今週の礼拝めっせーじ
礼拝説教09/24|礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2000-09-24『成し遂げられる人生』(ヨシュア記21章44-45節)

 七月から旧約聖書の人物ヨシュアにスポットを当ててきましたが、いよいよ彼の人生も終わりを迎えていました。このヨシュアと言うヘブル語の名前は、ギリシャ語に直すと「イエス」になり、「主は救い」という意味を持っていま す。ヨシュア記の1章2節に次のような言葉があります。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」ヨシュアとともに イスラエルの民は新しい時代に入りました。神様がイスラエルの民に与えたといわれた場所は「カナン」と呼ばれますが、その地は、神様が約束されたようにすでにイスラエルのものでした。しかし、それは彼らが自分の足で踏んで 初めて本当に所有されるものだったのです。そこには以前から住んでいるカナン人がいました。ですから、イスラエルの民は、そのカナン人を滅ぼし自分の足でその場所を踏んで、「これは神様が私に与えると約束した場所である。 」と宣言しなければならなかったのです。ヨシュア記は大きく1章から12章までの「カナン征服」を記した前半と、 13章から24章までの、約束の国カナンを12部族の間で分配する部分の後半に分けられます。約束の地が部族に割り当てられる時に、イスラエルの民の間でも、異なった信仰姿勢が見られました。かれらの姿から、今日、信仰をもって生きようとする私たちは、何を学ぶことができるでしょうか。

 A)約束の国の割り当てに対するいろいろな姿勢
  神様は、イスラエルの民に相続地を与えることを約束されましたが、そのことに対する姿勢は、民の間でもまちまちでした。その姿勢の中に彼らの信仰が見えるように思います。

 1) カレブ
  先週、お話したように、カレブは85才になっていましたが、45年前に神様から受け取った約束を信じて、「この山地をください」と言って、積極的に約束を自分のものにしました。彼の信仰は、自分が歳を取っていることなどまったく気にせず、ただ神様の力を頼って生きていました。

 2) ヨセフ族
  ヨシュア記の17章には、ヨセフの部族への割り当ての記事があります。ヨセフはヤコブの12人の息子の中で最も愛された息子でした。ヨセフには二人の息子、マナセとエフライムがいました。ヤコブはこの二人の孫に特別 な祝福を与えました。ヨセフ族は、その二人の子供のためにマナセ族とエフライム族とに分けられました。ふたつの部族は、特に大切な地域、広大な地域を割り当てられました。それなのに17章14節でヨセフ族の人々はヨシュアに文句を言っています。部族の人数が増えたのだから、もっと多くの土地を分配して欲しいと思ったのでしょう。  このように、「本当は恵まれているのに、それに気づかずに、与えられている以上に何かが欲しくていつも不平を言っている」ような人々が最近増えているように思います。そのようなヨセフ族の人々に対して、ヨシュアは次のように応えています。「もしも数が多い民であるのなら、その場所に自分たちで出て行って、そこを自分で切り開くが良い。」14章に登場したカレブも「あの山地を私にください」と言って、85才でありながら、闘いに出て行って神様の約束の土地を手に入れました。自分から積極的に約束の土地を自分のものにしようとする姿勢が見られます。ところがヨセフ族の人々は違いました。彼らは、「山地は大変だからいやだ」とか「谷間には敵の鉄の戦車が隠れている 。」と言い、自分たちは何もしないでもらえるものは少しでもいいものをもらおうとしています。彼らは自分の先祖 たちの栄光で、自分が恵まれることだけを求めました。そのような彼らに対して、ヨシュアは、彼自身ヨセフ族のエフライム出身でしたが、ヨセフ族の人々に「山地を自分で切り開き、戦車が出てきたら、部族の数は多いのだから自 分たちで退治しなさい」と命令しています。私たちの信仰生活は、決して安易に神様の恵みを求める生き方ではいけないのです。神様がともにおられること、これまでも神様が様々な場面 で働いてくださったことを思い出して、前に進みつづけることが必要なのです。

 3) 相続地を割り当てられていない7つの部族(18章)
  18章には、まだ相続地を割り当てられていない7つの部族のことが記されています。彼らはヨセフ族のように文句は 言いませんでしたが、彼らは与えられた土地を取りに行こうとせずぐずぐずしていました。ですから、ヨシュアは7つの部族の人々に「あなたがたはいつまで怠けているのですか」と叱責しています。彼らが、神様が約束したものを 手に入れることができなかったのは、その地に住む敵が強すぎた訳ではありません。彼らが無関心であり、進んで取りに行こうとしなかったことが原因なのです。箴言12章27節には「不精者は獲物を捕らえない。しかし勤勉な人は多 くの尊い人を捕らえる。」とあります。そこで、ヨシュアは7つの各部族から三人ずつ選び、偵察に遣わすことにな りました。そして、21人は約束の土地を巡り歩いて、その場所の図面を書きました。そして、そこに書き記されたものに従って、ヨシュアが彼らのためにくじを引いて、部族によって分けられることになりました。私たちは、神様が命じておられる時に、いつまでも躊躇(ちゅうちょ)していることは神様の御心ではありません。このように出かけて行かなければ 、神様の約束の広さ、長さ、高さ、深さをよく調べあじわうことはできないのです。信仰は神様の約束を信じて、その約束に基づいて行動することが必要で、決断が必要です。

