礼拝めっせーじ
礼拝説教03/11|新礼拝メッセージ集礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2001-03-11『ほふられた小羊』(黙示録5章1〜8節)

(イントロ )

ヨハネ

の黙示録の5章は4章からの続きで、ヨハネは天国の様子を描いています。彼が目を上げると、天国の御座が見え、そこに座っておられる方、つまり神ご自身のて右の手に巻物が握られていました。この時代の本は今と違って長い巻物でした。パピルスか羊の皮を横に長くつないで両端に木の棒があって巻かれていました。長いものは全部伸ばすと10メートルになるような巻物もあったそうです。パピルスも羊の皮も非常に値段が高かったので、たくさんのことを書く場合は表にも裏にも小さな字で書かれていました。そして神様が手に持っていた巻物は7つの封印で閉じられていました。いつも言っているように聖書で7は完全数ですから、7つの封印で閉じられているということは、この巻物の中に書かれている内容は神様以外はだれも知ることのできない、絶対的な秘密だということを表しています 。その中に何が書かれているのか、ヨハネはここでは何も言ってませんが、おそらく、黙示録の5章から8章までの内容が書かれていたと思います。一つの封印が取られると、次の巻物が現れていく様子が5章から8章までに書かれているからです。黙示録の内容は私たちの未来の姿が描かれています。これから世界がどのようになって、最後に神様がどのような勝利を収めるのかということが書かれています。

そのような

巻物を、右の手にもっておられる神様、これは、私たちの将来の全ては神の手に握られていること、神様がどんな時も、全てを御支配しておられることを表しています。私たちは自分の明日がどのようになるさえ分かりません。私たちは自分の将来を考える時に何に頼ればよいのでしょうか。会社に頼っていてもいつ首切りになるかも知れません。政府の働きもどうでしょうか。いずれ年金ももらえなくなるかもしれません。じゃ自分に頼るとしても、自分の体力も能力もだんだん衰えてしまいます。しかし神様を信じる人は将来について心配する必要はありません。将来はすべて神様の右の手、力強い手の中にしっかりと握られているからです。聖書は、神は実にひとり子イエス・キリストを十字架にかけて命を捨てるほどに、私たちを愛しておられると教えています。それは私たちのいのちが滅びないで、永遠に生きるためなのです。それほどに私たちを愛しておられる神様、しかも天において地上において一切の権威を持っておられる神様があなたの将来をもしっかりと握っておられる時に、何を心配する必要があるでしょうか。ただ、主に信頼して歩み続ければよいのです。
 

そのとき、

天使の声が響いて、「巻物を開いて、封印を解くのにふさわしいものは誰か」という言葉をヨハネは聞きました。しかし、ヨハネは天にも地上にもその封印を解くのにふさわしい人がいなかったので、激しく泣いていました。なぜ、ヨハネはこのように激しく泣いているのでしょうか。それは封印を解くのにふさわしい人が見つからなかったからです。神様からのメッセージがあるのに、それを開くことができる人が見当たらないために、そのメッセージを聞くことができないのです。聖書は、たとえ人間がどんなに素晴らしい知恵や知識を持っていても、どのような宗教的な経験を持っていても、人間の力で理解することはできないことを現しています。ですから、多くの人が「聖書は難しい」「聖書を読んでも分からない」「聖書は面白くない」と言いますが、それは当然なのです。聖書は娯楽の本ではありません。面白い小説を読むのとは違います。しかし、いのちを得るか失うかを決定する大切なメッセージですから、どうしてもそれを読まなければなりません。例えば、コンピューターや携帯電話のマニュアルは、わたしのような機械に弱い人間には非常に分かりにくい本です。どうしてもっと分かりやすく書けないのかなと思ってしまいます。読むのがいやです。車の保険についている説明書も小さい字でたくさん書いてあるので読みません。しかし、本当にコンピューターのような機械を使えるようになるためにマニュアルを読むことはどうしても必要です。保 険の説明も良く読んでおかないと、実際に保険を使う時に正しく使うことができません。聖書は、そのようなマニュアルや保険の説明書よりもずっと大切な問題、いのちの問題を扱っていますから難しいのは当たり前です。しかし、それを読まなければいのちを失うことになるのです。

ヨハネは

激しく泣きました。どうしても神様のメッセージを知りたかったからです。それだけ彼は神様のメッセージを求めていました。私たちはヨハネのような気持ちを持っているでしょうか。神様のメッセージが聞くことができないので激しく泣いているでしょうか。しかし、その時、長老の一人がヨハネに語ります。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます 。」泣いているヨハネに神様は長老を遣わして「泣かないでもよい」と慰めの言葉を与えられました。「ユダ族からでたしし、ダビデの根」というのはキリストを現す言葉です。主イエス・キリストだけが神様のメッセージを知り、 それを人々に示すことができる方なのです。その理由は、主が勝利を得たからであると書かれています。十字架の死 と復活によって死の力、罪の力に打ち勝たれたからです。私たちは、主イエスを信じる時に、イエス・キリストの霊 、聖霊を受けると約束されています。キリストの霊を受けて聖書を読む時に、どのような人でも聖書のメッセージを 理解することができるのです。聖書の読み方はいろいろあります。歴史の書物として読むこともできますし、文学の
一つとして読むこともできるでしょう。しかし、聖霊の導きを受けて読まなければ、そこに書かれている神様のメッ セージを本当に理解することはできません。私たちの信仰は、神様から一方的に与えられる信仰です。救われること もそうです。私たちが罪を許されて神様のこどもになるために、私たちが自分でできることは、ただ神様が与えてく ださる救いを受け取るだけなのです。聖書を読む時も、その理解は神様から与えられるのです。聖書を読む時に、聖 霊の教え、導きを求めて祈りつつ読むことが大切です。「主よ、わたしに語ってください」と求めて読むことが必要です。

