礼拝説教
2001-03-25『重荷をおろしなさい』(マタイ11章28-30節)

に「幸せは満足することにある」というのがありますが、これは真実の言葉だなと思います。人は、 どういうわけか、いつも何かを求めて生きています。なかなか今自分が生きている現状に満足できないのです。他の人から見ると、とても幸せな人生なのに、その人自身はまだ何か足りないと不満を感じていることがよくあります。そしてその人は、もっとすばらしい生活があるはずだと期待して何を求めているかも分からないまま絶えず「もっと良いもの」「もっと多くのもの」を求め続けて行くのです。でも、このようにただ捜し続けるだけで、人生が終わってしまったら、とてももったいないと思います。私自身、クリスチャンになる前にそのような生き方をしていました
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希望を持って入ったのですが、授業が面白くなくてよくぶつぶつ大学の文句を言っていました。家にいても あんまり楽しくなくて、いつもいらいらしていました。 そんな時に、初めてクリスチャンの集会に行ってクリスチャンに出会った時、一番印象に残ったのは、彼らの顔が輝いていたことでした。彼らは短い間日本に滞在して伝道していた若い宣教師たちでした。共同生活で生活はずいぶん質素でした。しかし、彼らはなぜか喜びに満ちた顔をしていたのです。「こんな生活なのに、なんであんなに喜んでいるんだろう。」不思議でした。それで、聖書を読めばその
秘密が分かるかなと思って、わたしは聖書を読み始めたのです。多くの人は今の生活が幸せだとは思わずに、求めています。イエス様の時代の人々も同じでした。その姿を見て、イエス様は言われたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」
の時代、ギリシャ人たちは真理とは何かという問題をいつも考えていて疲れていました。彼らはこの世に真理がある、神がいると思っていたのですが答えが見つけることができなかったのです。ギリシャ人の言葉に「神を見つけ出すのは難しい。そしてたとえ見つけ出したとしても、それを誰かに伝えるのは不可能だ。」というのがあるそうです。人間の知恵や経験だけを頼りにして真理を求めて、それが見つからずに悩んでいる人々に向って主イエスは「疲れている人々よ」と呼びかけておられるのです。また、その頃の信仰深いユダヤ人にとって、信仰生活はとても苦しいものでした。重荷でした。旧約聖書の時代に、神様は人間が正しく生きるためのルールを与えられました。それを律法と言います。しかし、ユダヤ人たちは、その律法を守るためにもっと細かな決まりを作りました。そのために、神様が最初にあたえた律法は10だけだったのですが、それがいつのまにか百科事典が作れるぐらいにたくさんの規則ができてしまいました。ですから、どんな規則があるのか全部覚えるのも無理ですし、まして、それを全部守ることなんか絶対に不可能です。ですから、ある時、主イエスはユダヤ教の指導者であった人々について「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」と言われました。ギリシャ人のように真理を求めて答えが見つからずに疲れている人々も、ユダヤ人のように沢山の規則を押し付けられて重荷になっている人々も絶望的になっていました。
に向って主イエスは言われたことは「わたしのところに来なさい。」という招きの言葉でした。イエス様は人々に向って「神のところへ行け」とは言われませんでした。わたしは失われた人々を捜して救うために、神の栄光を捨てて低い姿をとってあなたたちのところに来たのだ。だからわたしのところへ来なさい。」と招いてくださるのです。なんと素晴らしい言葉でしょうか。聖書は、一人一人の人間は心がねじれていて、自分勝手に生きているから生まれつきの心は、正しい神に向わないと教えています。正しいコンパスなら北を指すでしょう。しかし、コンパスが狂っていると北を指さなくなります。それと同じで、罪を持ったねじれた心は神の方を向かないのです。そこで、主イエスは、そのように神に反抗する人々のところへ来てくださって、何もしかる言葉、責める言葉を言わずに、ただ「わたしのところへ来なさい。」と声をかけて下さるのです。
