礼拝めっせーじ
礼拝説教05/20|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-05-20『信仰を生きる』(1ヨハネ3章16-24節)


ヨハネの手紙
第一

は、よく螺旋階段のようであると言われます。それは、この手紙の中でヨハネがいくつかのテーマについて何度も繰り返して語っているからです。中でも、ヨハネは愛について繰り返し語っています。ヨハネは、元々、雷の子と呼ばれるほどに激しい感情を持っていましたが、主イエス・キリストに出会って、イエスの弟子となって彼は「愛の人」と呼ばれるほどに変わりました。それは彼がいつも「愛」について語ったからです。2章7節から11節では、ヨハネは兄弟を愛する者は光の中を歩んでいるが、兄弟を憎む者は闇を歩んでいると語り、愛することと憎むことを光と闇で表わしています。続いて、3章11節から24節では、愛のテーマを更に掘り下げて、兄弟を愛するか愛さないかは「生きるか死ぬか」の問題であると述べています。3章の14節には次のように書かれています。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」ですから、信仰者として生きる時に、どのようにクリスチャンの愛を実践するべきなのかを18節から24節の箇所から学ぶ必要があると思います。

今、この
世の中

本当の愛を受けていない人が非常に多いように思います。幼い子供が親から殺されたり、虐待を受けたりすることがたくさんあります。浅草で女子大生を殺した男は親から溺愛されていたそうですが、親の溺愛は本当の愛ではありませんから、子どもの人格が歪められてしまいます。そのような時代を生きる私たちクリスチャンに与えられている使命は大きいのではないでしょうか。本当の愛は神の愛です。いのちを捨てるほどに私たちを愛してくださる神の愛です。神の愛を受けた私たちは、その愛を自分だけで満足していて良いのでしょうか。愛を受けられなくて苦しんでいる人々に神の愛を知らせ、神の愛を分け与えて行くことがクリスチャンに与えられている大きな使命なのです。私たちの信仰は「兄弟を愛する」ということで試されるのです。

ヨハネは

ここで、神様の心と人間の心を比較して、書いています。イエス・キリストの生き方と最初の人間アダムの息子カインの生き方が比べられています。アダムとエバには、まずカインという息子が生れ、つづいて弟アベルが生れました。二人は兄弟です。同じ両親に育てられ、同じ環境で育ちました。カインは土を耕す者になり、アベルは羊飼いになりました。そして二人は神様に献げ物をしました。ところが神様はアベルの献げ物を受け入れられたのですが、カインの献げ物を受け入れませんでした。ヘブル書11章4節には、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」と書かれています。二人は同じように宗教的な行いをしていましたが、アベルは信仰の献げ物を捧げたのに対して、カインの献げ物は信仰のないものでした。具体的に二人の献げ物がどう違っていたのかは分かりません。しかし、ローマ書10章17節には「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての(または、キリストの)御言葉によるのです。」と書かれているように、神の教え、神の警告に聞き従おうとする態度がなければ、信仰に生きることはできません。恐らく、神様はカインとアベルに対して、献げ物について、またその捧げ方について二人にはっきりと指示を与えていたはずです。アベルは神様の指示に従って捧げたのですが、カインは神様の言葉を聞こうとしないで、自分の好きなやり方で捧げました。不信仰とは神の言葉を聞こうとしないで、自分の考え、自分の判断に従って生きることです。

よく

「私は神様は信じています。ただなぜイエス・キリストを信じなければならないのか分かりません。」と言う人がいます。聖書によれば、その人は決して本当の神を信じているのではありません。自分に都合の良い神を造って、それを神と思っているだけなのです。なぜなら、本当に神を信じるなら神の言葉を聞いてそれに従わなければならないからです。聖書は「だれも、キリストを信じないままに神を信じることはできない」はっきりと言っています。人間の心はカインの心です。例え神様の言葉であっても、他の人からあれこれ指図されるのが嫌なのです。自分のやりたいように生きたいと思うからです。だから、クリスチャンになることは難しいのです。自分がやりたいような信仰生活というのはありえません。信仰を生きるためには、神の言葉に聞き従わなければならないからです。出エジプト記は、前半はモーセとパロの対決とか、紅海を渡る場面とか、モーセがシナイ山で神様から十戒を受け取る場面とか、ストーリーとしても大変面白いです。ところが後半になると、幕屋を造るための細かい指示が長々と書かれていて、旧約聖書を読み始めると、このあたりで躓(つまず)くことが多いです。柱の長さとか、材料とか、細かいことまで指示されています。なぜ、そのような細かいことが書かれているのでしょうか。それは、神様が、私たちが心から神様に従うことを求めておられるからです。ですから、神様の指示を守らなかった人には厳しい裁きが下りました。

