礼拝めっせーじ
礼拝説教04/15|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-04-15『死とどう取り組むか』(1コリント15章1-11節)


クリスチャンの信仰の中心

は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。今日の礼拝は今から約2000年前に、主が十字架にかかって三日目に死から復活されたことを記念するイースター礼拝です。

今日

読みました聖書の箇所はコリント人への手紙の第一15章です。この手紙は、コリント教会を作ったパウロと言う人物が書いた手紙ですが、コリントという町はギリシャの商業の中心地でした。今から2000年前のギリシャ人にとっても、死んだ人間が生き返ることは決して信じることができませんでした。ある時、パウロがアテネという町で人々に福音を語っていました。ギリシャ人は珍しい話を聞くのが好きだったので、パウロが新しい神について語っていると思って、彼らは熱心にパウロの話を聞いていました。ところが、パウロがキリストの復活の話をした途端、話を聞いていた人々の多くが「そんな話なんか信じられない」と言ってパウロの話を聞くのを止めてしまいました。

死者

が復活することは、確かに、わたしたちの小さな頭では理解することはできません。信じられないことです。しかし、クリスチャンの信仰の土台はキリストの復活であり、世界の歴史はキリストの復活によって流れが変わりました。主イエス・キリストが復活された直後にはクリスチャンの数は120人くらいだったと思われます。しかし、それから30年後には大都市ローマには皇帝ネロがうんざりするほどたくさんのクリスチャンがいたのです。主イエス・キリストが十字架の前に逮捕された時、主の弟子たちは全員主イエスを見捨てて逃げて行きました。そんな信仰の弱い弟子たちでしたが、主イエスが復活された後、彼らはすっかり変わって、命を捨ててでも信仰を守り、人々に信仰を広めて行きました。自分の命を守るために主を見捨てた弟子たちが、復活は偽りだと知りながら、刀やライオンの牙が襲って来た時に、信仰を守り通すことだできたでしょうか。しかし、歴史は彼らの信仰に従って動いて行きました。ローマ帝国はクリスチャンの肉体は殺せても彼らの信仰を完全に消すことはできませんでした。ローマ帝国はしつこくクリスチャンを迫害し続けましたが、復活信仰は滅びませんでした。最後にはローマ皇帝自身がクリスチャンになって、ローマ帝国は自分の国の宗教をキリスト教にすることを決定するのです。このようなクリスチャンたちの信仰によってキリスト教は今日まで守られて来たのです。

さて、

コリントの教会の中にはギリシャの哲学の影響を受けた人や、信仰の確信を失った人々がいたようです。そこでパウロはそのような人々に対して、クリスチャンが信じるべき根本的なメッセージを15章でまとめて教えているのです。それが15章3節から5節に言われていることです。そこには4つの内容が含まれています。

第一

主イエス・キリストは私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださったこと。私たちが死を恐れる理由はいろいろあると思いますが、その一つに自分が死んだ後に裁きを受けるのではないかという恐れを心の奥に持っているからだと思います。誰でも、自分の死が近いと思う時に自分の人生を振り返ります。そして、後悔の思いに襲われることがあります。「ああ、あの時本当のことを言うべきだった」とか「ああ、あの時、もっと優しくしておけばよかった」とかいろいろな思いが蘇って来ます。人生を振り返る時、誰にでも、後悔することがあるはずです。しかし、聖書は、そのような私たちの弱さ、醜さ、つまり私たちの罪の刑罰を主イエスキリストが身代わりになって受けて下さったと教えています。キリストの十字架があったから、私たちは、死後に裁きを受けるという恐れを持つ必要がなくなったのです 。

第二

「葬られたこと」です。これは主イエスが確かに死んだことを意味します。主イエスの時代から、誰もが認めていたことが3つありました。キリストは確かに十字架で死んだこと。キリストの死体はアリマタヤという町のヨセフと言う人の墓に入れられたこと。そして三日目の日曜日の朝には、その墓が空っぽになっていたことです。それで、死体がどうしてもみつからないので、いろいろな説明がなされました。その一つは、キリストが完全に死んだのではなく一時的に気を失っていただけだという説明です。しかし、十字架という本当に厳しい刑を受けたキリストが大きな岩でふさいであった墓を内側からどうやって抜け出すことができたでしょうか。しかも十字架にかかっていた時に、兵士たちがキリストが本当に死んだことを確認するために槍で脇腹を刺しました。すると腹から水と血が出てきたと書かれています。ですから、キリストは確かに死なれたのです。

