礼拝めっせーじ
礼拝説教04/22|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-04-22『恐れるな』(黙示録1章9-20節)
ヒシャム・カメル牧師(エジプト人牧師)同時通訳 小西直也牧師



今朝お話し
したい

と思っているメッセージは、私たちすべてに関係するものであります。神さまが今朝、みなさまに語っている言葉であります。「恐れてはならない」

恐れ

というのは人間にとって一番大きな敵であると思います。私たちが将来に対する恐れを感じたり、また、死に対する恐れ、明日何が起こるだろうかという恐れ、このような恐れは、私たちに対する敵のようなものであります。特に、私もそうですけれど、みなさんは日本の国においてクリスチャンとして少数派でありますが………日本におけるクリスチャンは少数であると聞いています。私もエジプトで少数派のクリスチャンとして成長しました。私の国では90%がイスラム教徒であります。ですからそういう国で生きていくときに、明日どうなるだろうかという恐れがいつもつきまといます。良い学校に行けるかどうか、それは保証がありません。いい仕事が与えられるか、どのような収入が得られるかの保証もありません。また子供を持つとその恐れはさらに大きくなります。そしていろいろな物価も上がってくるそのような状況の中で、給料が物価ほど上がっていかないような状況の中で、いろいろな恐れを経験し始めます。

いろいろな

種類の恐れがあると思いますが、その中には健全な種類の恐れもあります。例えば道を渡ろうとするときに、何か自分を引き留めるような思いがありますね。これはもちろん健全な恐れであり、事故から守る恐れです。もうひとつ不健全な意味の恐れがあると思います。中には何もかも恐怖に感じる人もいるでしょう。しかしある種の恐れというのがあるのですが、その中に、私たちの罪のゆえに持っている恐れというのがあります。

天地創造

のときエデンの園で、アダムとエバはなんの恐れも感じていませんでした。いつもアダムとエバは平安の中に暮らしていました。神ご自身がそのエデンの園で共に歩いたと書いてあります。この聖書を読んでみても、明日何が起こるかアダムが思い悩んだということは書いてありません。自分の着る服についても何も心配しなかったでしょう。何かガソリンの値段が上がるだろうかとか、国同士の争いが起こるかどうかとか、心配することもありませんでした。それは神さまが共におられるという臨在を感じることができたから恐れを感じる必要がなかったのです。

しかし
ある日、

悪魔がエバのところにやってきました。そしてエバにひとつの木の実を見せました。「さあ、来てごらん、これを食べてごらん」と誘惑します。「だめだめだめ!あれは神さまがだめといったから……」とエバ。「これはおいしいよ」と悪魔。「ああそう、じゃあ、触るだけ触ってみようかしら……でも食べないけど」とエバ。「でもちょっと食べてごらん」と悪魔。「オーケー、じゃあ、ちょっとだけ」とエバ。罪というのはこのように始まるものなのです。ふつうの場合、サタンは人間を誘惑するときにゆっくりとゆっくりとやって来ます。そして結局エバはその実を取って食べました。それだけではなくて、その木の実を夫にも与えました。私たちはエバのことを、禁じられた木の実を夫にも与えた悪い女だと責めますが、私は正直にいうと、エバよりもアダムが悪いと思います。というのは、神さまから食べてはいけないという命令を直接受けたのは、アダムだったのです。また、アダムは家のかしら、つまり家長である人です。だいたいにおいて男性が家の長ということです。男性も自分が家の長であると自分を納得させるようなところがありますが、もし男性が頭であるなら、女性は首で、頭を回しているのは首ではないかと、つまり女ではないかと私は思っているのですが……ともかく、男も女もともに罪に陥ってしまいました。こうして、彼らの生涯で初めて、彼らは恐れを感じました。

