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礼拝説教
2001-02-04『心の戸を開きませんか』(黙示録3章14〜22節)
(イントロ)
黙示録の2章と3章で、キリストはアジア地方にあった7つの教会にメッセージを送りましたが、今日はその7番目
、最後の教会に送られたメッセージを学びます。アジア地方とは、現在のトルコにあたり、ラオデキヤはそのアジア
地方で一番裕福な都市でした。ラオデキヤはいろいろな点で有名な町でした。第一に、ラオデキヤには多くの銀行がありましたので、お金が集まっていました。したがって裕福な人々が多く住む町でした。第二に、ラオデキヤで作られていた黒いウールの服も有名でした。ラオデキヤの人々はいつも自分たちがいい服を着ていることを自慢にしていました。第三に、ラオデキヤには有名な医学校がありました。そして、その医学校が作っていた目薬が目の病気を治すのにとても力があったようで、外国にもたくさん輸出されていました。ラオデキヤの人々は、自分たちの町にはとても良い目薬があるので、自分たちはよく目が見えると思い込んでいました。この町の人々は自分たちは豊かで、おしゃれを楽しみ、また立派なお医者さんがたくさんいたので健康の点でも心配はない、自分たちは何一つ足りないものはないと考えていたようです。
ただ、ラオデキヤにはひとつだけ問題がありました。それは水でした。町の近くにはよい水源がなかったので、少
し離れたヒエラポリスという町から水を引いていました。それは温泉の水でした。温泉ですから最初は熱いのですが 、ラオデキヤに着く頃には生ぬるくなってしまいます。冷たい水も、熱いお茶もおいしいですが、生ぬ
るいお湯はまずいですね。しかももともと温泉ですから、ミネラルとかいろいろなものが混ざっているので、匂いがきつくて味もまずく、吐き出したくなるような水でした。不思議なことに、この町の状態はラオデキヤの教会の状態をそのまま表していました。彼らの信仰は神の目には生ぬ
るいお湯のようだったのです。ですから主イエスはラオデキヤ教会の人 々に対して厳しい言葉を言っておられます。「あなたは熱くもなく、冷たくもなく生ぬ
るいので、口から吐き出そう 。」
(1)生ぬ
るい教会
ラオデキヤの教会は生ぬるくて、主イエスにとっては吐き出したくなるような教会でした。彼らの信仰はなぜ生ぬ
るかったのでしょうか。彼らの最大の問題は、神に対して無関心だということでした。最初に言いましたように、ラオデキヤは裕福な町でした。ですから、教会に集まっている人々も裕福でした。彼らは、自分たちが経済的に豊かであるのは、神様から祝福されているからだと考えて、自己満足に陥っていました。生活のことで心配することはない
し、霊的にも心配することはなく、今のままでいい、今以上に信仰の成長の必要はないと思っていました。ところが 主イエスは彼らに言われました。「実は、あなた自身はみじめな者、哀れむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者である。」彼らはお金があれば何も問題はなく、心配する必要はないと考えていました。今の、日本でも同じです。多くの人がお金があれば安心と考えています。しかし、この世で大切なものはお金では買えません。お金で幸せを買うことはできません。健康を買うこともできません。悲しい時に慰めも買えません。友情を買うことも出来ないのです。鈴木その子さんは田園調布に50億円の家を建てていたそうですが、途中で死にました。その豪邸は完成することなく、工事もストップしたままです。遺族はその家に住む気持ちはなく、結局だれかに売られることになったそうです。田園調布には人が住む家しか建ててはいけないという決まりがあるために、大きなビルのようなその家を他の目的のために使うことはできないそうです。いったいその家はどうなるのかと、人事ですが心配です。一生かかって目指してきた夢がまったく無駄
になるのです。金だけで人生を生きようとするとこのような最後を迎えてしまう危険があります。
また、ラオデキアで作られる服は世界的に有名でした。人々は豪華な服を自慢していました。昔、服は大切な財産でした。また、美しい着物を着ることは最高の名誉でした。王様は自分が栄誉を与えたいと思う人に自分の服をプレゼ
ントしました。ラオデキヤの人々は自分たちは美しい服を着ていることを誇りに思っていましたが、主イエスの目には彼らは裸だったのです。表面 的には美しく飾っていても、彼らの心は裸で、貧しかったのです。どんなに服が美し
