礼拝めっせーじ
礼拝説教01/07|新礼拝メッセージ集礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2001-01-07『罪と妥協してはいけない』(黙示録2章18-29節)

 今年の聖句は去年と同じ聖句です。「聖書の言葉に心を留める人は幸いである。時が近づいているからである。」と いう言葉です。私たちは新しいミレニアム、新し千年時代に入りましたが、聖書では2000年という数が重要な意味を持っていると思えます。最初のユダヤ人となったアブラハムから約束の救い主、主イエス・キリストが来られた時 までが2000年でした。そして、今、わたしたちは主イエス・キリストの十字架と復活から2000年後という時代に生 きています。2000年間国を持たなかったユダヤ人が今から約50年前に突然イスラエル共和国という国を持ちました 。これも聖書の預言の成就です。旧約聖書にはイスラエルの人々は一度世界中にばらばらにされるが、後にまた世界の果 てから集められるという預言があるのです。普通に考えても、2000年間なかった国が突然また現われるなんて ことは全く、無理なことだと思います。しかし、それが実現したのです。そこに神様の力強い手が働いたとしか考えられません。ですから、今、わたしたちは世の終わりが近い時代に生きていると考えても間違いではありません。これから、世界の歴史は聖書がはるか昔からずっと預言しつづけて来たように、イスラエル、エルサレムという場所を 中心に動いて行きます。ですから、聖書の言葉に心を留める人は幸いなのです。聖書の預言では、これから世界はさらに悪くなって行きます。大きな戦争が起きることが預言されています。多くの人々は、この世界は今と同じままで いつまでも続くと考えていますが、聖書の教えは違います。必ずこの世の終わりが来ると預言しているのです。その時代を生きる私たちは、どのようなことが起こっても慌てないように、良くその準備をしておかなければなりません 。ノアが神様の命令を受けて一生懸命大きな船を作っていた時に、ノアのまわりにいた人たちはノアが頭が変になったと思って彼をさんざん馬鹿にしました。ノアが「間もなく大洪水が来る」と彼らに注意しても、ノアの言葉をまじめに聞く人は一人もいませんでした。誰もが楽しく飲んで食べてという暮らしをしていたのです。しかし、ノアが家族と動物を船の中に乗せて、船の入り口の扉が閉じた時に、大雨が降り始めました。箱舟の外にいた人々、動物はみな死んでしまいました。神様の警告の言葉に耳を傾けなかったからです。聖書は、今を生きる私たちにも警告の言葉 を語りつづけています。この言葉を無視しないで、聖書に書かれていることに心を留める者になりましょう

 さて黙示録の2章と3章には主イエス・キリストが7つの教会に送った手紙のことが書かれています。今から2000年 前にあった7つの教会に復活された主イエス・キリストがメッセージを送っています。それらの手紙を読むと、キリ スト教会は今も2000年前もあまり変わっていないと感じます。教会というよりも人間そのものが今も昔もあまり変 わっていないのです。ですから、2000年前に送られた手紙の内容が、21世紀に生きるクリスチャン、21世紀の教会 にも当てはまることが分かるのです。今日の箇所は、7つの教会のうちの一つ、テアテラとう町にあった教会に送られた手紙です。テアテラは大きな町ではなく、エペソやスミルナやペルガモという町と比べると本当に小さな町でし た。そのテアテラ教会にメッセージを語るキリストは恐ろしい姿をしています。「キリストの目は燃える炎のようであり、足は光り輝くしんちゅうのような神の子」と書かれています。燃える炎のような目とはどういう意味があるで しょうか。キリストの目は燃える炎のようです。つまり、キリストには何も隠すことはできないということです。テ アテラの教会、また私たちの教会も、キリストの前には何も隠すことはできません。キリストの目は、その教会の本当の姿を見抜いておられます。そして光り輝く足はキリストの聖さを表わしています。その聖い主の足は汚れたもの 、正しくないものを踏み砕く力を持っています。ここではキリストは裁く方として描かれています。テアテラ教会には人の目には見えなかったのですが、裁かなければならない罪があったのです。

 さて、テアテラ教会はどのような教会だったのでしょうか。テアテラ教会はエペソ教会と全く反対の教会だったと言 うことができます。テアテラ教会の良かったところは、その教会に愛があふれていたことです。7つの教会の中で、 キリストから愛があると誉められた教会はテアテラ教会だけです。しかもこの教会には信仰があり、奉仕と忍耐の教会でもありました。表面 的には、信仰的にも成長した教会で、その働きも以前より良くなっていると言われています 。このようにテアテラ教会には良いところがたくさんあったのですが、逆に、キリストが非難することもたくさんありました。

 エペソ教会とテアテラ教会は対照的です。エペソの教会の人々は悪い者たちを放っておかないで、間違ったことを教える人たちを厳しく裁いて、正しい信仰を守っていたのですが、エペソの人々の心はクリスチャンになった時に感じた初めの愛から少しずつ離れて行きました。反対に、テアテラ教会は愛することは上手だったのですが、悪を憎むこと、罪を憎むことができませんでした。テアテラ教会の人々は愛に満ちていました。教会に新しい人が来るとテアテ ラ教会の人たちは、彼らを抱きしめて「よく来てくださいました」と歓迎していたことでしょう。しかし、彼らは罪 や間違った教えを放ったらかしにして、きちんと裁くことをしませんでした。この教会にはイゼベルと呼ばれる一人の女性がいました。そして、テアテラ教会はその女性がしたいままにさせていました。イゼベルと言うのは、その女性の本当の名前ではありません。喩えとして使われている名前です。イゼベルという女性は旧約聖書の中で最も悪い女性の一人です。彼女は外国の王の娘で、イエス様の時代より800年以上前、イスラエルの王アハブと結婚しました 。彼女は、自分の国のバアルと言う名前の偽りの神をイスラエルに持ち込んで偶像礼拝を広めました。またイスラエルの預言者たちを殺しました。第一列王記21章25節には次のように書かれています。「アハブのように、裏切って 主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。」アハブは最悪 のイスラエル王でしたが、それは妻イゼベルが原因でした。このようにイゼベルはアハブとイスラエルを誘惑して真の礼拝を止めさせようとしたのです。

 テアテラ教会にいた女性は、昔のイゼベルと同じように、教会の中で間違った教えを広めて、この教会の人々を不道 徳な生活に堕落させ、また人々は偶像にささげた肉を平気で食べるようになっていました。彼女が教えたことは、「 神様が大事だと考えているのは体ではなく、霊である。体はもともと悪いものだから、体が何をしても問題ではない 。霊がきよいのであればいいのだ。」と言って、人々に、この世の生き方と妥協することを勧めていたのです。ロー マ帝国の時代は非常に不道徳な時代でした。お酒を飲んで宴会を開くことが多かったようです。その宴会ではしばし ば不道徳なことが行われていました。また、その場で食べる肉のほとんどは偶像に捧げられたものでした。ローマの 人々も自分の神々に動物を捧げていました。ローマの神殿の祭司はその肉を食べる権利を持っていたのですが、人々 がたくさんの肉を捧げるので、自分でそれらの肉を全部食べることはできないので、祭司はその肉を肉屋に売りまし た。もちろん一番おいしい肉です。その肉を人々は買って食べていたのです。当時の教会には決まりがあって、クリスチャンは不品行と偶像に捧げたものは避けなければなりませんでした。実は、これは当時の人々にとって大きな問 題でした。世の中では不道徳な生活が流行していました。今の時代と同じです。不倫をすることがかっこいいみたいな考えが広まっていました。しかも世の中の人々と付き合うためには、宴会にも出席しないと、商売をするのも難しいような状況でした。

 テアテラの教会の人々は暖かく、いろいろな活動をしていて、教会も成長していました。ところが、彼らは、クリス チャンが避けなければならない罪や不道徳を憎まないで、この世と妥協した生活をしていました。間違っていること 、神様が嫌うことにはっきりと「ノー」と言わなかったのです。この世で生きていくにはこの世のやり方と妥協する のも仕方がない。クリスチャンはそれほど道徳的に聖い生活をする必要はない。この世と妥協しなければ上手に生きていけないし、成功することもできない。彼らはそのように考えていました。つまり、彼らは、神様が何を望むかということ以上に、自分の利益、自分の楽しみを優先していたのです。そのような人々の信仰態度に対して主イエス・ キリストは厳しく裁いています。

 さて、私たちはどうでしょうか。今の生き方で良いのでしょうか。私たちは、この世の考え方、この世の流れに合わせて生きていないでしょうか。私たちが本当に神を愛し、また神様に喜んでもらうためには、神様が愛することを愛するだけではなく、神様が嫌うものを私たちも嫌う必要があるのです。私たちは聖書が罪と呼ぶものを捨てないで生きていないでしょうか。聖書は罪の結果 は死であると教えています。罪は人間の体だけではなく人間の魂をも滅ぼし てしますのです。罪はガン細胞みたいなものです。今は何も痛みを感じないとしても、もし体の中にガン細胞があれば、その体は確実に悪くなり、最後には死んでしまいます。それと同じように、もし私たちが罪をもったまま生きていると、今は何も感じないとしても、私たちの魂は必ず滅んでしまいます。そこで炎のような目を持った主イエスが その罪を裁くと宣言しておられるのです。罪を悔い改めないならば神様の裁きが来るのです。いつも言っているよう に「悔い改める」とは今の生活から立ち上がって新しい生き方を始めるという意味です。ただ後悔するということではありません。今の生活を止めて、まったく違った生き方をする決心をすることです。そのためには、ある人は自分が今いる生活の場から出なければなりません。ミッション・バラバの人たちは、昔やくざをしていたが今はクリスチ ャンになって神様のために働いている人々です。彼らは昔の生活を捨てなければなりませんでした。昔の仕事のほうがずうとたくさんの金が簡単に手に入るのです。しかし、その仕事を続ける限り、本当に神を信仰する生活はできません。彼らは昔の生活を捨てました。

 私たちは、自分が今行っている生き方、生活から抜け出すことは非常に難しいと感じます。「今のような生き方ではだめだ」と分かっていても、生き方を変えることは本当に難しいです。しかし、今の生活の中にとどまり続けるならば、決して、わたしたちの人生は変わりません。ですから神様は人間に繰り返しチャレンジを与えられます。イザヤ書52章11-12節を読みましょう。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」私たちは 、この世と調子を合わせてはいけないのです。神様を信じ神様に従って行こうと思うならば、この世の汚れたものから離れなければなりません。そのために人間的には損をすることがあるかも知れません。しかし、たとえこの世ですべてのものを手に入れても、本当のいのちを失ったらどうなるでしょうか。私たちは何も恐れる必要はありません。 私たちを守ってくださる親分イエス様は後ろから命令だけするような方ではありません。イエス様ご自身が先頭に立 って私たちの敵と戦って下さる方です。私たちは恐れずにキリストの後を進んで行かなければなりません。私たちの 敵は私たちの後ろからも攻撃してきたり誘惑してきたりします。しかしそれも恐れる必要はありません。神様が私た ちの後ろをも守ってくださり、私たちに安全を与えてくださるのです。

 私たちがこの世と妥協することなく、神様から与えられた信仰をしっかり持ち続ける時に、神様の確かな約束があ ります。黙示録2章26節にあるように、神を信じる者は「鉄のつえをもって土の器を砕くように彼ら(諸国の民)を 治める。」とあります。私たちは、諸国の民を支配する権利が与えられています。しかし、わたしたちは、自分の力 で人を砕くのではありません。神様から受けた愛をもって、人々の堅い心を砕く者になるのです。この世界を本当に変える力があるのは、武器の力、政治の力ではありません。クリスチャン一人一人に与えられている神様の愛の力です。そして、また私たちには「明けの明星」が与えられると書かれています。「明けの明星」とは主イエス・キリス トのことを指しています。(黙示録22章16節)クリスチャンが真実の信仰生活を歩む時、キリストは私たちの味方です。この世を生きる時に私たちを助け導いてくださるだけでなく、この世の生活が終わった後も、永遠に、わたしたちは、救い主イエス・キリストから離れることはないのです。ですから、主御自身がテアテラ教会の人々に命じられたように、この世と妥協することなく、罪と妥協することなく、与えられた信仰をしっかり持って生きて行きまし ょう。

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