 4) ヨシュア自身(19章)
 18章と19章で残りの部族に土地を割り当てて行きます。19章49節で、イスラエルの民はすべての相続地の割り当てを終えました。ヨシュアにとってどれほど厄介な作業であったことかと思います。全ての割り当てが終わって人々 はホッとしました。ところが、その時に、イスラエルの人々は指導者であったヨシュア自身が住むべき地を与えられていないことに気がついたのです。ヨシュアは、それまで、自分の相続地を要求していなかったのです。それで、人 々は彼のために、自分たちの間に一つの相続地をヨシュアに割り当てました。ヨシュアが人々の間に与えられたことは意味があるように感じます。最初に言いましたように、ヨシュアというヘブル語の名前はギリシャ語の「イエス」 と同じです。イエスは、ある時に言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18章20節)主イエスがお生まれになる時、主に与えられた名前に「インマヌエ ル」というのがあります。神ご自身が私たちとともにおられるという意味です。この地上においても天国においても 私たちの間に、私たちの真ん中に主がおられることは私たちにとって大きな慰めです。

 B)神様が成し遂げられる業
  ようやく相続地の割り当てが終わりました。それが今日読んでいただいたヨシュア記21章43節の言葉です。「こうして、主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領し て、そこに住んだ。」このように土地の割り当てが終わった時に、ヨシュア記の記者は過去を振り返ります。そして 、その記者の結論は、神様は約束を果たされたということでした。新約聖書のヘブル書11章1節に信仰とは何かということで次のように書かれています。「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」信仰とは、神様の約束を確信して生きることです。しかも、まだ約束が実現する前に、すでに約束が成就した かのように生きることです。神様の約束を信じることを決断することです。神様から、カナンという場所を与えるという約束を受けたイスラエルの民は、40年間砂漠を放浪し、そして主の導きを受けてカナンの地を征服して、自分たちの領土を割り当てた時に、その過去一切を振り返って、彼らが出した結論は21章の45節です。「主がイスラエルの 家に約束されたすべての良いことは一つもたがわず、みな実現した。」これまでの40年間を振り返ると、いろいろなことがありました。不信仰に陥って神様からさばきを受けたことが何度もありました。目に見える状況から、もう約 束の国に入ることは絶望的だと感じた時もありました。思いがけなく闘いに敗れて、神様はもう自分たちを見捨てたのではないかと感じた時もありました。待っても待っても約束が実現するようには思われず、落胆したことも多かっ たのです。しかし、彼らは神様からチャレンジを受けて、信仰を回復し、彼らはあきらめませんでした。何とか、神 様の導きについて来ました。

 そして彼らはここまで来て信仰告白をしています。
 まず、神様は彼らに約束とおり、その土地を与えてくださいました。ずっと前に神様がアブラハムと結んだ契約を 、神様は決して忘れてはおられませんでした。次に神様は、イスラエルの民に勝利を与えてくださいました。そして 闘いは止んで、彼らは安住の地に住むことができました。このようにして神様が約束されたすべての良いことは成し遂げられたのです。イスラエルの神は、きのうも今日も永遠に真実な神です。約束されたことを必ず成し遂げてくださる神です。私たちは、この同じ神様から召されて信仰に導かれています。あなたの人生にも神様が約束されたすべての良いことは必ず実現したと証しできる時が来ます。今しばらくは、待たなければならないかも知れません。 しかし、神様は決して約束を破るような方ではありません。

 イスラエルの民は、神様の約束によりカナンの地を征服し、ようやく戦闘からの休息を持つことができました。そし て安心して暮らすことが許されました。神様の業が完了したからです。新約聖書のヨシュアである主イエス・キリストは、今の私たちにも休息を与えてくださいます。主は十字架の上で最後に「完了した」と言われました。十字架の業が完了した時に、私たちは本当の休息を持つことができるようになりました。それは罪の重荷からの安息、毎日の 気苦労や不安からの休息です。詩篇121篇7、8節を読みましょう。「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り 、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」と書かれてい ます。この地上の生活においても、またこの世を去って天国に行った後も、私たちは神様の安息の中で生き続けるの です。すべてのことを、すべての悩み・思い煩いをキリストにゆだねましょう。その時に、本当の安息に入ることが できるのです。最後にもう一度ヨシュア記21章45節の言葉を読みましょう。「主がイスラエルの家に約束されたすべ ての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」ある人は、私たちは将棋の駒のようなものだと言いました。将 棋の名人が勝つのは駒が立派だからではなく、名人のさし手が上手だからです。神様が私たちの用いてくださる時、 神様が私たちの人生を導いてくださるのです。神様のさし手を信頼して、神様のさし手のままに生きていきましょう 。あなたの人生にも良いことがみな実現します。

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