くても心が汚れていたらまったく無意味です。ラオデキヤの人々の心はそのような状態でした。しかし、彼らはそのことがわかりませんでした。
さらに、ラオデキヤで作られる目薬は非常にすばらしいものでしたが、彼らの霊的な目を開くことはできませんでし
た。彼らは自分の目は良く見えると思っていましたが、実際には見なければならないものを見ることができず、見なくてもいいものを見ていました。私たちは目を使って外の世界のことを知ります。目があるので、人やものにぶつかることもなく、また川に落ちたりしないで、まっすぐに進んでいくことができます。人生を間違わずに正しく生きるためには、健全な心の目を持っていることが必要です。主イエスは、「私は世の光である」と言われました。主イエスの光を受けて初めて、私たちは人生の意味をはっきりと知ることができると聖書は教えています。ある時、イエス
様は道端で生まれつき目の見えない人と出会いました。その時、イエスの弟子たちは、この人が目が見えないのはこの人の罪か、この人の親の罪が原因だと考えました。またユダヤ教の指導者であったパリサイ人たちもこの人に向っ
て「お前は罪の中に生れたのだ」といって彼を会堂から追い出しました。人間は他の人を簡単に裁きます。しかし主イエスの目は違いました。イエス様は、この人の苦しみは神の力と恵みが現われるためだと言われました。私たちは
、この世の苦しみや悲しみを経験する時に、どうして自分にこんなことが起きるのだろうかとがっかりしたり、考え込んでしまいます。しかし、パウロが言ったように、神様の恵みは弱さのうちに完全に働くのです。ヘレン・ケラー
は私たちが絶対経験することのできない神様の恵みを知っていたと思います。先日、上尾の教会でコンサートをされた新垣勉さんも、子供の頃からたくさん辛い経験をしました。目が見えませんから今でも生活は不便です。しかし、
彼が歌った歌は、神様を賛美する歌や神様に感謝する歌でした。主イエスを知ると、ものを見る見方が変わります。 苦しみの中でも感謝が見えるようになるのです。しかし、ラオデキヤの人々は、そのような目が開かれていなかったのです。
(2)主イエスの命令
このようななまぬるいラオデキヤの教会に対して主イエスは命令を与えています。18節の言葉ですが、主イエスは3つのものを買うようにと言われました。豊かな者となるために金を買いなさい。裸の恥を現さないために白い衣を買いなさい。目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。それは主イエスがラオデキヤの教会が貧しくて
、盲目で裸であるということを知っておられたからです。主イエスは貧しい者に「買いなさい」と命令しておられま す。貧しい者が買うことができるのでしょうか?イザヤ書の55章1節には次のように書かれています。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出てこい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこ
う。」これは神様が私たちに呼びかけている言葉です。誰でも渇いている人は来なさいと。金のない人たちも来なさ
いと神様は招いています。何も持っていなくてもいいから、そのまま来なさいと神様は招かれるのです。聖書は、私たちにとって本当に必要なものは、罪を許されて神とともに生きることです。それを救いと言いますが、この救いは
お金で買うことはできません。また人間の良い行いや努力で得ることもできません。その救いは、私たちが神様に支 払うのではなく、イエス様が十字架の上で身代わりに罰を受けられたことによって、わたしたちにただで与えられるようになりました。言い換えれば、主イエスキリストが金を払うかわりに命をささげることによってこの救いを私たちのために買ってくださったのです。私たちは、ただそれを信じて受け取るだけなのです。
ラオデキヤの人々はまず富む者となるために火で精練された金を買うことが必要でした。彼らには混じったものがない純粋な金が必要でした。これは何よりも尊い救いを現しています。次に彼らは裸の恥を現さないために白い衣を買う必要がありました。ラオデキヤは黒いウールの服で有名でした。しかし黒い服は汚れを現しています。彼らは自分たちは美しい服を着ているので、自分たちは美しいと思い込んでいましたが、神の目には汚れていたのです。彼らには聖さを現す白い衣が必要でした。この聖さは自分たちの力で手に入れるものではありません。神様がわたしに救いの衣を着せて下さるのです。主イエスを信じる信仰を持つ時、主が私たちの罪や汚れを隠す救いの服を着せてくださるのです。また、彼らには目が見えるようになるための目薬が必要でした。私たちが、この世の知恵を持っていても
、それだけでは、本当のものは見えてきません。この世で本当に大切なものは目に見える物ではありません。神様と 共に生きるという関係を持つことなのです。イエスを信じる時に私たちの霊的な目が開かれて、本当に大切なことが
見えるようになるのです。
(3)主イエスの招き
このように、主イエスの目には、ラオデキヤ教会の人々は貧しく、裸で、目が開かれていない状態でした。しかし、
彼らは自己満足していたので神様に対して無関心でした。そのような態度は、主イエスにとっては生ぬ るいお湯のようで吐き出したくなるようなものでした。また、彼らの教会は主イエスを心から慕い求める気持ちがなく、主イエスは、教会の外に追い出されていました。しかしながら、主は、そのような彼らの心の外に立ってノックをしておられ
ます。彼らは主イエスに対して心を開いていないのですが、主イエスは、彼らを決して見捨ててはおられません。口 から吐き出したくなるような人の心の中にも何とかして入りたいと思っておられるのです。ここに主イエスの愛があ
るのです。私たちは、普通、交わりを持つ時に、相手の人が吐き出したくなるような人だったら、そんな人と交わりを持つのを止めます。その人と一緒にいても楽しくなく、かえっていらいらするだけだからです。しかし主イエスは
違います。いつもすべての人の心の外に立ってノックしています。「あなたの心の中に入ってもいいかい」と尋ねて おられます。
あなたは不思議に思われるかも知れません。「イエス様、なぜわたしの心に入ろうとするのですか。放っておいてください。」と言いたくなるかも知れません。しかし、主イエスは、永遠の目であなたを見て、あなたとともに生きる
ことを願っておられるのです。あなたの人生が本当の喜び、本当の平安で満ちることを願って、あなたの心の戸をたたき続けておられるのです。本当は、主イエスは、ノックをしないで強制的にでも心の中に入ってきても良いのです
が、主は、そのようなことをなさいません。私たちが主イエスに対して自分から心を開くまで忍耐して待っておられるのです。あなたは何もしなくても良いのです。お客を迎えるのに、家の掃除をしなきゃとか、何かごちそうを作らなきゃとか心配する必要はありません。ただ心を開いて、主イエスを招きいれれば良いのです。主はあなたの心の中
の汚れているところをきれいにしてくださるのです。あなたの心の中にある不必要なものを取り除いてくださいます 。主があなたの心を管理して豊かにしてくださるのです。食事の準備も要りません。主イエスの体が肉であって私たちの空腹を満たし、主イエスの血が私たちののどの渇きをいやすものだからです。ここで「食事をする」と訳されて
いるギリシャ語の言葉は「夕食」を意味する言葉です。夕食は一日の仕事を終えて食べるので、ゆっくりと時間をかけて食べていました。主は、あなたとゆっくり時間をかけて話をしながら食事をしたいと願っておられます。私たちは大切な人のためにはたくさんの時間を取りますが、どうでも良い人にはあまり時間を取りたくありません。主イエスはあなたとゆっくりと交わりたいのです。
それだけではありません。心を開いて主イエスを信じる人々には素晴らしい約束が与えられています。主は21節で言
われました。「勝利を得る者を、わたしとともに座につかせよう。」私たちは、この地上での人生を終えると天国で 永遠に主イエスと交わることができます。それだけでも素晴らしい約束ですが、それに加えて、主イエスは私たちを
ご自分の王座に一緒に座らせてくださるというのです。王様はいつも一番良い場所に座ります。オリンピックの開会 式とか、大切な式の時に、王様の席は一番良い場所にあります。わたしはいつも、一度だけでいいから、あんな場所
に座りたいなと思っています。主イエスは、天国で一番素晴らしい場所に私たちを座らせてくださるのです。私たち は永遠に主イエスとともに天国に住み、主イエスとともに働くものとなります。自分を心から愛してくださる方と永遠に平安と喜びの中で暮らせるとは何と素晴らしいことではないでしょうか。あなたも、まだイエス様に対して心を開いておられないなら、今すぐ心を開いてこの約束を全部受けとって下さい。
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