礼拝めっせーじ
礼拝説教02/25|新礼拝メッセージ集礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2001-02-25『いのちへの道』(ヨハネ14章6〜7節)
松岡広和牧師(なぜ僧侶から牧師になったのか……)
聖句:ヨハネの福音書
14:6

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」


副聖句:使徒の働き
4:12

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

よくある質問

(1)クリスチャンとしてのお墓の問題

私は

このような証しがあるために、今まで、日本各地の教会からお招きいただいて、お話をさせていただいてきました。そして、その中で、多くの質問を受けて来ました。 クリスチャンの方々から一番多く受ける質問は、やはり、自分がやがて入るお墓についてです。本題からは、はずれますが、ちょっとだけ、このことについてお話しします。

この

質問は、クリスチャンからももちろんですが、教会や聖書に興味を持っているのだが、もしクリスチャンになったら、お寺などにあるお墓には入れなくなるのではないかと心配している人からも受けたことがあります。 教会にお墓がある場合は、心配要らないかというと、そうではありません。特に家族親戚の中で、自分だけがクリスチャンだという(または、クリスチャンになる可能性が高い)場合、ご自分の意思は教会のお墓に入りたいとしても、親戚や家族が、「先祖代々のお墓に入ってもらわねば」と強く要求する事が多いのです。 いわんや、教会にもお墓がなく、自分で用意したお墓もなく、お寺にしか入るべきお墓がないということになると、やはり、お寺のお墓に入らざるを得なくなります。

しかし

そうなりますと、一つ問題が生じます。いくら、教会でお葬式をしてお骨にまでなったからといって、それをそのままお寺に持っていってお墓に入れることができるかというと、まず、それは不可能です。 お寺としても、簡単でもいいから、お寺で葬儀をしてもらわねば、お墓に入れることはできないからです。お寺は、ただのお墓の管理者ではないからです。 ですから、お寺のお墓に入れる場合、教会での葬儀と、お寺での葬儀の二回をしなければならなくなります。クリスチャンとして、これは大変納得のいかないことですけれども、現実問題としてし方がありません。
 しかし、クリスチャンも、それくらいは受け入れるほどの「ふところ」を持っておくのもいいのではと、私は思います。なぜなら、まだクリスチャンでない方が、クリスチャンになったらお寺のお墓には入れないのでは、と心配して、教会に来たくても、どうも足が向かない、と思っていた場合、「いいのです。もし、ご自分がお寺のお墓に入りたいなら、また、親戚や家族がそれを望むなら、クリスチャンであっても、お寺のお墓には入れますから」と言うことができます。そうなると、どれほどの多くの方々が安心して教会に来るようになるでしょうか。
 それを、「お寺のお墓は絶対ダメです」というような雰囲気さえ感じさせてしまうと、せっかく、聖書や教会に興味を持っている人を、かえって教会に来させなくなる可能性が高いのではないでしょうか。

よくある質問

(2)キリスト教だけが救いに至る道でしょうか

さて、

これからが今日の本題なのですが、これは、100%クリスチャンでない方からの質問で、「キリスト教だけに本当の救いがあって、他の宗教には救いがないというのは、独善的で納得がいかない」というものがあります。これは、私ばかりでなく、少なくとも、クリスチャンの方は、一度や二度は、このような質問を受けたことがあるのではないでしょうか。

よく日本

では、山登りの例えが言われます。この話しをだれが一番初めにしたのかは、私はわかりませんが、よく聞かれます。 「富士山にも、登山口がいくつかある。でも、どの道を登っていっても、一つの頂上に至る。これと同じように、この世に宗教はたくさんあって、それぞれが自分の信じるところこそ、救いに至る道だと主張するが、それらのどの道を行っても、同じ頂上に至る。だから、お互いに認め合って、自分だけが正しくて、他は間違っているというようなことは言わないようにしよう。」と。

しかし

イエス様は、今日の聖句にありますように、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とおっしゃいました。イエス様を信じなければ、神様のところに行けない、つまり、救われないということです。 また、使徒の働き4:12には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあります。