第三

は、三日目によみがえられたこと。死んだと言う言葉も、葬られたという言葉も一回だけの歴史的な事実を表わす表現が使われています(不定過去)。しかし、よみがえったというところは、よみがえって今もなお生きておられるという意味合いを込めた表現が使われています。イエス・キリストの別名はインマヌエルと言います。それは「神様が私たちとともにおられる」という意味です。今も生きておられる主イエス・キリストは肉眼では見えませんが、わたしたちとともに生きてくださるのです。クリスチャンに与えられるもっとも素晴らしい約束は、全能の力を持ち、すべてのことを知っておられ、しかも絶対に変わることのない愛をもって私たちを愛してくださる神様がともにおられるという約束です。こどもが親の側で安心するように、私たちは神がともに生きていると知る時に本当の平安を感じることができます。

そして

四番目として、復活された主イエスがケパ、つまりペテロに現われ、他の弟子に現われたことです。このようにして主イエス・キリストはご自分が神であることを私たちに分かる方法で証明してくださいました。パウロは6節で「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます」と書いています。この手紙はキリストの復活の25年後ごろ書かれたようです。だから、その頃、復活された主イエスを目撃した人がまだかなり生き残っていたのでしょう。この当時クリスチャンはひどく迫害を受けましたが、誰もキリストの復活が偽りであることを証明することができませんでした。たとえ弟子たちがキリストの死体を盗んでいたとしても、弟子たちの力とローマの兵隊の力を比べると、弟子たちが隠し通せるはずがありません。それに、主イエスの死体を隠しながら、なぜ死んだイエスが復活したなどという教えを広める必要があるのでしょうか。歴史の流れを考えても、確かに主が復活したとしか考えられないことです。パウロは、これがクリスチャンが信じるべき最も大切な教えであると言っています。

さて、

パウロはコリントの教会の人々に語り掛けています。12節「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。」つまり、あなたがたがキリストの復活を信じているのなら、キリストを信じて死んだ者も復活することを信じなければならないと言っているのです。復活がなかったら、私たちの信仰は土台から崩れます。そして肉体の死がすべてを消してしまうことになります。そうなると私たちは間違った希望を持っている哀れな人間だということなのです。しかし、感謝なことに、主イエス・キリストは確かに復活されました。キリストは、眠った者の初穂としてよみがえられました。ユダヤ人は麦を収穫する時に、その最初の穂を神様に捧げました。それはその収穫のすべては神様のものであることを表わしていました。キリストが初穂として蘇られたということは、キリストを信じる者もすべて、キリストと同じように復活することの保証なのです。

新約聖書

の最も有名な言葉はヨハネの福音書3章16節です。その中に「御子キリストを信じる者は、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つのである」と書かれています。この地上での生活が終わる時、わたしたちは永遠のいのちを受けると約束されています。この永遠のいのちとは、仏教の教えである「輪廻」とは違います。輪廻の教えでは、人間は誰も永遠の昔から永遠の未来に向って生き続けています。そしてこの世界が6つの世界に分かれていて、ある時の生き方が次にどこの世界で生きるかを決めるのです。とにかく人は生き続けなければなりません。6つの世界で一番高い世界が天の世界で、その次が人間の世界です、その下には動物の世界や、地獄など暗い世界が4つあります。輪廻ですから、当然、天の世界にも死があって、その次にどの世界に行くのか分からないのです。輪廻の教えでは、命は生まることと死ぬことを繰り返していつまでもぐるぐる回り続けなければならないのです。昔のインドの人は生きていることが輪廻することで、それを大変苦しいことだと考えました。上から2番目の人間の世界でも、今も昔も、いろいろな争いや苦しみがあふれているのですから、その下の世界はどれほどの苦しみかなと思います。つまりどこの世界に行っても苦しみがあるわけで、永遠にその中をぐるぐる生き続けることは大変な苦しみだと思います。そこで、人々はこのような輪廻の世界から逃れることを目指しました。それが解脱と言われるものです。つまりまったくの自分といういのちがなくなってしまうことを目指すのです。