恐れは、

それまでに一度も経験したことのないものでした。私は想像するのですが、こちらの方のエデンの園の中でアダムはライオンと仲良く遊んだり、こちらの方ではトラと遊んだり、本当に何も恐れる必要がなく毎日を過ごしていたと思います。ところが、罪が彼の生活に入ったときに、彼の生活はまったく変わりました。そしてその罪は私たちにまで及んでいるのです。聖書には、彼がその罪を犯したときに神の声を聞いたと書いてあります。その時に、アダムとエバは神から逃げ去ろうとしました。ふたりは神に対して、初めて恐れを感じました。彼らは神から隠れようとしたのです。このときから、人を偽り、人をだますという罪がこの世に入ってきているのです。彼らは、自分たちの裸の体を神から見えないように隠そうとしました。罪を隠そうとする働きは、今日多くのクリスチャンも同じようなことをしています。自分の罪を覆って隠そうとするということです。何か奉仕をする、教会に熱心に通う、など真面目そうに生きているように見せる陰に、罪を隠そうとしているクリスチャンがいます。

しかし
ながら

主ご自身が来られるときに、「お前たちは裸である」と言われるのです。私たちは自分自身を覆うことはできますが、しかしながら神さまの目から隠れることは絶対にできないことであります。神さまはただお一人、みなさまのことを見通すことのできるお方です。私たちは周りの人を見るときに、どんな服を着ているかとか、どんなことをしているかとか外見のことを見ます。けれども神さまは、あなたを見るときにあなたの心の中を見ます。その後人は、神さまの機嫌を取ろうとするようになりました。人は神を礼拝をしようとします。しかしながらどんなに頑張っても、罪がある限り、人は神から引き離された状態になっています。

そして

ヨブなどが泣き始めました。それは、人類全体に罪が及んだことを嘆き悲しんでいるのです。神と人間を和解に導く方が必要である。一方で人間の手をつかんで、またもう一方で神の手をつかんで、神と人間の関係を戻すことができる方が必要である。なぜなら、自分自身でどんなに頑張っても、神と人間の和解をすることはできません。アブラハムが頑張ってみたけどできませんでした。モーセもやってみましたができませんでした。ダビデもやってみましたけれどできませんでした。

誰かが

必要なのです。全く人間であり、私たち人間の手を握ることができる完全な人間であり、神の手を握ることのできる完全に神聖な方が必要である。神さまはこの願い、この叫び声を聞きました。そして神さまは、御子・イエス・キリストを私たちに遣わしてくださいました。そして十字架の上で、イエス・キリストは神と人との和解を成し遂げてくださったのです。

イエス
キリスト

は私たちを罪から解放してくださいました。このサタンの力から、主イエス・キリストは私たちを解放してくださいました。そして今日神さまが語ってくださるメッセージは、「恐れる必要はない」「あなたの上にサタンはどんな力も持っていない」「あなたの上にサタンの力は及ばない」「死はあなたの上になんの力も持っていない」。それは、イエス・キリストが十字架の上で、すべての代価を支払われたからです。あなたを自由にするために、主は十字架の上で死なれました。ですから、恐れる必要はありません。

本当に

不思議なことなんですが、旧約聖書と新約聖書で同じメッセージが語られているのです。例えば、イザヤ書の41章10節を読みます。イザヤという人はイエス・キリストの800年前にこの預言の言葉を書きました。41章10節、お聞きください。『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。』13節『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、私は言う。「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」』

何と

素晴らしい御言葉ではないでしょうか。あなたの心が喜びでわき上がるようなそのような気持ちにならないでしょうか。神ご自身があなたに、「恐れるな」と言っておられるのです。神ご自身が「わたしはあなたの手をしっかり握る」と言っておられるのです。神ご自身があなたのそばに立って「あなたはひとりぼっちではない」と言っておられるのです。「あなたはただひとりでこの世界に立ち向かっているのではない。わたしはあなたとともにいる」と言っておられます。

同じ
神さま

の声が、新約聖書からも聞こえてきます。これが黙示録の中の1章17節です。その方が言われます。「恐れるな」「わたしは最初であり最後である」。これは神さまがあなたに今日与えておられる約束です。「恐れるな。わたしがあなたとともにいるから」

実は

この同じメッセージを、あのマリアもイエス・キリストを身ごもったときに聞きました。覚えておられますか。マリアが身ごもったときに、神は御使いを送って「マリアよ、恐れることはない」と語りました。そして許嫁のヨセフも恐れました。そのヨセフにも御使いが送られて「ヨセフ、恐れるな」というメッセージがありました。羊飼いが暗闇の中にいたときに、御使いが現れて「恐れるな」と告げられました。

でも

素晴らしいことに、ハレルヤですが、神は御使いを使わしたのではなく、この黙示録では、聖人である一人の人間を使わしたのでもなく、神ご自身が、右の手を置いて、「恐れるな」と言われました。何と素晴らしいメッセージでしょう。

人々は

よく、聖人が来るように、御使いが来るように待ち望んでいますが、しかしながらキリストとともに生きる者は、神ご自身があなたのところに来られます。そして「わたしはあなたとともにいる」とおっしゃいます。17節でヨハネは「わたしはこの方を見たときに、その足下に倒れ、そして死者のようになった。」今日このことばは非常に大事なことばであると思います。もし問題をみなさんが抱えているとするならば、何か必要を覚えていらっしゃるならば、何か今自分の人生で悩むことがあるとするならば、何か心配で不安になるものがあるならば、まずイエス・キリストの足下に行きなさい。

われ
われ

は問題を抱えているときに、家族のところに行こうと考えることも多いです。そして家族の足下に倒れるということもあります。しかし多くの場合家族はわれわれを失望させるだけです。あるいはまた、自分の友だちのところに助けを求めていく場合もあります。そして足下にひれ伏します。しかしながら友人に失望させられます。でも今朝、みなさんに伝えたいことは、まず主イエスのところに行き、その足下にひれ伏しなさい。主は、決してあなたを落胆させることはありません。主は、いつもあなたの祈りに応えることのできる方であります。このヨハネと全く同じ経験を、私たちも持つことができます。17節で言われました。「わたしがこの方を見たときに、その足下に倒れて、死者のようになった。しかし、そのとき主が右の手をわたしの上に置いてくださった。そして私にこう言われた。恐れるな。」

ちょっと

想像してみてください。イエス・キリストご自身が、その右の手をあなたの上に置いてくださると言うのです。そして今日、あなたに、「恐れるな」と言ってくださるのです。何と素晴らしいことでしょう。主ご自身があなたの上にその右の手を置いておられるのです。
ちょっと16節を見ますが、イエス・キリストの右の手にいったい何が握られているのでしょうか。「また、右手に七つの星を持ち」とあります。イエス・キリストはその右の手に七つの星を持っておられるとあります。地球だけではなくて、七つの星をこの手に持っておられる、それをコントロールしておられる、それを守っておられる、それらが正しく回転するように動かしておられる、そのような主、イエス・キリストの足下に来てひれ伏すときに、その持っている星を手放し、その右の手をあなたの上に置かれる。あなたは七つの星よりももっと大切であると、イエスさまは言われます。あなたを七つの星以上に愛していると言われます。あなたのことだけが心配なのだ。わたしはあなたのために死ぬんだ。そう言って主は、あなたの上にその右の手を置くのです。そして「恐れてはならない」という。これは私たちがこの世の中で聞く、最もすばらしい声であると思います。私たちがこの世界でただひとり生きて歩いているときに、誰も私の胸の痛みはわからないと思えるときに、誰も私の問題なんか理解してもらえないと思えるようなときに、ここにあなたは、主イエスキリストの右の手が置かれることを感じることができます。そして声を聞くのです。「恐れてはならない」。

私が

エジプトで成長するとき、それは非常に難しいことなのですが、少数派として生きるということは決して簡単なことではありません。私は今でも覚えているのですが、ある日小学校で、クラスの中に60人の子供がいましたが、その中にクリスチャンはわずか3人なのです。そして57人はイスラム教です。そしてアラビア語の先生なんですが、その時はちょうど2年生でしたが、アラビア語の勉強にイスラム教のコーランをテキストに使うのです。もちろんこれはアラビア語で書いてありますから、また、アラビア語は国語ですからどうしてもその授業にでなければなりません。先生がアラビア語を教えるときに、イエス・キリストをバカにするようなことを言うのです。私はその時7才でした。そういう授業にでているとき何かしたいと思うけれど、何もできません。だって彼は自分の学校の先生ですから、何か文句を言ったとしても、校長先生もイスラム教ですから、また教育省の大臣ももちろんイスラム教徒ですから、誰も私を助けてくれる人はいません。ですから助けは、イエス・キリストしかないということがわかるのです。

将来

に対する不安、私たちは将来を考えるときに自分でどのように計画できるかなと考えます。いろいろな計画を組み合わせていって、2年間はこれをしよう、2年間でお金を貯めて今度はこれをしようと考えます。ある農夫の女性のことなんですが、卵が入っている大きなかごを持ってきて、このような机にそのかごを置いて、そして自分の将来の夢について語り始めたのです。私はこれからこの卵を売ります。それでお金を得ます。そのお金で山羊を飼います。この山羊は赤ちゃんを生みます。今度は山羊のあかちゃんを売ります。そのお金で牛を飼います。その牛は子牛を生みます。それで、今度は農場を買います。それで私は安心できるのだ。この農場が私の生活を保障してくれるからだ。と将来の夢を語り終えたとき、手がかごにぶつかり、卵は全部床に落ちて壊れてしまった。卵がすべて壊れてしまった、その瞬間、将来の夢は全部消えてしまった。 

私たち

はこのように考えてしまうことが多いのではないでしょうか。私たちは、お金があれば将来大丈夫と思いがちなのです。あるいは、教育が自分の将来を保証すると考えることもあります。あるいは出世すれば大丈夫と考えます。しかし、本当に保証してくれるのは、イエス・キリストただお一人です。もし本当にイエス・キリストを信頼するのならば、あなたの人生は主によって守られます。

私は、

高校生の時に、軍隊の将校になりたいと思いました。海軍になると軍服にたくさんひかる飾りが着いていてかっこいいですよね。私は、高校が終わったら軍人の学校に入って立派な人になろうと思いました。町を歩くと、人々はわたしを見て、「彼は軍の将校だ。彼は偉い人だ。」と言うのを夢見ていました。そして高校の最上級の学年になったとき、「あなたは牧師になりなさい」という神さまの声を聞きました。それで私は、「ええ?」「私は偉い人に、目立つ人になりたいのです。有名になりたいんです」「みんなが自分を見てくれるような、そういう人になりたいんだ」「もし私が牧師になったら、エジプトの小さな村の小さな教会の牧師!そんなものに私はなりたくない」。

4年前

のことなんですが、私はイラクを訪問していました。サダム・フセイン大統領の補佐官の事務所を訪れました。そのとき、金で装丁された聖書をプレゼントしました。私が訪問していたときの様子を、新聞やらテレビやらたくさんの取材人が来ていました。そのときに神さまの声を聞いたのですが、「お前に牧師になれといったときに、名もない無名のものになれと命じたと思うか」「お前は神さまのために働いたら、絶対有名になれないといっていただろう」「今お前がしていることを見てごらん」と神さまが言うのです。本当に神さまは素晴らしいことをしてくださる方です。

神さまは、

あなたのためにもユニークな計画をもっていらっしゃいます。あなたの生活を通して、神さまは働きたいと願っておられるのです。神さまは、あなたの心の中にある恐れをすべて追い払いたいと思っているのです。イエス・キリストを信頼するときにそのことが実現します。 とにかく今、あなたの悩みも恐れもかかえたままで、イエスさまの足下に来られることを願っています。神さまの約束は「私の右の手をあなたの上に置く」そして「あなたの人生にわたしが、わたしの奇跡を成す」。

先月

のことですが、ある方が私のところに訪れてきましたが、名前を聞いたときに、これはちょっと危ないなと思いました。この人は、PLO(パレスチナ解放同盟)のリーダーの一人だったのです。もちろんイスラム教徒です。このパレスチナ人はサウジアラビアで育った方です。彼の家庭はとても裕福な家で、狂信的なイスラム教徒の活動を世界的に支援している家庭です。彼自身がPLOのメンバーとしてたくさんのユダヤ人を殺していました。

しかし、

彼はアメリカに来て結婚をして、17才と15才の子供がいます。イスラム教徒の家庭としてアメリカで住んでいたのですが、ある日、彼は自分の人生に対して、非常な恐れを感じるようになりました。明日のことが恐くて、恐れを感じました。