の中でも、神様は同じように私たちを招いておられます。イザヤ書55章1―3節です。これは神様の言葉です。「渇いている者は来なさい。金のない者も来なさい。」と招いておられます。私たちは何とか自分の力で自分の価値を作ろうとがんばります。しかし、神様は言われるのです。「あなたに何も価値がなくてもかまわない。そのままでいいから私のところに来なさい。」これを恵みと言うのです。神様の招きを受けるのにふさわしい者ではないのに、神様は招いてくださいます。あなたが今心が渇いているように感じるなら、何かを求めているのなら、一番確かな行動は、神様の招きに答えて神様のところにくるのです。しかし人は神の招きに答えず、この世のものに答えを求めようとします。2節で神様ははっきりと言っておられます。「食料にもならない物のためになぜ金を払い、腹を満たさない物のために労するのか」と。旧約時代に世界中の富を手にしたソロモン王も言いました。「この世にあるものはすべてが空しい。」本当に満たされるのは神様の声に聞き従う者です。この「聴く」という言葉は心をこめて聞くという意味です。私たちが何かに一生懸命になるとしたら、神様の言葉を聞くことに一生懸命になることが大切なのです。そのとき私たちは脂肪で元気づこうと書かれています。神様が本当においしいもの、本当に良いもので私たちを養ってくださると約束されています。私たちは神様の声に聴くよりも人の声に聞いて失敗することが多いと思います。3節には神様の声に聴き従うものには神様が永遠の契約をしてくださると言っておられます。
は「わたしのくびきを負いなさい。」と言われました。神様の声に聞き従うことは主イエスのくびきを負うことだと言えると思います。イスラエルでも、牛のくびきがよく使われていました。人は牛を買うとまず、牛の首のサイズを測って、それに合わせてくびきをつくりました。そして牛の首にはめて、牛の首が痛くないようにぴったりとサイズを合わせました。イエス様はわたしのくびきは負いやすいと言われました。伝説では、大工として働いていた時にイエス様はくびきを作るのが上手だとガリラヤ地方で有名だったそうです。牛のサイズにぴったり合ったくびきだったのでしょう。くびきは2頭の牛の首に木の枠をはめて、2頭が一緒に働くようにするものです。このようにくびきでつながった2頭の牛は、1頭ずつの力を合わせたよりも大きな力をだすそうです。イエス様が「わたしのくびきは負いやすい」と言われたのは、「わたしのくびきはあなたの体に合っている。」ということでしょう。イエス様が私たちに与えるくびきは私たちを傷つけるようなものではありません。私たちの力、私たちの性格に合ったものなのです。そのような私たちにぴったりのくびきをイエス様が一緒に背負ってくださいます。私たちとともに生きてくださるのです。主イエスのくびきを負うとは、主イエスをともに生きることによって主イエスから学ぶということです。
誰かとともに生活することによって、その人からいろいろなことを学びます。私たち人間は、かならず、何かとくびきをともにして生きているのではないでしょうか。この世の生き方とくびきを共に生きる時、私たちは悩み、疲れ、重荷を背負ってしまいます。いつも人の言葉、人の目を気にして、誰かと比べ、誰かと競って生きて行かなければならないからです。そして主イエスの謙遜と柔和を学びなさいと勧められています。主イエスは特に十字架にかかることによって謙遜と柔和を私たちに現してくださいました。ペテロ第1の手紙2章21-24節に次のような言葉があります。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」私たちが罪を許されて神と共に生きるようにと主がこのような苦しみをわざわざ受けてくださいました。私たちのために示された主イエスの謙遜と柔和を学ぶ時、わたしたちは主イエスの愛に捕らえられるのです。これほどまでに私たちを愛してくださる方がいることを知る時、私たちは心に平安を感じるのです。主イエスは言われました。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。主イエスとともに生きる時、人生の重荷は軽いのです。軽くなります。主イエスが一緒にその重荷を担いでくださるからです。
今人生の中で何かを求めていますか。自分の人生には何かが足りないと感じて捜していますか。そのようなあなたに主イエスは言われました。「そのままで、わたしのところに来なさい。」私たちが帰るべきところは、主イエスのところです。自分の親を捜して迷子だった子供が母親の胸に飛び込むようなものです。そこに本当の平安が待っているのです。イエス様は、あなたに「もっと自分を変えてから来なさい」とか「もっと自分を整えてから来なさい」とか言われません。「今のままでわたしのところに来なさい」と言われます。今、あなたも心を開いて主イエスのところへ行ってください。必ず、他では決して得ることのできない平安を経験されることでしょう。
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