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礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2001-04-29『神の恵みの確かさ』(1ヨハネ1章1節-2章2節)
読みました、ヨハネの手紙第一は、主イエス・キリストの12人の弟子の一人であったヨハネが書いたもので、しかも、彼がずいぶん年を取ってから書いた手紙だと思われます。ヨハネがこの手紙を書いた目的は、人々が父なる神、御子イエス・キリストと交わりを持つためだと言われています。キリスト教の信仰は、一言で言えば神と共に生活するということだと思います。イエス・キリストの別名は「インマヌエル」で、これは「神が私たちとともに生きてくださる」という意味を持っています。だから、どんなに聖書を勉強して、いろいろなことを知っているとしても、イエス・キリストと交わりを持っていない人はクリスチャンではありません。私の両親が最近、犬を飼い始めました。まだ3ヶ月の子犬ですが、これがかわいい犬なのです。最近はペットのロボットを飼う人が増えていますが、やっぱり本当の犬にはかなわないと思います。犬は飼ってみて初めてその可愛さが分かります。どんなに本や図鑑で犬について勉強して、犬の種類、犬の性格、犬の体の構造などについて知っていても、犬を飼わなければ、犬が何を感じ、何を考えているかは分かりません。信仰も同じです。いくら聖書について学んで、聖書の神とはどんな神か、人間とは何かということを勉強しても、神とともに生きる、神との交わりを持たなかったら、クリスチャンとは言えません。ですから、聖書を詳しく研究している学者たちの中に、クリスチャンでない人はたくさんいるのです。そこで、ヨハネは、人々がイエス・キリストと共に生きることを願ってこの手紙を書きました。
この手紙を書きながら、昔、主イエスとともに過ごした時のことをいろいろ思い出していたでしょう。彼は、人間の姿を取られたイエス・キリストの顔を見ましたし、その声も聞きました。どれほど素晴らしい交わりだったでしょうか。彼は、復活の主にも出会って、その手の傷もわき腹の傷も見ました。だから、彼は、確かに御子イエス・キリストは、幽霊でもないし幻でもない、確かに、人間の姿を取られた神であることを確信していたのでした。
あれから2000年後に生きている私たちの間には、「ヨハネは、主イエスが地上で生活をされた時に、一緒に生きていのだからいいけど、私たちはイエスと個人的な交わりなんかできない。生まれるのが遅すぎた。」と考える人が多いと思います。しかし、主イエスとの交わりというのは、肉体的にイエスの近くにいるという意味ではありません。どんなに近くにいる人でも心が通じていない時は交わりはできないでしょう。それと同じです。心が開かれているかどうかが大切なのです。イエス様が弟子たちや群衆たちと一緒に歩いておられた時、長い間病気に苦しんでいた女の人が後ろからそっと主イエスに近づきました。それは主イエスの衣のすそにさわったら自分の病気は治ると信じていたからでした。昔は、長い間治らない病気になると人前にでることはできませんでした。だから彼女は、見つからないように、イエスに近づいて、そっと主の衣のすそを触りました。するとその瞬間、主イエスから力が働いて、彼女の体の痛みが消え病気は完全に治りました。女の人はすぐに主イエスから離れて群衆の中に隠れていました。
主イエスははたと立ち止まって後ろを振り返って言われました。「今、私を触ったのはだれですか。」これを聞いた弟子たちは主イエスに言いました。「イエス様、ご覧下さい。こんなに大勢の人です。たくさんの人がイエス様に触ったと思いますよ。」確かに、主イエスが弟子たちと歩く時は必ず大勢の人々がついて来ました。ですから、道はいつも群衆で混んでいたのです。確かにイエスの体に触った人はたくさんいました。しかし、主の中から力が出たのは、この女の人が主の衣に触った時だけだったのです。主イエスとの交わりは体が近いということではありません。どれほど、真剣に主イエスを求めるか、心が大切なのです。