イエス様

を信じて救われるという、すばらしい経験をしたクリスチャンなら、このことはあたりまえで、いまさら、何も考えることはないのですが、まだ、この経験をしていない人にとっては、独善的だと受け入れ難く思われるのです。 また、殺人などを起こすとんでもない宗教は別として、確かに、仏教などを見ても、奥が深く、特に日本分化の形成においては欠くことができない役割をしてきましたので、それを、あっさりと「救いがない」と切り捨てることはできないということも、よくわかります。

イエス・キリストに至る道

さて、ここからが、同じクリスチャンでも、さまざまに意見が分かれるところと思いますが、あくまでも、私が確信するところを申し上げますので、もし、これから申し上げることが受け入れ難く思われましたら、それでもいっこうにかまいません。

私も、

イエス様のすばらしさを体験して、また、今でも体験しつつある人間として、イエス・キリスト以外には救いはないと、はっきり主張できます。これは、確信です。でも、では、キリスト教だけが正しくて、後の宗教や人生追求の道は間違っているかと言うと、私はそこまでは申しません。 確かに、絶対なる神様に至る道はイエス様以外にありませんが、イエス様に至る道は、たくさんあると、私は確信します。

さきほど

の登山の例えで言いますと、頂上に至る道は、イエス・キリストしかありません。しかし、山の中腹あたりで、その頂上に至る道につながっている道は、たくさんあってもいいのではないでしょうか。
 それは、私の体験です。私は、先ほども申し上げましたように、仏教の中で、真剣に道を追求していました。その追求の延長として、韓国に行った時、教会に導かれ、イエス様を信じて救われました。仏教の中で追求していたからこそ、イエス様に出会ったのです。

よく、

、私のことを、180度の回心ですね。などと言う人がいます。確かに、お坊さんがクリスチャンになったと言えば、外見はそれほどの転回でしょう。しかし、私の内側では、そのような大きな変化はありませんでした。仏教の中で追求していた心が、そのまま何の抵抗もなくイエス様に結びついているのです。
 ですから、登山口は確かに仏教という門から入りましたが、幸いにして、登っていく途中で、頂上に至る道、イエス様に出会い、その道で登っていき、救いを得たのです。それは、私のはっきりとした経験です。
 イエス様を信じるために、もう一度、山の麓まで下りて、キリスト教という門から入りなおしたといういような感じはまったくありません。

ですから

これは、仏教ばかりでなく、真剣に、人々の幸せ、自分の救いを達成しようとする宗教ならば、同じではないでしょうか。たとえ、それが新興宗教であっても、また、宗教でなく哲学のようなものであっても同じです。真剣に求めさえすれば、どの道にいても、イエス・キリストに出会うこともできるのです。

したがって

、たとえ、他の宗教などに熱心な人であっても、熱心だから、イエス様を信じにくいのではなく、熱心だからこそ、求める気持があるのだから、イエス様の近くにいるのです。

ですから、

すでにイエス様を信じて救われたクリスチャンは、他の宗教や、その道をいたずらに批判してはならないと思います。何よりも先ず、相手のその求道的な心を認め、受け入れ、そして、そのままでイエス様を信じるように導かねばなりません。 また、まだイエス様を信じていない人は、ご自分が今まで努力してきたことを捨て去らねばならない、忘れなければならないなどと思う必要はありません。イエス様に出会って救われれば、すべてが最善に変えられ、今までの歩みが神様によってそのまま行かされるようになります。どうか、その幸いを味わっていただきたいと思います。

日本には、希望がある

日本は、仏教が盛んだから、キリスト教の伝道は難しい、と思われがちですが、考え方を変えれば、仏教や、他の宗教が盛んだからこそ、永遠、救いなどに目を向けている人が多いと言うことですから、本当の救いに結びつく人も多いということです。
 さらに多くの人々が、イエス様によって救われていくと、私は確信します。

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