――する者は呪われる」と読み上げる 時に、イスラエルの民は、声を合わせて「アーメン」と答えたのでした。何十万人と いう人々が「アーメン」という声が山と山の間の谷間に響き渡りました。どのような 光景だったでしょうか。そして、祝福の山ゲリジム山にいる民の数の方が多いので、 祝福の山からの声がより大きく響いたはずです。「呪われる」というのは神様の警告の言葉です。祝福と喜びに満ちた生活を崩してしまうことから離れるようにという警 告の言葉です。そして「祝福される」というのは、この世のものではない、一時的ではない、本当の祝福の源を知らせる神様の呼びかけです。

 イエス・キリストを信じて生きる者たちの将来は約束されています。神の子として この世で生きるだけでなく、肉体が滅んだ後も永遠に神とともに生きることが約束されています。しかし、神様は、その将来のすばらしい約束を与えるだけではなく、こ の世の生活の中でも、私たちの毎日が祝福に溢れることを願っておられるのです。主 は、わたしたちの生活の全領域で私たちを祝福したいと願っておられます。イスラエルの民にとって、祝福とのろいは、自分たちが何をするかによって決まるのではな く、自分たちがどこに立つかによって決まりました。今の私たちも同じです。主イエ スは言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。もし人が私につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」私たちにとっては、実を結ぶことは、それ自体が生きる目的なのではなく、結果 なのです。私たちが主イエスにつ ながって生きる時、人生に豊かな祝福があふれます。私たちは、このイエスにつながる者になったことを覚えましょう。

 本当の祝福に満ちた人生を生きる秘訣とは、1)私たちが受けるべきのろいを主イ エス・キリストが全て十字架の上で背負ってくださったために、私たちは罪ののろい から完全に解放されていることを覚えて感謝して生きる。2)私たちのために常に最 善を願っておられる神様の言葉に聞く姿勢を持つこと。3)自分の立場をキリストと ともに生きることだとはっきりさせること。この時、不思議な平安が与えられ、神様の豊かな祝福を経験することができます。鐘紡の顧問をしておられる三谷康人さん は、かつて三度の左遷と三度の降格という辛いところを経験されました。しかし、三 谷さんはイエス・キリストに対してヨシュアと同じ信仰を持っておられましたから、 自分に振りかかった状況に流されることなく、常に平安を感じておられました。そして神に祈りつつ全力で仕事に励まれた結果 、最後はカネボウ薬品の会長にまでなられたのです。三谷さんはご自身の成功の秘訣はただ、信仰の生涯を生き抜いたからだと言っておられます。

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