人間が神と交わりを持つ時に妨げとなるものがあります。聖書はそれを罪と呼びます。1章5節から2章2節の間に、ヨハネは何回も繰り返して罪のことを語っています。この罪が、私たちの人生の敵なのです。林芙美子という作家が「花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき」と言いましたが、確かに、人生は短いし、生きることは決して簡単なことではないと誰もが思っています。
生きるのが苦しいのかと考える時に、私たちは、いつもその原因を自分以外のものに見つけようとします。「会社の上司が悪い。あんな上司がいるから俺の人生は暗いんだ。」とか「となりの奥さんが悪い。あの人さえいなければ私の人生は幸せなのに。」とか、学校の先生が悪い、うちの子どもが悪い、いやうちの奥さんが悪い、うちの旦那が悪い、とにかく、周りを見回すと自分の人生の敵と思える人や状況がたくさんあるように思います。確かに、その人たちも、その状況も悪いでしょうが、実は、人生で一番の敵は自分の心の中にある罪だと聖書は語り続けているのです。自分の心が変わると、周りが変わらなくても、人生が変わります。逆に、自分の周りの人も周りの状況も変わらないと考えていたほうが確かでしょう。ということは、結局、自分が幸せに生きるために、何かをしなければならないとしたら、すべての人の心の中にある罪を処理することが必要ですし、また一番手っ取り早いのです。
「神は光であって、神のうちには少しも暗いところがない」と言いました。私たちが信仰によって救われるというのは、罪という暗闇から救い出されて光の中に入れられたということを意味します。光はいのちを与え、成長を与え、美しさを与えます。しかし罪は闇であって、闇と光がいっしょにいることはできないのです。光の中を歩くときは闇は消えますし、闇を歩く時、そこに光はありません。私たちは、光の中を歩くか、闇の中を歩くかのどちらかであって、その中間を歩くということはできません。ところが、この罪に対する私たちの態度が二つあることをヨハネは語っています。
罪を隠そうとする心があります。6節に「もし私たちが神と交わりがあると言っていながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」と書かれています。罪を隠すために、人は偽り、うそをつくことになります。旧約聖書の時代、イスラエルの王であったダビデは大きな罪を犯しました。部下で兵隊のウリヤの妻、バテシェバと不倫の関係を持ったのです。その時、ダビデはその罪を隠すために、戦場から急遽ウリヤを呼び戻し、酒を飲ませて家に帰るように勧めました。しかし、忠実な軍人であるウリヤは他の仲間が戦争をしている時に、自分だけ家に帰って家族と楽しく過ごすことはできないと言って家に帰りませんでした。困ったダビデは軍隊のリーダーに命令してウリヤを一番危険な場所に送りました。まもなく彼は戦死しました。彼はそのことを隠して、神に選ばれた王としての働きを続けたのです。しかし、神様の目をごまかすことは出来ません。ウリヤが死んで約1年後に、ナタンという預言者がダビデの所に送られました。そしてナタンはダビデにひとつの話をしました。羊をいっぱい持っている金持ちが、羊を一匹しか持っていない貧しい男から、その羊を奪って自分の客のために料理したという話です。その話を聞いたダビデはひどく怒って「そんな男は死刑にしろ!」と避けんだのですが、それに対してナタンは「あなたがその男だ。」と答えました。ダビデは他の人間がすることを厳しく批判しましたが、同じ事をしている自分には何も言わないのです。人間は誰にもダビデのような心があるのではないでしょうか。人には厳しいのに自分にはすごく甘いのです。
罪に対してもう一つの態度があります。それは、罪を正直に認めて告白するという姿勢です。9節に「もし、私たちが罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。罪を告白するとはどういうことでしょうか。告白するとは、ただ自分が罪を犯した事実を認めることだけではありません。「言い表す」「告白する」という言葉はもともと「同じ事を言う」という意味を持っています。つまり、罪に関して、神様が言うことと同じ事を言うという意味です。あるクリスチャンが集会の後に牧師の所に来ました。そして「私の生活には罪があります。助けが必要です。」と言いました。するとその牧師は1ヨハネの1章9節の言葉を読みました。