礼拝めっせーじ
礼拝説教05/13|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-05-13『裁き主・救い主キリスト』(1ヨハネ3章1-7節)


アメリカ

の財務省には、偽札を見つけることを専門の仕事にする人たちがいるそうです。その人たちは、偽札を見た時に、それが偽物だとすぐに見抜かなければならないのですが、どのようにしてその技術を身につけるのでしょうか。不思議なことに、彼らが訓練を受ける時には、これまでに見つかった偽札を詳しく調べるという訓練はないそうです。逆に彼らは、本物のドル紙幣を詳しく調べて、その模様を完全に覚えるという訓練を受けるのだそうです。彼らは、本物のドル紙幣について良く知っているので、目で見なくても手で触っただけで偽札を見破ることができるということです。1ヨハネの3章は、それに関係のある教えを述べています。ヨハネの時代にすでに自分はクリスチャンであると言いながら実は偽者のクリスチャンがいたようです。ヨハネは、ここで偽者のクリスチャンがどういう人なのかを詳しく述べる代わりに、本当のクリスチャンの信仰者とは何かということを語っています。

まずヨハネ

はクリスチャンとは神の子どもとされた者だと述べています。1節に、「わたしたちは神の子供とされている」とあります。「子供とされる」という言葉が表わしているように、わたしたちは生まれたままでは神のこどもではありません。聖書が教えているところによると、わたしたち人間は罪を持って生まれて来ます。罪と言うのは、自分の欲望、自分の願いのままに生きたいと考える心を意味しています。罪と神とは正反対なので、私たちは両方を同時に持つことはできません。

ある小学校

で1年生の生徒たちが病院に見学に行きました。見学が終わった時に、病院を案内していた看護婦さんが「何か質問がありますか」と生徒たちに尋ねました。すると一人の男の子が手を上げました。「どうして、病院ではみんないつも手を洗うの?」と尋ねました。すると看護婦さんが答えました。「病院で、私たちがいつも手を洗うのには二つの理由があるんですよ。一つは、わたしたちはきれいにしているのが好きだということ。もう一つはばい菌が大嫌いということですよ。」つまり、きれいにしていることを望むならばバイ菌を好きになることはできません。逆にバイ菌が好きになると清潔でいることはできません。私たちは本来自分を愛して、他人からいろいろ指図されることを嫌います。このような自分中心の考え方に縛られている人間は神を愛することができないので、神に反抗して生きてしまうのです。今、日本の社会で恐ろしい犯罪が続いています。しかし、もっと身近なところで、近所や、会社や学校で様々なトラブルが起きています。これらにはいろいろな原因が考えられますが、聖書は、一番根本となる原因は一人一人が自己中心な生き方をしているからであると教えています。

ところが、

そのような状態にいた私たちに、神様はすばらしい愛を注いで下さいました。キリスト教の目的は自己中心の考え方に縛られた罪人が救われることなのですが、この救いということを計画し、また実行してくださったのは神様です。人間は自分で自分をどうすることもできないのですが、神様が最初に私たちを愛して行動を始めてくださったことによって、私たちは新しい人生を生きることができるようになりました。ヘレン・ケラーを育てたサリバン先生も、もともとは誰も手をつけられないような子どもでした。しかし一人の人の深い愛を経験してから、彼女は変わりました。人は愛を受ける時に変わることができるのですが、聖書は、まず神様が私たちにすばらしい愛を注いでくださったと書いています。神様はどのような方法で私たちを愛されたのでしょうか。ローマ5章8節にはこう書かれています。「わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちは正しい人であれば尊敬します。でも、なかなかその人のために死ぬことはないでしょう。私たちは神を知らずに生きていた時は神に反抗していました。神の教えを無視して、神の教えを破って自分勝手な生き方をしていました。しかし、そのような私たちのために御子イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださったのです。

なぜ、

そのような愛を明らかにされたかと言うと、それは私たちが神のこどもとして生きるためだったのです。神様は私たちに向って「私を信じて私のこどもになりなさい」と声をかけてくださるのです。家族と言うのは最も親しい人間関係です。今は、家族が崩壊している時代ですが、本来家族は一番親しい関係です。例えば、私にとって両親は大切な存在です。3年前に両親が北本に引っ越して来ました。すると、それまで私にとって大阪がふるさとだったのですが、親がいなくなると私がどんなに大阪の文化を持った人間であっても、大阪は遠い場所になってしまいました。そのように家族は大切な関係です。神様は、神を無視して生きてきたような私たちを敢えて自分の子どもにするために、大きな犠牲を払って愛を注いでくださいました。子供に迎えるということは、神様が、いわば、霊的な親になって私たちのために責任をもって生涯養うことを決心してくださったということを表しています。普通、誰かが子どもを養子に迎えた場合、正しい親であれば子どもが気に入らないからといって捨てるようなことはしないでしょう。もちろん神様は私たちを子どもに迎えた後で、途中で私たちを捨てるようなことはされません。だれでも、何かを選ぶときは一番よいと思うものを選びます。ところが、神様は、自分のこどもにするために、わたしのような自分勝手で神様に反抗していたような者を選んでくださったのです。ですから、今は、誰でも自分の罪を認めてイエス・キリストを神として信じる者は神のこどもになることができるようになったのです。

クリスチャン

は、自分の罪を背負って私たちの代わりに死んでくださった主イエスの愛を知り、主イエスを神として信じ、イエス・キリストの教えにしたがって生きることを決心した人々です。そのとき、私たちは、罪の世界から突然神の子供になりました。突然、急に身分が変わりましたから、当然、最初はいろいろ戸惑います。頭では自分が神のこどもになったことは分かっても、なかなか実感できません。王子と乞食という物語がありますね。たまたま同じ日に生れて顔もそっくりな王子と乞食がお互いに自分の着ていた服を交換したのですが、元の状態に戻れなくなってしまうというお話しですが、この話はクリスチャンになった私たちの姿を現しているように思います。今までは人々にお金をくれと求めていた乞食のような人間であったのに、突然、王子の服を着せられ王子のような待遇をうけるようになったようなものです。その代わり、本当は王あるイエス・キリストが私たちの罪のよごれた服を着て罪人となったという状態です。これまで、乞食だった人間が突然王子になったら、話し方、振る舞い、すべてが変わります。王子として生きるのにはそれが必要です。また自分を子供に迎えてくださった親に感謝を表わすためにも、王子としてふさわしい生活を覚えるように努力することが必要です。神のこどもにふさわしく生きるとは、3節を見ると「きよい生活をする」ということになります。私たちは神様の家族に加わったらそれで終わりではありません。そこから神様の家族として新しい生活がスタートするので、これからが本番です。もうむかしのような生き方をする必要はありません。また昔のように生きるべきではありません。クリスチャンは神の子どもになったのですから、神様に似た者になるように清い生活を目指して生きることが必要なのです。言い換えると罪から離れて生きるということになります。

4節で

「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです」とヨハネは書いています。聖書の中で、罪という言葉はいくつか異なった意味で使われるのですが、ここでは、罪とは律法に逆らうこと、神の教えに逆らうことであると言われています。ギリシャ語には、日本語と違って罪という言葉を単数形で使う場合と、複数形で使う場合があります。単数形で使われている場合は、わたしたちの心の中に根深くある罪の性質を表わします。複数形で使われている場合は、そのような性質を持っている人間が結果的に行ってしまういろいろな間違いや神様が嫌う行いを表わします。

神様は

愛に満ちた方です。しかしながら、それだからと言って、神様の家族の中にはルールや決まりがないという意味ではありません。私たちは、聖書の命令を全部守ったから神の子供になれたのではありませんが、これからは神様の教えに従って生きることを目指さなければなりません。罪というのは私たちの心、私たちの意志と関わっています。神が良いと思うことに反対して自分が良いと思うことを行う、これが神に対する反抗です。しかし、主イエスを信じる信仰によって神の子供として生れた者は、6節にあるように、「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。」本当のクリスチャンは罪のうちを歩みませんと書かれています。罪のうちを歩むとは、習慣的に自分の生き方として罪を犯すことを言います。

この手紙の

1章8-10節を読むと、すべての人間は罪人であって、クリスチャンになってもその罪が完全になくなる訳ではないことが分かります。しかし、神様は真のクリスチャンであるならば、クリスチャンになる前と比べて、罪を犯すことが少なくなること、習慣的に罪を犯さないことを期待しておられます。聖書に登場する偉大な信仰者も、その生涯の中で時々罪を犯しています。アブラハムは自分の妻を妹だとうそをつきました。モーセは指導者としてイスラエルの民を導いていた時に、人々の不信仰な態度に怒りを爆発させて岩をたたいたことがありました。キリストの弟子であるペテロは主を愛していましたが、主が十字架にかかる直前に「主を知らない」と3回も言ってしまいました。しかし、これらの罪は、アブラハムやモーセやペテロが習慣的に行っていた罪ではありません。特定の状況の中で、彼らの弱さのために犯してしまった罪です。計画的に習慣的に犯した罪ではありません。

6節に

「キリストにとどまる者」という表現がありますが、「とどまる」とは神と密接な交わりを持つという意味です。神のこどもとなったことで、私たちは神様と親しくまじわることができるようになりました。本当のクリスチャンは、神と親しい交わりを持っている人々です。ですから、習慣的に罪を犯すことができないのです。罪を犯すときに平気ではいられないのです。偽のクリスチャンは、神について深い知識を持つことができます。神について雄弁に語ることができます。いろいろな宗教活動に加わることもできます。しかし、本当の意味で神を知らず、神との交わりをもっていません。私たちは完全ではありませんから、神の教えに反することをしたり、神様が喜ばないことをしたり、話したり、考えたりします。クリスチャンとしての生活に失敗して倒れてしまいます。そのような時、どうすればよいのでしょうか。赤ちゃんが歩くことを覚えはじめる時、何度も何度も倒れます。倒れた赤ちゃんはどうしますか?もう一度起き上がってまた歩こうとします。私たちも同じようにすればよいのです。罪を犯した、失敗した、倒れた、その時は、また立ち上がって、前よりももう少し上手に歩けるようにやって見るのです。また、倒れたら、また起き上がればよいのです。私たちは失敗すると落ち込みます。時には自分は本当にクリスチャンなのだろうかと疑ってしまうことがありますが、それはサタンの惑わしです。サタンは何とかして私たちを神から引き離そうとして、私たちの思いの中にささやくのです。「お前は本当にクリスチャンなのか?」と。そのささやきに耳を貸してはいけません。3章1節でヨハネが言っているように、事実、いま私たちは神のこどもです。子どもが親を真似して成長するように、私たちにはイエス・キリストというすばらしい模範が与えられているのですから、イエス・キリストの生き方を真似して、少しでも神の子どもにふさわしい者になれるように目標をもって生きて行きましょう。

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