礼拝めっせーじ
礼拝説教04/01|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-04-01『キリストはなぜ十字架に?』(ピリピ2章5-11節)


まもなく
私たちは

受難週を迎えます。来週の4月8日から始まる一週間です。その週の金曜日に主イエス・キリストは十字架にかかりました。そして、その3日後の日曜日に主イエス・キリストは死から復活して、ご自身が神であることを証明し、また、私たち人間が新しく生きるための道を開いてくださいました。聖書の教えによると、私たち人間は神とともに喜びと平安に満ちて生きるように造られました。しかし、自分勝手な生き方を求めて神から離れてしまったために、今、人間は惨めな状態になってしまいました。それはちょうど家出をした子供のようです。親との生活を嫌って家を出た若者が、一人で生活を始めると自分の欲望や自己中心の考え方のために、惨めな生活をしてしまうことがよくあります。今、人間が生きる時にさまざまな問題や悩みがあって、決して生きることが喜びにならない、そのような状態で私たちが生きているのは、実は、神から離れていることが根本的な原因なのです。そして私たちは、自分の中にある自己中心の心、それを聖書は罪と呼びますが、それを解決しない限り、私たちの生活にはいつも悩みや不安や苦しみが伴います。そして、悲しいことに、私たちは自分で自分の罪をなくすことができないのです。ところが、神である主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、その罪の問題を解決するために十字架にかかられました。神様の前に、罪を持った人間は死刑の宣告を受けたようなものです。しかし、私たちの代わりに主イエスがその死刑を受けてくださったのです。神様の心は、全ての人々が罪の中で死ぬよりも、わたしのひとり子であるイエス・キリストが死ぬほうが良いという考えでした。主イエス・キリストは、あなたが罪の中で死ぬよりも、自分が十字架の刑を受けることを望まれたのです。十字架に表された主イエスの態度について、今日、読みましたピリピ人への手紙の2章に詳しく書かれています。

ピリピの
教会は、

この手紙を書いたパウロがとても愛していた教会でした。パウロがピリピに教会を建てた時から、パウロがこの手紙を書いた時まで、ピリピの教会の人々は貧しい人々が多かったのですが、いつも彼の働きのために祈り、また献金を捧げていました。パウロにとっても、ピリピの人々のことを考えると喜びを感じました。しかし、そのようなピリピの教会も、やはり罪を持った人々の集まりですから、いろいろな問題があったようです。それが2章3節に書かれている言葉に表れています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」この自己中心と訳されている言葉は他の聖書では「党派心」と訳されています。人間の罪はこのような姿になって現れることが多いのです。「3人集まればグループに分かれる」と言われるように、自分の利益を求める人々は、いつも自分が中心で、自分のことを第一に考えます。誰もがそのように生きるために人間関係の中でいつも争いがあり、分裂します。そのような私たちのために主イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。

6節の言葉を読みましょう。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」と書かれています。これは良く考えて見ると、驚くべきことです。神の御子イエス・キリストは天にあるすべての栄光を持っておられ、父なる神、聖霊なる神とともにこの世界を支配しておられる方です。すべてのものを持っておられ、何も足らないものがありません。ところが、イエス・キリストは神であることを、しっかり握り締めて絶対手放すことができないとは考えないで、神としての栄光、特権を捨てて、低くなられて、私たちと同じような姿になられたのです。

イエス・
キリスト

は神としての特権を持っておられました。とにかく、この世界にあるものは何でも、自分の自由に使うことができるのです。ところがそのようなものすごく大きな特権を全部捨てて、私たちのような人間になられたのです。私たち人間は小さな特権でも、決して手放さないで、自分の利益のためにそれを使います。あの外務省の松尾という人も、自分の地位、職権を使って、自分のためにマンションを買ったり、馬を買ったりしました。政治家にいつも賄賂が伴うのも、その特権のためです。しかし、イエス・キリストの態度はまったく反対です。自分のために使わず、むしろ、私たちを助けるために、それを用いたのです。

そして、

主イエスはご自分を無にして仕える者の姿を取られました。ご自分を無にするとは、神としての特権を自由に使えるのにそれを手放したことを意味します。そして人間と同じ肉体を取って人となられました。そしてその肉体をとられたのは仕える者になるためでした。最後に主イエスはその肉体を十字架にまで運び、そこで自分から進んで死なれました。天国の栄光の場所からこの地上に降りてこられ、栄光の生活から恥と苦しみの生活に、支配する者から召使いに、いのちから死へと進んで行きました。しかも、その死は、もっとも苦しく、恥である十字架の死でした。最も高いところから最も低いところまで下りてこられたのは、私たちを罪の世界から高く上げるためでした。「仕える者の姿」と書かれていますが、この「姿」と訳されている言葉のもともとの意味は、「心の内にあるものが外に現れたもの」という意味です。つまり、主イエスは召使い、奴隷の真似をしたのではなく、召使いそのものになられたのです。召使いの役割を演じていたのではなく、まさしく召使いだったのです。主イエスはご自分で言われました。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためです。」そしてそのことを主イエスは十字架にかかる前の夜に弟子たちに表されました。主イエスが弟子たちといっしょに最後の食事をするため2階の部屋に集まっていました。そのとき、主は突然立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取りました。そしてたらいに水を入れて弟子たちの足を洗って、てぬぐいで拭きはじめました。家にお客を招く時に、お客の足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかもユダヤ人の奴隷ではなく、外国人の奴隷がする仕事でした。つまり最も低い仕事だと人々は考えていました。ところがその仕事を、先生である主イエスが弟子たちために始めたので、弟子たちはびっくりしました。ヨハネの福音書の13章4〜5節を見ると、主イエスは、十字架にかかる時が来たことを知って、弟子たちにご自分の愛を残るところなく示されました。

