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礼拝説教
2001-05-27『愛のテスト』(1ヨハネ4章12-21節)
ヨハネは、よく「愛の人ヨハネ」と呼ばれます。なぜなら、彼が書いた福音書にも、また彼の手紙の中にも「愛」という言葉がたくさん使われているからです。また、人々は「愛」という言葉が好きですし、愛すること、愛されることを求めて生きていると思います。しかしながら、今の時代、誰もが愛がない、愛が冷えていると感じているのではないでしょうか。フランスの国旗は赤、青、白の3色ですが、これは自由、平等、愛を意味しています。フランス革命を起こした人々はこの三つを求めて理想の社会を造るために立ち上がったのです。しかし、ある人の言葉によると、今の時代は、自由を求める民主主義の世界と平等を求める共産主義の世界がぶつかっているが、愛がなくなってしまっています。
実は人間社会には、本当の愛はないのです。パウロは第1コリント13章で、「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません」と言っていますが、その愛とは、実は神様の愛なのです。本当の愛とは神様の愛から来るのです。1ヨハネの4章10節で、ヨハネは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。」と述べています。私たちは、神の目には罪に汚れた者です。私たちの心の中には神様が喜べないような自分勝手な考え方があります。しかし、そのような愛される資格のない私たちのために、自分を犠牲にして十字架の上で血を流してくださったのが、主イエス・キリストなのです。この世界にも、人間の力でできる愛があると思いますが、ギリシャ語では、そのような愛をエロスと呼びます。しかし、自分を犠牲にして無条件で私たちを愛してくださる神の愛は、アガペーという特別な言葉で表されます。
がアガペーの愛を示された出来事がルカの福音書の19章に記されています。ある時、主イエスはエリコという町へ行かれました。エリコには、ザアカイという名前の男が住んでいました。彼は人々から税金を集める取税人でした。取税人はユダヤ人からひどく嫌われていました。それは、取税人はユダヤ人でありながら、仲間のユダヤ人から厳しく税金を取り立てて、集めた税金をローマの政府に渡していたからです。しかも、彼らは、集めた税金の一部をこっそり盗んでお金をたくさん貯め込んでいたのです。ザアカイもお金持ちだったと思いますが、彼にはお金はたくさんありましたが、友達もなくさびしい生活をしていたようです。エリコに主イエスが来ているといううわさを聞いて、彼は大急ぎで主イエスを見に行きました。ザアカイは急いで走って行ったのですが、通りにはすでに大勢の人がいて、背が低かったザアカイには主イエスの姿は見えませんでした。しかし、彼はあきらめませんでした。必死で木に登りました。ザアカイはそれほどイエス様を見たかったのです。しかし、驚いたことに、イエス様もザアカイに会いたかったのです。それでイエス様はザアカイに「今夜はあなたの家に泊まることになければならない。」と言われました。主イエスがエリコの町を通られたのは、このザアカイという人々から嫌われた男に出会うためだったのです。ザアカイは何も知らなかったのですが、イエス様の計画の中に、この夜はザアカイとゆっくり交わりを持つことが決まっていたのです。私たちが、教会に通うようになったのも、(今日初めてこの教会に来た人も)、私たちは、たまたまここに来るようになったとか、たまたまクリスチャンになったと考えるかも知れませんが、神様の計画の中では、私たちをこの場所に導くことは決まっていたことだったのです。
その様子を見ていた群衆は、ひどく怒りました。そして「イエス様は、罪人の家に入って、客になられた。」と文句を言っています。私たちは、自分が嫌いな人、気に食わない人を見ると、その人に近づきたいとは思いません。その人と交わりを持ちたいとも思いません。できるだけ関わりを持たないようにとします。ですから、成功している人の周りには、その人と交わりたい人がたくさん集まって来ますが、失敗した人や不幸な人に近づく人は少ないのです。しかし、主イエスは、ザアカイの家の中に入って行きました。他人のお金を盗んで自分だけ金持ちになっている本当に悪い人間の家に行きたいと願われたのです。そんな男でもイエス様は愛されました。人々はザアカイを厳しく裁きました。