礼拝めっせーじ
礼拝説教03/18|新礼拝メッセージ集礼拝メッセージ集聖日礼拝


礼拝説教 2001-03-18『歴史の完成者キリスト』(黙示録5章9〜14節)


黙示録
の5章

において、ヨハネが見た幻はひとつの巻き物でした。ヨハネは、最初、誰もその巻き物を開くことがで きないために、激しく泣きました。それは、神様のメッセージが語られているのに、それを聞くことができなかったからです。ヨハネはいつも、神様のメッセージに対して、そのような熱い思いを持っていました。しかし、天国にい る長老の一人が「泣く必要はない。救い主がおられるから。」と語ったので、ヨハネが目を上げると、そこに十字架 の傷をおったままの小羊が立っていました。神のひとり子である方、王の王、主の主であるはずの方が、弱々しい、 しかもひどい傷を負った姿で立っておられました。非常に不思議な光景です。ヨハネは5章3節に書いていますが、 封印された巻き物を開くことができる人がいないかとヨハネは見回しました。しかし、天にも、地上にも、地の下に も、この巻き物を開くことができる人は誰一人いなかったのです。この世界のどんなに権力を持った指導者も、どんな知識を持った学者も、またどんな財産を持った金持ちも、その巻き物を開くことはできなかったのです。それなのに、その巻き物を開くことができるのは、天国の真中に立っている、十字架の傷を負った小羊としての主イエス・キ リストお一人だと言うのです。これが聖書の不思議なメッセージであり、いわゆる奥義なのです。

この巻き物

は7つ の封印で完全に閉じてありました。人間的な知恵や力ではどうしても開かないのですが、神の小羊である主イエスが 、その封印を一つ一つほどいていくにつれて、その書物に隠されていたことが現象として起きるのです。この世界の歴史の一つ一つがその中に隠されていて、封印が解かれるにしたがって、この世の歴史が動いて行きます。終わりに 向って動いて行きます。その巻き物を開くことができるということは、この世界の歴史、この世界の未来について、 私たちには知ることのできない奥義全体を、この小羊である主イエスが握っておられるという意味です。主イエスだけが、これからの世界の動きをすべて支配しておられる方であり、また、私たちの人生の将来も、主イエスの御手の中に握られているのです。ですから、私たちはたとえ明日のことさえどうなるかわかならなくても、恐れる必要はないのです。わたしのために、十字架にかかって自分の体に傷を受け血を流してくださったお方が、私たちの将来のためにもすべてのことを整え、守ってくださると信じても大丈夫な方だからです。

世の中の人々

は、この十字架の傷を負った小羊の姿だけを見ているので、この奥義が分からないのです。どうして、 呪いの象徴、罪のシンボルである十字架にかけられたイエスが本当の支配者であるのか理解できません。ですから、 「神様は分かるんだけど、なぜイエスが必要なのか分からない」という人が多いのです。しかし、神であるお方が、 ご自分の栄光を犠牲にして私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださったからこそ、これからの世界の歴史を記した巻き物を開くのにふさわしい方だと言えるのです。私たちをいのちをかけて愛してくださる方は、これから巻き物の封印を一つ一つ開いて、新しい時代を開いてくださいます。

この5章の

後半には三つの賛美が書かれています。天国においてすばらしいコーラスの声が響いています。最初に4つの生き物と24人の長老たちが賛美していま す。彼らの賛美は主イエスが封印を開くのにふさわしい方であると喜びの賛美をしていますが、 なぜ、主イエスが巻き物を開くのにふさわしいのか、彼らは賛美の中でその理由を三つ挙げています。(1)主は血 を流して、私たちを贖ってくださったこと。(2)あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々を集めてくださっ たこと。(3)人々を王国、祭司としてくださり、ひとびとがこの世を治めるようになること。 まず第一に、主は血を流してわたしたちを贖ってくださいました。贖いというのは、もともと「奴隷を自由にするために支払う金」を意味していました。主は言われました。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって 仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。 」(マタイ20章28節)主イエスは、自分のわがままや弱さに悩み縛られている人々を自由にするために自分のいのちを犠牲にするために神であるのに人となったと言われました。主イエスの弟子たちは主が生きておられる限り、 自分たちは救われると思っていましたが、主イエスは、そうではなくて、ご自分の十字架の死が信じる人々を罪の束 縛から自由にすることをご自分の体をもって証明されたのです。
 

なぜ十字架

が贖いになるのでしょうか。旧約聖書の時代は、人々の罪が許されるために動物が殺され、その血が流されました。血が流されたことによって罪がゆるされたのです。血は罪にしばられて滅びに向って生きている人々のいのちを現しています。また、血は傷や汚れのない動物のいのちをも現しています。汚れのない動物の血が流されたことは、その動物が人間の罪の罰を代わりに受けたことを現しています。だからこそ、この動物の血が流されたことによって神様は人々を許すことができるのです。旧約聖書の時代には、普通の人々は直接神様に近づくことはできませんでした。祭司とよばれた人によって動物がいけにえに捧げられた初めて、人々は神様に近づくことができました。かつては人々の罪を帳消しにするために傷のない小羊が祭壇の上でころされました。しかし、神の小羊である おかたがは十字架のうえで血を流してくださったのです。