そして、「あなたもその罪を神様に告白すればよいのです。」と言いました。するとその人がお祈りを始めて、「父なる神様、もし私たちが罪を犯したとしたら」と言ったそうです。すると牧師が「ちょっと待ってください。あなたの罪に私まで引きずり込まないで下さい。」「『私たち』ではなくて『私』でしょう。『犯したとしたら』じゃなくて『犯しました』と言うべきでしょう」と言ったそうです。告白とはきれいな言葉で祈ることではありません。信仰深そうな言葉で言い訳をすることでもありません。他のクリスチャンに信仰深そうに見せることでもありません。罪に対して、神様と同じ事を言うこと。例えば神様が「怒り」と呼ぶことを自分がしているなら、それを「怒り」と言わなければなりません。神様が「偽り」ということを自分がしているなら、それを「偽り」と言わなければなりません。告白とは、つまり、自分に対しても神に対しても正直であることです。罪を犯したという事実を認めることだけでなく、神と同じ態度で罪に立ち向かうことです。
が罪を告白する時、神様はその罪を赦すと約束しておられるのですが、その時、主イエスは私たちのために二つの役割を果たしてくれます。2章の1節と2節にあるように、私たちが罪を犯した時に、なだめの供え物としての役割と弁護士としての役割を果たしてくださいます。「なだめの供え物」というのは分かりにくい言葉です。普通、「なだめる」とは「怒っている人の心を静める、満足させる」という意味があります。キリストは、この世界の罪を見て怒りを爆発させた神がこの世を滅ぼそうとしているのを見て、その怒りを静めるために自分の命を十字架にかけたのでしょうか。確かに、神様は罪に対しては怒る神です。しかし、神は聖なる方であると同時に愛の方です。それでは、「なだめの供え物」とはどういう意味なのでしょうか。「なだめ」というのは「神の聖なる命令を満足させる」という意味です。聖なる神は罪に対して目をつぶることはできません。しかし、私たち一人一人の人間を愛してくださるので、私たちが新しく生きることを心から願っておられます。それで、神様は私たちの罪を滅ぼすために、身代わりに御子キリストを十字架の上で裁かれたのです。罪を裁いたという点で、聖なる神としての立場を守り、同時に、十字架によって私たちの罪を赦すという点で愛の神としての立場を貫かれました。これがキリストがなだめの供え物となられたことの意味です。
のもう一つの役割は弁護士です。これはもともと「そばに呼ばれた人」という意味を持つ言葉です。そしてヨハネは聖霊をあらわす時も同じ言葉を使いました。人が裁判所に呼ばれる時、弁護士と一緒に行きます。そしてその人は裁判の間、弁護士と一緒にいるのです。そして弁護士は裁判長に向かって、この人には罪がないことを認めてほしいと訴えるのです。主イエスは2000年前に地上での働きをすべて完了してくださいました。しかし、天国においては、主イエスの働きは今も続いています。
一度死ぬことと死後神の前で裁きを受けることが決まっていると聖書は言います。人は死んで地上での生涯を終えると、神様の前に立たなければなりません。そのときに、主イエスは、私たちの横に立って私たちのために弁護してくださるのです。「子に人は確かに罪人です。でも、私はこの人の罪のために十字架の苦しみを受けました。だから、どうかこの人を赦してあげてください。」と主イエスが私たちの隣で神様に頼んでくださるのです。主イエスが十字架の苦しみを私たちの身代わりに受けてくださったことによって、私たちの罪が赦されるようになりました。(参照ゼカリヤ3:1-7)それだけでなく、今、主イエスは私たちと共に生きてくださっていて、私たちが罪を犯した時、私たちがそれを告白するなら、その度に、私たちのために弁護してくださいます。福音書を読むと主イエスは、不思議なほどに、いつも売春婦や姦淫を犯した人、不正を働いて金儲けした人など罪人とよく交わり、救いのメッセージを語り、罪が赦されたと宣言しておられます。それは自分が、やがて、十字架にかかって彼らの罪をすべて背負うことを決めておられたからです。キリストの血はすべての罪から私たちを清めるのです。来月の31日にミッションバ ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |