礼拝めっせーじ
礼拝説教01/21|新礼拝メッセージ集礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2001-01-21『目を覚ましなさい』(黙示録3章1〜6節)

宇宙は限りなく大きく広い空間です。そのため星と星の間の距離も非常に遠く離れています。そのため、キロとか マイルとかを使ってその距離をあらわすことができません。そこで光年という単位 が使われます。1光年とは、光が 一年間かかって進む距離です。光は1秒間に約30万キロ進みます。すると1年間に10兆キロ進むのです。非常に大きな数ですから私たちの頭では理解できません。神様がお造りになったこの宇宙はこれほど大きいのです。例えば10光 年離れている星の場合に、5年前、その星が爆発して消えていたとしても、その爆発が私たちの目に届くまでに10年 かかるわけですから、今でもその星は、私たちの目には輝いているのです。もうその星はないのに、私たちの目には 明るく輝いているのです。それは10年前の輝きです。

 この星のたとえは、多くの教会の状況を表すものかもしれません。外から見ると立派な建物で立派に見えるのです が、中に入ると人々の信仰が死んでいて、イエス様の愛が感じられない教会もあるでしょう。昔は輝いていたけれど も、今は死んだような状態になってしまった教会。実は、サルデスの教会が、そのような死んだ教会だったのです。 人々の目には生きている教会のように見えたでしょう。しかし、主イエス・キリストの目には死んだ信仰の教会でし た。最初は、みんなが信仰に一生懸命であったのに、いつのまにか、少しずつ信仰が形だけになってしまって、礼拝 には来るけれども、いつも喜びに満ちた教会生活を送っていなクリスチャン。サルデスの教会はそのような教会だったようです。私たちも気をつけないと、サルデスと同じような教会になってしまう危険があります。聖書が教える 信仰生活は、一日一日を神様に感謝して神様とともに生きる生活です。私たちは初めてクリスチャンになる決心をした時、洗礼を受ける決心をした時、あるいは何か特別 に霊的に満たされた経験を持つ時に、言葉であらわすことの出 来ない深い喜びや満たされたという思いを持ちます。しかし、それはその時の経験であって、いつまでもその経験に 頼ることはできません。毎日毎日、新しい気持ちで神様と生きることが必要です。昔、モーセの時代に、イスラエル の人々は、神様から特別の食べ物をもらっていました。マナという食べ物です。人々はマナを毎朝テントから出て、 集めなければなりませんでした。朝、集めたマナを一日で食べるのです。次の日まで残すことはできませんでした。 腐ってしまうのです。これは私たちの信仰を表しています。信仰は、その日その日に新しい思いでスタートしなけれ ばなりません。昨日の素晴らしい体験を今日まで残すことはできません。そのサルデスの教会に語られた主イエス・ キリストのメッセージに耳を傾けましょう。

 (1)死んだ教会
  サルデス
教会へメッセージを送るキリストは、7つの霊と7つの星を持っておられる方として描かれています。星とは教会と教会に送られた御使いを意味しています。このことは教会は人間が作った組織ではなく、主イエス御自身が 中心におられる集まりであることが分かります。また7は完全数ですから、教会の隅々にまでイエス様が働いておら れるということを表わしています。教会を本当に所有しておられるのは主イエス・キリストであることが分かります 。しかし、実際には、教会は私たち人間が自分たちで作り、自分たちが所有しているかのように考えている人が非常 に多いです。自分たちが熱心にいろいろ活動して、教会を守っていると私たちは考えることが多いです。しかし、1 節の言葉を見ると、主イエスは言われました。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは生きているとされて いるが、実は死んでいる。」主イエスはサルデス教会の行いを知っていおられました。つまり、いろいろと熱心にこの教会の人々は活動していたようです。しかし、主は続けて言われました。「あなたは生きているとされているが、 実は死んでいる。」「生きているとされている」というのは、教会のまわりの人々は「サルデス教会は元気な教会だ 。いろいろな活動をしている教会だ」と考えていたという意味です。とても評判の良い教会でした。しかし、それは 人間の目で見て良い教会だったのです。主イエスの目にはサルデス教会は死んでいました。

 サルデスの教会は人々の目には生きていたのですが、実は霊的に死んでいました。聖書はしばしば死を罪と結び合わせて考えています。パウロはイエス・キリストを信じない人々は罪の中に死んだ人々だと言いました。罪の結果 は体も魂も死んでしまうと聖書は言っているのです。罪の中にいると、私たちは、罪の力に縛られてしまって奴隷のようになってしまいます。罪は人間の意志を殺してしまうからです。詩篇の1篇にこういう言葉があります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」この言葉を見る と、三つの動作があります。悪いことに歩く、悪い道に立つ、悪い座に着く、つまり悪い場所に座り込むとうことで す。罪の誘惑は本当に強いです。最初は歩いているぐらい、それが誘惑のために立ち止まってしまう。そして最後にはそこに座り込んでしまう。座り込んでしまうと、立ち上がることが非常に難しくなります。このように罪は人の意 志を殺してしまい、自由を奪ってしまいます。

 (2)目をさましなさい
  この教会
にはあまり迫害がなかったようです。教会が生きて働いている時、教会に新しい人が導かれて、イエスを信じるようになると、神に反対するサタンが攻撃してきます。サタンは人々が神を信じないように必死になって教会を迫害するでしょう。しかし、教会の信仰が死んでしまうとサタンは攻撃する必要がないので、迫害や困難が起こらな いのです。クリスチャンも同じです。真実の信仰を持って生きる時、かならずそれを邪魔しようという力が働きます 。イエス様はルカの福音書で言われました。「みなの人に誉められる時は、あなたがたは哀れな者です。」教会もクリスチャンも熱心に福音を語ると必ず反対を受けます。この世の流れは神に反対するからです。眠った教会、眠った クリスチャンは、この世と妥協していて霊的に死んでいるので、この世から攻撃を受けることはありません。しかし 、そのような教会、そのようなクリスチャンに向って、主イエスは5つのことをするようにと命令しておられます。

 1)「目をさましなさい」これは「いつも警戒していなさい」「注意していなさい」という命令です。イエス様は弟 子たちに言われました。「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。」私たちが油断をしている時、突然 、誘惑が襲ってきます。ですから、いつも気をつけていなければなりません。私たちは体や心が疲れている時、心が 動揺している時にも気をつける必要がありますが、逆に全てが順調に行っている時も気をつける必要があります。パ ウロも第一コリントで「自分はしっかり信仰に立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。」と言ってい ます。

 2)「他の人たちを力づけなさい」罪はいつも自分の事だけを考えさせます。いわゆるジコチュウという奴です。不思議なことですが、私たちは自分のことを考えて生きる時、いつも不満と不平があって、完全に満足することはありません。しかし、他者のために生き る時、満ち足りた思いが与えられるのです。サルデス教会の人々はいつの間にか自分のことを考えて、他の人々への 愛を忘れていたのだと思われます。私たちも、自分の心を、自分の願いを満たすことだけを考えて生きる時、本当の 幸せを得ることはできません。

 3)「どのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」 この命令は、細かく言うと「思い出し続けなさい」と いう意味です。「毎日、主から学んだことを思い出して、忘れないようにしなさい。」私たちが最初に聖書のことを 知った時、主イエスの愛を知った時に、誰もが感動して、不思議な喜びを感じたはずです。この命令は「思い出し続 けなさい」という意味です。毎日毎日、主イエスの愛を思い出すことが必要です。鈍くなった心をもう一度燃やす方 法は何でしょうか。大きな経験をした場所に戻れば良いのです。わたしは去年、35年ぶりに山口県に行きました。子 供時代を過ごした場所です。自分が住んでいた家はなくなっていましたが、家の周りは昔のままでした。わたしは、 その景色を見て深く感動しました。私たちも、主イエスを信じる決心をした頃のことを思い出しましょう。その決断 によって、自分の生活がどれほど変わり、涙が喜びに変わり、苦しみが平安に変わったのかを思い出しましょう。

 4)「かたく守りなさい」 私たちは神様に贖われた者たちです。以前は罪の奴隷でした。しかし、主イエスが十字架 の血を代価として私たちを買い取ってくださったのです。もはや罪の奴隷ではなく、今、わたしたちはキリストの僕 になっているのです。ですから、その生活をしっかり守りましょう。もはや昔の生活に戻る必要はありません。もど るべきではありません。サルデスの教会の人々は、かつては信仰に燃えていたのですが、いつのまにか元の生活に戻 っていたようです。この世の流れに流されていたようです。そして、主イエスに従って生きるという決断を手放して いたようです。そのために、表面的には信仰しているように見えましたが、彼らは実際には霊的に死んでしまってい たのです。今、神様から与えられているものを、決して手放さないようにしっかり守らなければなりません。

 5)「悔い改めなさい」いつも言っていますが、悔い改めと言うのは決断です。「自分の生活の方向を変える」「Uタ ーンする」という意味です。そして、心から主イエスの教えに従いますという心が必要です。古い生活と別 れて、新 しい生活を始める決意が必要です。いつまでもあれこれ迷うのではなく、決断が大切です。

 (3)主イエスの約束
 死んだ教会サルデスにも信仰を忠実に守る人がいました。その人たちに主イエスは素晴らしい約束を与えています。 5節です。「勝利を得る者は、このように白い衣を記せられる。そしてわたしは、彼の名をいのちの書から消すよう なことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」白い衣は聖さを表わし ます。私たちがどんなに汚れていても、主イエスが神様と同じ聖さを表わす白い衣を着せてくださるのです。そして いのちの書から彼らの名前が消されることはありません。黙示録20章11節から15節までに、私たちが死んだ後に受 ける裁きについて書かれています。その裁きの時に、わたしたちの名前がいのちの書に書かれているならば、裁きを受けることはありません。そして、人々の前で「よくやった。あなたはわたしの忠実な僕です」と大きな声で宣言してくださるのです。私たちが主イエスに従って生きる時、主イエスはいつも私たちを守ってくださいます。それは地上の守りではなく、私たちが死んだ後に永遠に続く守りなのです。私たちは、時々失敗することがあります。その時は主にそれを告白すればいいのです。大切なことは、心から主を愛し、主に感謝して、主イエスの教えに従って生きる決心を守り続けることです。

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