そして

彼はクリスチャンの友だちに電話しました。そして、自分が心に感じている恐れについて友だちに話し始めました。そしてクリスチャンは「心配する必要ないよ」「私がコネクションを持っているから」と言いました。そのパレスチナ人の男は、「それはどんなコネクションですか」と尋ねたら、「今日わたしは忙しいから、また来週電話してください。来週話そう」と言いました。次の週に、クリスチャンの友人にまた電話しました。「あなたが持っているコネクションは何なのか、どうか教えてください」と言うと「じゃあまた来週電話しなさい」と言います。三週目に彼は仕事に行くのをやめて、家でこのコネクションとは何だろうと考えました。そして友人に電話して、「私はそのコネのことを考えると眠れないし、食べられないし、そのコネクションとは何なのか教えてくれ。どうか助けてくれ」と言いました。「では明日会いましょう。会ってくれたら話すから」「明日ではだめだ。今日会わなければならない。そのコネクションとはいったい何なのかすぐに教えてくれ」

それで

ふたりは一緒に会いました。クリスチャンの友達は彼を見て「聞きなさい」「あなたはユダヤ人を愛さなければならない」と言いました。「ええ!私はパレスチナ人でしょう。どんなにユダヤ人を憎んでいるかあなたも知っているでしょう」「彼らは俺たちの国を奪ったし、人々を殺したし、イスラム教徒としてもユダヤ人を憎まなければならないんだ」。するとクリスチャンは微笑みながら「実は私の知っているコネというのは、ユダヤ人なんだ」「彼の名前は、イエス・キリストです」「彼はあなたを助けることのできるただひとりのお方です」「あなたの恐れを、完全に消すことができるのはこのお方だけです」「あなたの家族を本当に守ってくれるのはこのお方だけです」「あなたの将来を守ってくれるのもこのお方だけです」「その名前はイエス・キリストです」。

このようにして、

その友だちはイエス・キリストを受け入れたのです。そして家に帰り、もう夜も遅い時間でしたが、奥さんのところに行って、彼の奥さんはアメリカ人のカトリック教徒ですが、特に信仰生活をしているということではありませんでした。子供たちもイスラム教徒として育てていました。その友だちは寝ている奥さんを起こして「君に言わなければならないことがある。僕はクリスチャンになったんだ」「イエス・キリストを信じたんだ」。奥さんは「あら、そうなの。」と言いました。

次の朝、

17才の年上の息子が洗面所でひげを剃っていました。父親は息子のところに行き「お前に話さなければならない大事なことがある」と話しかけました。「なんだいパパ」「昨日の晩、お父さんはイエス・キリストを信じてクリスチャンになったんだ」すると息子は洗面所から飛び出してきて、お父さんに抱きつき、キスして、「すごいすごい。これはすごいことだ」と叫びました。そして息子は洗面所にひげを剃りに戻ったのですが、父親は考えました。「どうして息子はあんなに喜んだのだろう?」「彼はイスラム教徒だから怒るはずなのに?」「怒るのが当然なのに?」「私は、彼をイスラム教徒として育っているのに、クリスチャンになったことをなぜ喜んだのだろう?」

そこで

もう一度洗面所に戻り「お前はどうしてそんな嬉しそうな顔をしているんだ」「お父さんはお前にこの話をしたらお前はきっと怒ると思っていたのに、何で嬉しいんだ」すると息子はお父さんに「お父さん」「三ヶ月前に、僕もクリスチャンになりました」「だからお父さんに殺されるんではないかと思って、恐かったんだ」「それで僕の教会の人たちは、24時間、僕のために祈ってくれていたんだ」「だからお父さんがクリスチャンになったということは、祈りの応えなんだ」

現在、

お父さんと息子はフルタイムで神さまのために働く仕事をしています。それは、イエス・キリストと出会って初めて本当の平安を感じることができたからです。イエス・キリストは唯一あなたと共に人生を歩いてくださるお方です。我々の両親はいつまでも私たちと一緒に生きているわけではありません。子供たちが成長していくと親元を離れて新しい世界にでていきます。しかしイエス・キリストだけが、あなたの人生の始めから終わりまで、いつも共に歩んでくださるお方です。死が訪れるときも、あなたは恐れる必要がありません。主ご自身があなたの手をいつも握りしめてくださるからです。そしてあなたの手を握って天国へ導いてくださるからです。これが今日、あなたに語られている神さまの約束のことばです。恐れる必要はありません。神さまがいつも共にいてくださるからです。

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