ところで、

カインとアベルの二人は、献げ物をした後どうなったでしょうか。カインは激しく怒って顔を伏せたと書かれています。神様は不公平な方ではありませんが、信仰的ではないものを受け入れることはできません。カインは自分の献げ物が神様に受け入れられなかった時、反省することなく、自分の罪を認めようとせず、かえって、自分が受けた恥のために神とアベルを憎みました。そのような時、人は顔を伏せるのです。そこで主はカインに言われました。「なぜ顔を伏せているのだ。罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋慕っている。だがあなたはそれを治めるべきである。」神様はカインが自分の罪に気がつくように彼に話しかけたのですが、彼は神の言葉に耳をふさぎました。神の声を聞かずに自分の感情に従いました。そして、ついに彼は弟を殺したのです。人は、神様の声を聞かずに自分の声、誘惑の声に耳を傾けると、誰でも、殺人を犯す可能性を持っています。昨年、兵庫県でタクシーの運転手を殺したために16才のカップルが逮捕されました。少年はいわゆる不良、一方彼女はレベルの高い高校に通い、将来は通訳になる夢を持っていた真面目な女子高生でした。しかし、好きになった相手が悪かったのです。殺人は悪いと分かっていても、好きな人の声を聞き、彼が好きだと言う自分の心の声を聞いているうちに、恐ろしい犯罪を犯してしまったのです。人間は、神の声に聞き従わず、自分の感情に流されて生きる時、だれでもそのような危険性を持っています。私たちが、今、殺人犯でないのは、その行いを押さえる力をまだ持っているからであって、その力が消えると何をするか分からない。それが人間です。兄弟に向って腹を立てる者、憎しみを持つ者は、その思いを心に持ち続けている時、何かの状況が起きると、人を殺してしまうかも知れません。だから、15節でも「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」と言われているのです。

それでは、

十字架に現された神の愛を受けてクリスチャンになった人はどのように信仰生活を送るべきなのでしょうか。クリスチャンには見習うべきすばらしい模範として主イエス・キリストが与えられています。主イエスはどのような生き方をされたでしょうか。主イエス・キリストは、私たちが本当の愛がどういうものであるかを知るために、十字架でご自分のいのちを捨てられました。キリストの愛は、犠牲を払う愛であり、人々のために仕える愛でした。主イエスは、ただ単に、愛について言葉で人々に教えただけではありません。十字架で、その愛を実践されました。主イエスは、殉教者として十字架で死んだのではありません。自分から進んで命を捨てられたのです。私たちは、自分のもの、特に自分の命は何とか守ろうとします。ところが、主イエスは、自分の命を進んで捧げてくださいました。16節の終わりに「私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と書かれていますが、神様は実際に、友達のために身代わりとなって死ぬことを求めておられるのではありません。次の17節が言っているように、困っている兄弟に対して助けを与えることを求めておられるのです。日本語では分からないのですが、16節で「私たちは兄弟のためにいのちを捨てるべきです」と言われているところは、兄弟は複数形です。つまり、一般論として、私たちは自分のために生きるのではなく、他の人のために生きなければならないと言われています。しかし17節では「兄弟が困っているのを見ても」というところの兄弟は単数形です。つまり、具体的な状況としてヨハネは言っているのです。あなたのそばに、実際に困っている人が一人いる時の状況です。

クリスチャン

が持つべき愛は、一つの考えとしての愛ではなく、個人的で実際的な愛でなければなりません。ところがそのように愛することができないのが人間の弱さです。自分と同じように隣人を愛することができません。自分と気が合う人は愛せるのですが、気の合わない人を愛することができないのです。ある時、一人の律法の専門家がイエス様のところに来て「永遠のいのちを持つためには何をしたらいいのですか。」と質問しました。主イエスの答えは「全力を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛しなさい。」というものでした。この人は旧約聖書の教えをきちんと守る真面目な人でした。自分の隣人をちゃんと愛していると思っていたので、「わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねたのですが、この人が聞きたかったのは、「私は隣人を愛しているつもりです。わたしが愛さなかった隣人が誰かいますか。」ということなのです。それに対して主イエスは良きサマリヤ人というたとえ話を話されました。一人のユダヤ人が強盗に襲われて道に倒れていました。そこに3人の人が通りかかりました。一人はユダヤ教の牧師にあたる祭司、次は教会の仕事をしているレビ人、そして最後にユダヤ人と仲が悪かったサマリヤの男が通りかかりました。祭司もレビ人も、倒れている人に近づかないでその人を避けて通り過ぎました。危険に近づかないで自分の安全な場所を通って行ったのです。自分の安全な場所にとどまっている時には愛を実践することはできません。ところが、普段、ユダヤ人と仲が悪いサマリヤの男が倒れている人に近づきました。自分の安全な場所を出て行きました。そして、その人は用事があってその道を通っていたはずですが、そのことを忘れてその人を自分のロバに乗せて宿屋に連れて行って助けてあげました。主イエスは、わたしたち人間を、このサマリヤ人のように助けてくださいました。神であるという立場を捨て、天国を出て私たちのところに来てくださいました。そして罪に縛られて悩み苦しんでいる私たちを、十字架によって、助け出してくださったのです。

1ヨハネ

の3章11節以降に、4つの生き方が書かれています。第一はカインのように殺人を犯す生き方(11-12節)、第二は憎しみを持ち続ける生き方(13-15節)、第三に困っている人を見ても無視する生き方(17節)、そして、第4の生き方はキリストが行われたような、犠牲を払って人々に仕える愛の生き方です。実は、このような生き方をする時に、わたしたちは本当の喜び、平安を感じることができ、また、22節を見ると、そのような時、わたしたちの祈りが聞かれることが分かります。ニューヨークに住むスピッツ博士という人が、孤児院に預けられた幼子について研究していました。孤児院に預けられている幼い子供の成長に、親の愛情がどう影響しているかという研究でした。すると、親から見捨てられ愛されなかった子供の成長は他の子供よりも遅く、死ぬ子供もいたそうです。肉体の場合にもそのような影響があるのですから、わたしたちの魂も、愛がないなら死んでしまいます。私たちクリスチャンは、キリストの愛を受けた者です。自分の感情にしたがって生きるのではなく、神の声に聞き従う者として、キリストの愛にならって、互いに愛し合う生き方を選び取りましょう。

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