ヨハネは

「ユダ族のしし、ダビデの根」と呼ばれた主イエスが、巻き物の封印を解くことができるということを聞き ました。それまで泣いていたヨハネが目を上げて見ると、ほふられた小羊が立っているのが見えました。イエスは「 ユダ族のしし、つまりライオン」と呼ばれる方でした。ライオンは野獣の王としての強さと堂々とした風格を持って います。ユダヤ人はそのような全能者である救い主メシヤを待ち望んでいました。しかし、ヨハネの目の前に立って いたのはほふられた小羊でした。つまり、まだその体にはいけにえとして捧げられた時の傷痕が残っていました。イ エス・キリストは神のひとり子として罪やけがれのまったくない小羊のように聖なる方でした。しかしその体にはみ にくい傷痕がつけられました。人間の罪のために十字架で受けられた苦しみ、恥、死を現しています。主イエスは、 天に帰られた後も、十字架で示されたのと同じ愛をもって私たちを愛し、そして私たちの罪は完全に許されたことを 体を持って表わしておられるのだと思います。

しかし、

この小羊には別の姿がありました。体に傷を持った小羊には7つの角と7つの目がありました。繰り返し言 いますが、聖書では七は完全を現す数です。旧約聖書では角は力のシンボルでした。ですから、私たちの主イエス・ キリストは完全な力を持っておられる方です。また7つの目を持っておられます。目は「全世界に遣わされた神の七 つの御霊である」と書かれています。イエス・キリストの目はすべてを見通すことができます。全世界に遣わされているのですから、この地上で神様の目が届かないところはないのです。主イエスは肉眼では見えません。しかし、この世界のどこにもおられて、私たちがどのような状況にあるのかを全部知っておられるのです。例え、私たちが困難 な状況に置かれていても、絶望的なことが起きたとしても、けっして私たちは「もうだめだ」と言う必要がありませ ん。言うべきではありません。あなたのところにも、わたしのところにも主イエスの霊が届いているのですから。 その時、小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取りました。主イエスだけがその巻き物を開くのにふさわしい方であり、またその権威を持っておられる方です。主イエスが封印を開かれると、その巻き物が開かれて、世の終わりに起きる様々な出来事が明らかにされます。その内容は6章以降に書かれています。主イエスが 巻き物を開く時に、いよいよ世の終わりの時代が動き始めるのです。すると、四つの生き物と二十四人の長老は、お のおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏しました。

この前

のときに話たと思い ますが4つの生き物はこの世の自然界をあらわしています。また、24人の長老とは教会、神を信じるクリスチャンたちを現しています。自然界と教会とが神の前にひれ伏しています。彼らは竪琴を持っていますから、彼らは神様を賛 美しています。神様は私たちの賛美を喜ばれます。詩篇22篇には「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」と書かれています。主は私たちが心からささげる賛美を喜び、そこに住まわれるというのです 。私たちが賛美するところに主イエスがともにおられ、力と祝福を与えてくださいます。また彼らは香いっぱいはいった金の鉢をも持っていました。そしてこの香はクリスチャンの祈りであると書かれています。香というのは素晴らしい香りで神様を喜ばせるものですが、それはクリスチャンの祈りだと書かれています。私たちが神様に祈る時、ただ一人で祈っているのではありません。また教会の人たちだけで祈っているのでもありません。この御言葉によると 、天においても私たちとともに大勢の人々が祈っているのです。私たちの祈りがどんなに小さな祈りであっても、神 様はその祈りをすばらしい香水の香りのように喜んでくださるのです。私たちは祈りが上手とか下手とか考える必要 はありません。小さな子供を持っておられる親御さんたちは子供が片言で語る一つ一つの言葉を本当に喜びます。神 様に対する祈りも同じです。祈りにおいて大切なのは、言葉づかいではありません。神様に対する心です。ですから 、私たちもたえず祈りの香を神様の前にささげていうことが大切なのです。

私たち

が信じている主イエス・キリストは本当に素晴らしい神です。私たちのために聖なる体に傷を受けてください ました。しかし、今は天国の中心にしっかりとたって、この世界を、世界の歴史を支配しておられます。私たちはこ んなすばらしい方を信じているのです。だからこそ、神様を賛美し、神様に祈りをささげるのです。将来もすべて主 の御手の中に握られています。賛美と祈りの人生を歩み続けて行きましょう。

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