それに

対して、聖書は、私たち一人一人のいのちは神様によって造られたもので、今、生きているのは、一度限りの大切ないのちなのです。そしてこの地上の世界は、人間の罪が満ちているので苦しいことが多いけれども、大切に生きなければなりません。いのちは神様から預かったものなので、大切に管理しなければならないからです。いのちを与えられたことを感謝して生きるのです。しかし、わたしたちの肉体はいつか死を迎えます。人間は一度死ぬことが決まっています。しかし、主イエス・キリストを信じるもののいのちそのものは消え去ることも滅びることもアリマセン。神と共にいきる永遠の命に入るのです。何もない世界に行くのではなく、神様の愛を受けながら清さと喜びと平安に満ちた永遠の世界です。

ある人は、

永遠に生きても、退屈なだけだと言う人がいます。聖書が教える「永遠のいのち」は、輪廻みたいに、ただいつまでも生きるという意味ではありません。神とともに生きる時に、喜びや幸福がきえることはありません。この地上の世界では、喜びや幸福はすぐに薄くなり消えて行きます。新しい車を買った時、その時は本当にうれしいものです。しかし、何年か乗っていると、だんだん車が汚れてきて、しかも新しい車が出てくるので、「もっと良い車が欲しい」となってしまいます。このような喜びが長続きしないのは、その喜び、幸福感が、自分の外にあるものに依存しているからです。私たちは感じる幸福感は自分の外にあるものに頼っているのです。人気者になることも、会社で出世することも、たくさんの財産を持つことも、好きな人と一緒にいることもすべて自分の外のものに頼っている幸福感です。しかし、神から与えられる永遠のいのちは、そのいのちの中に喜びと幸福の源があるのです。ですから、決して永遠に生きることに飽きたり、いやになったりすることはありません。しかも、この世の終わりには、わたしたちは、栄光の体を神からいただいて復活すると約束されています。15章52-54節に次のように書かれています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」私たちは、このように一度目は朽ちる体をもって生れますが、二度目は朽ちない体を持って生れるのです。

この

約束を知る時、私たちはこの肉体の死を乗り越えられるのです。それが54節の言葉「死は勝利にのまれた」の意味だと思います。フジテレビのニュースキャスターだった山川千秋さんも信仰によって死を乗り越えた方です。山川さんは突然声を失いました。そしてのどにガンがあることが分かりました。しかも手遅れでした。奥さんが山川さんにがんであることを伝え時、二人はただ黙って泣いていたそうです。山川さんは悩み、苦しみました。しかし、しばらくして奥さんが通う教会の宣教師であるベック先生がお見舞いに来られた時、山川さんはベック先生に「わたしは死ぬことへの準備ができていません。どうか私を助けて下さい。」と言いました。そして、ベック先生からイエス・キリストの十字架と復活の教えを聞き、信じました。そしてベッドで洗礼を受けましたが、それから間もなく、山川さんは神様のもとへと移されました。

病室
には

山川さんが息子さんと奥さんに書いた遺書がありました。奥さんへの遺書には次のように書かれていました。

「きよ子。私の妻になってくれて十数年。地上では短かったとすまなく思います。しかし、わたしは本当に幸せでした。私はあなたによって二度生まれ変わりました。私はあなたに巡り合えたことで、あなたに感謝します。深く深く永遠に感謝します。このように計画された神に感謝します。私に、主に対する信仰を植え付けてくれたことで、あなたに感謝します。このように計画された主に感謝します。私は地上であなたを愛した。召された後も、永遠にあなたを愛します。私は心からあなたを愛したし、死後もあなたを愛し続けます。私は愛の中に生き、今、愛の中に死にます。そして、今、主の愛の中に新しく生き、あなたを待ちましょう。二人の息子を残されて、これからのあなたの人生は、決して平坦ではないことを知って、つらい思いでいますが、道は必ず開けます。二人の息子を信じ、たくましく生きてください。あなたなら、かならず、やってゆけます。なによりも、あなたがた三人には、主イエス・キリストの衣があるではありませんか。感謝と励ましと愛を込めて。山川千秋」

 55才、仕事も一番脂が乗っている時に死を宣告されることは何と辛いことでしょう。そのような時、わたしたちは、神を呪い、自分の運命を呪います。しかし、山川さんの遺書は違います。家族に感謝し、神に感謝しながら、永遠に生きる希望を持ってこの世の生涯を終えられました。あなたもこの永遠の希望を持って生きて行きませんか。

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