そして、

その次の日に、主はすべての人々の罪が赦されるように、十字架にかかってくださいました。ご自分のいのちを犠牲にされました。多くの人々は他の人のために何かをしようと考えます。しかし、そのために大きな犠牲を払わなければならないと分かると、すぐにその考えを捨ててしまいます。ところが、御子イエス・キリストは、神の特権を捨てて人となられただけでなく、自分から進んで十字架の死という大きな犠牲を払ってくださいました。出来事だけを見ていると、主イエス・キリストはユダヤ人の陰謀に引っかかって殺されたのだと人々は考えます。しかし、イエスの死は、そのような死ではありません。自分から進んで命を捨てられたのです。それは罪の中に死んでいる私たちに新しく生きる力を与えるためでした。

主イエス・
キリスト

は神であることを辞めたわけではありません。主イエスは最後まで神であり続けました。ただ自分の特権をすてて、神と人間に仕える者になられたのです。それは十字架のうえで私たちの罪を赦すための働きを完成するためでした。主イエスが十字架にかかれた目的は何でしょうか。それが10節に書かれています。「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」主イエス・キリストは自分の命を犠牲にして、人間が罪を赦されてもう一度神とともに生きることができるようにしてくださいました。この主イエスのへりくだり、謙遜によって、私たちは「イエスは主である」と告白するようになったのです。十字架で、主が行ってくださったことは、自分の特権・自分の立場を主張することではなく、私たちの立場に立つことでした。そして私たちのために謙遜の限りを尽くして、ご自分の愛を表してくださいました。私たちが人のために何かをするとき、ほとんどの場合、頭の中で計算をしています。誰かのために何かをしてあげると思うとき、私たちはそれに対する結果を期待します。「これだけのことをしたのだから、相手もこれだけのことをしてほしい」という思いです。そのような計算をしている時、期待していた結果が起きないと、不満や怒りを感じます。私たちの愛は本当に薄っぺらなものです。しかし、主イエス・キリストは十字架にかかられてから今日まで、二千年もの間、ずっと忍耐してこられました。人間は主イエスの十字架のことを知っても、なかなか簡単には主イエスに向かってひざをかがめることをしません。でも、主イエスは途中で私たちの対する愛を止めようとはされません。主イエスは、私たちを愛し続け、忍耐し続け、待ち続けてくださる方です。


イエス

は十字架にかかられた時、十字架の上で7つの言葉を話されました。最初の言葉は私たちのためのお祈りでした。「父よ。彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからずにいるのです。」主イエスは自分を殺そうとしている人々のために赦しを求めて父なる神に向かって祈りを捧げてくださいました。私たちにとって赦すことは本当に難しいです。復讐することばかり考えます。しかし、主イエスは自分の命を奪おうとする人々のために祈られました。そして父なる神に向かって、私たちのことを弁護しておれます。「彼らは何をしているのかわからないのです。」普通、被害を受けた人は、加害者の行いの中にできるだけ悪いものを見つけようとします。そしてその悪い点を訴えます。しかし、主イエスは十字架でものすごい痛みと苦しみを感じている時に、私たちの将来のことを心配して弁護してくださったのです。主イエス・キリストとはそのような神なのです。この主イエスのお祈りは、2001年を生きている私たちのための祈りでもあります。主イエスは、神を嫌う人、神を無視する人、神の愛を拒否する人、すべての人のために今も祈り続けておられます。

主イエス
は、

今日もあなたのためにお祈りをしておれます。主イエスの愛があなたを変えるのです。あなたは自分で自分を変えることはできません。しかし、この圧倒的な主イエスの愛を知る時に、心に新しい喜びがわきあがり、自然に生き方が変わるのです。私たちは誰かを愛するときに、人生のすべてがばら色に見えるでしょう。同じように、十字架に示された主イエスの愛を知る時、私たちの人生が変わります。ある話を本で読みました。昔、一人の聖人がある朝、木の下で瞑想していました。その木の根は川岸まで伸びていました。瞑想をしている間に、川の水がだんだん増していくことに、この聖人は気づきました。そして一匹のサソリが木の根に引っかかっておぼれそうになっていました。それでその聖人は這って行って、そのサソリを助けてあげようとしました。しかし、サソリは聖人が近づくたびに針で刺そうとします。それを見ていた一人の人が聖人に言いました。「あれはサソリですよ。サソリは生まれつき、人を刺す性質を持っているのです。」するとその人に向かって、聖人は答えました。「確かにそうでしょう。でも、私は苦しんでいる人を助けてあげたいのです。サソリの性格が変わらなくても、それでも、私は助けてあげたいのです。自分の性格を変える必要はないでしょう。」私たちがどれほど神様と敵対していても、神様のあなたに対する心は変わりません。あなたを愛しておられます。あなたを助け、あなたを自由にしたいと願っておられます。どうぞ、この神様の愛を受けてください。

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