第二に、

主イエスが十字架で御自身をささげた、その犠牲は完全なものでした。ただ一度十字架で御自身をおささげになったことによって、「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から神様は人々を集めてくださいました。」そこにはなんの差別もありません。そこには民族や、言葉、人種、また男と女の差別はなく、すべてのひとびとに平等に罪の許しは与えられています。この世は非常に不平等な世界になっています。強い人はますます強くなり、弱い者たちが苦しんでいる世界です。しかし、主はいのちを捨てるほどにこの世のすべての人を愛されたのです。

そして第三

に、主イエス・キリストは私たちに勝利を与えてくださるからです。主イエスの十字架の死は決して無駄 な死ではありませんでした。キリストの十字架の死は、私たちを王国とされたとあります。王国とは神様の国ということですから、私たち罪や汚れを持っている者を神様の子供という尊い身分にされたということです。そしてまた、 私たちは祭司にされたと書かれています。旧約聖書の時代、神様に近づくことができたのは祭司だけでした。エルサ レムにはイエス様の時代にも素晴らしい神殿が立っていましたが、普通のユダヤ人は、異邦人よりも神殿の近くにまで行くことができましたが、中に入ることはできませんでした。そこから奥は祭司だけが入ることができたのです 。しかし、主イエスが十字架で死なれた時、神殿の奥にかかっていた幕が真っ二つに裂けたことが現しているように 、神様と人間を隔てていたものがすべて取り払われました。すべての人は、今、直接神様に向って祈ることができます。ヘブル人への手紙4章15−16節には次のように書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」そして神を信じる者は治めると書かれています。最後に本当の勝利者になるのは主イエスを信じる者たちだという意味です。私たちはこの世にあっては苦しいことや悲しいことを経験します 。しかし、主イエスを信じる者には、巻き物を開くのにふさわしい方がついているのです。この地上での生活がどのようなものであり、将来、私たちは神様とともに世界を治める人々の群れに入るのです。だから、イエス様も、十字 架にかかられる前に、恐れを感じていた弟子たちに向って「あなたがたはこの世では悩みがあります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのだ。」と言われたのです。

4つの生き物

と24人の長老が始めた賛美の輪が急に大きく広がりました。天国のすべての天使たちがこの賛美に加わってきたのです。11節に、天使の数は万の幾万倍、千の幾千倍であったとありますが、あまりに多くて数えることができないほどという意味です。天使たちはほふられた小羊の本当の姿を賛美の中で現しています。4つの生き物と長老たちは主イエス・キリストの十字架の働きを賛美しましたが、天使たちは、神の御子キリスト、復活して神であることを証明されたキリストが7つのものを持っていると歌っています。「キリストは力と、富と、知恵と、勢い と、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」キリストは力に満ちた方です。キリストは聖書の中でたくさんの約束をしておられますが、その約束をすべて果たす力を持っておられます。だから私たちは主イエスを信頼することができるのです。主は富を持っておられます。主は豊かな方でしたが、私たちの身代わりに十字架にかかるために貧しい者となってくださいました。しかし、復活された主は本当に豊かな方です。私たちがどんなに大きなことを祈り求めても、それに答えることのできる富を持っておられるのです。知恵も主イエスにふさわしいものです。 聖書は知識は人を傲慢にすると言っています。私たちは知識を誇ります。しかし、本当に正しく、本当に豊かに生きるには知識だけではだめです。キリストから人生のあらゆる問題に対処できる知恵を受けなければなりません。勢いは力と同じ意味でしょう。誉れ、栄光もキリストにふさわしいものです。ヨハネは福音書の中に書きました。「わたしはその方の栄光を見た。それは父なる神のひとり子としての栄光であって、めぐみとまことに満ちていた。」これこそが本当の主イエス・キリストの姿です。しかし表面的なものしか見えない私たちの目には、主イエスの栄光が見えないのです。そのために多くの人々は主イエスを神として信じることができません。そのような救い主キリストに対して、私たち人間が捧げることができるもの、それが賛美なのです。主はすべてのものを持っておられる方です。 そのようなお方に私たちが捧げられるのは、賛美です。

この賛美

の輪はさらに広がりました。天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物が賛美をしています。つまり宇宙全体が主イエス・キリストを賛美しているのです。そして、その賛美は小羊であるキリストだけに捧げられているのではなく、御座に座っておられる方、つまり父なる神様にも捧げられています。

「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」私たちが信じている神様、父なる神 、御子イエス・キリスト、聖霊なる神には、永遠の祝福、永遠の誉れ、永遠の栄光、永遠の力があるのです。 詩篇 は全部で150ありますが、最後の150篇は賛美の詩篇です。1―2節を読みましょう。

「 ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。」この詩篇は初めから終わりまで主をほめたたえよ と言っています。私たちの生活も朝起きた時から、夜床につくまで主をほめたたえる生活でありたいと思います。賛美とは、ただ口で歌を歌うことではありません。2節に「その大能のみわざのゆえに」と書かれています。私たちが 信仰に生きる時、神様が自分の生活の中にもさまざまな働きをしてくださっていることを知り、そのために神様に感 謝をし神様を賛美する、これは天国の生活の先取りではないでしょうか。私たちは一人で生きているのではありませ ん。この大能の力を持った神様から愛されて生きているのです。今週1週間、みなさん、少し考える時間を取ってく ださい。「私の生活の中で神様はどのようなことをしてくださったか。」考えて見ましょう。そして神様に感謝し、 喜びの賛美をささげましょう。

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