パウロと言う人は、愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待すると言いましたが、イエス様は、平気で人をだまして自分だけが幸せであればいいと考えていたザアカイの弱さを受け入れて、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待して、彼を徹底的に愛されました。これが神の愛なのです。ザアカイもユダヤ人です。本来、かれは、聖書を信じて正しい生き方をするべきであったのですが、そういう生活を失っていました。だから他の人々はザアカイを冷たい目で見ていたのです。しかし、神は本当の愛を持っておられるので、私たちを見る目が人間と違うのです。彼にも、やりなおす力があることを見抜いておられて、やり直しの人生ができることを確信しておられました。だから、イエス様はザアカイを見て、「この人もアブラハムの子なのだ」と言われたのです。アブラハムとはすべてのユダヤ人が誇りに思っている最初のユダヤ人でした。イエス様は、彼を信頼して、新しい人生に導かれたのです。人を裁いて人を責めても、その人は立ち直れないでしょう。イエス様は、私も、また、あなたについても、すべてを期待して信頼しておられます。新しい人生を生きることができることを知らせようとしておられるのです。
の愛を受けたザアカイは、そのイエスの愛に応答しています。今まで、金がすべてだと考えていた男が、自分の財産の半分を貧しい人にあげると言っています。人生に対する考え方が完全に変わりました。あれほど大切だった金だったのに、彼はだました人には金を4倍にして返すと言っています。実は、聖書の決まりでは、盗んだお金を返す場合は、もともとの金額に5分の一を加えて返すことになっていました。しかし、ザアカイは5分の一ではなく、4倍にして返すと言うのです。主イエスの愛を受けた人は変わるのです。主イエスの愛を受けた人が、その愛を他の人に分け与えることができるのです。人間が誰もが愛を求めていますが、人間の愛には限界があります。イエス様のように自分を犠牲にするアガペーの愛で愛することが出来ないからです。結婚するお二人は、互いに愛し合っていて、誰もが結婚式では永遠の愛を誓います。しかし、なんと人間の愛ははかなく終わることが多いのでしょうか。人間の愛は本当の愛ではありません。1ヨハネ4章では9節に、「ここに神の愛があるのです」と書かれているので、ここにある真実の愛をまず知ってください。
愛する世界は、この神の愛が基礎になっています。神以外のものに愛を求めると、私たちは必ず失望します。ザアカイは、人間の愛を受けたのでなく、キリストの愛を受けた時に、他の人を愛することができる人間に変わりました。ヨハネは、神さまの愛を受ける時に二つのことが起きると言っています。第一に神の愛を知って神を信じる者の心の中に神様がともにいてくださるということです。16節「私たちは、私たちに対する愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」ここで使われている「うちにいる」という言葉はヨハネが好きな言葉で何度も繰り返して使われています。キリストの愛を知ってキリストを信じる者のうちに、神が住んでおられるとは本当に不思議なことです。旧約聖書の時代には、汚れた人間は聖なる神に近づくことはできませんでした。しかし、今は、イエス・キリストを主と信じるすべての人のうちに神様が住んでくださるのです。私たちが神にとどまる時、神様も私たちのうちにとどまってくださいます。私たちが、罪を離れて神様と一つになって生きる時、私たちのうちに神様の愛が注がれるのです。そして他の人への愛があふれ出て来るのです。あなたのうちにも神様がおられます。あなたの心に愛を注いでくださいます。17節にあるように、このことによって私たちの愛が完全なものにされるのです。そして人々を愛する力が与えられます。
のモロカイ島でハンセン氏病に苦しんでいた人々のために自分の生涯を捧げたダミアン神父にもこの愛が注がれていました。ダミアン神父は1873年にモロカイ島に行きました。当時、この島は地獄のような状態でした。病気になった人々は谷底で生活していました。彼らは病気になったためすべてを失ったので、神を恨み人々を憎んで、憂さ晴らしに強い酒を飲んでいました。また政府の役人が端の上から投げる食べ物もばくちをして分け合っていました。そのような中に入って行ったダミアン神父は、彼らの友人となって、彼らの傷口を洗ってあげたり、体を拭きながら彼らのために神様に祈りました。神父は26年間モリカイ島で働きましたが、その間に1600の墓を掘り、1000個の棺おけを作ったそうです。その神父がとうとうハンセン氏病にかかりました。その時彼は自分の兄に手紙を書きました。「私は以前からイエス様のためにこの病気にかかりたいと願っていました。自分が彼らと同じ病気になって初めて彼らの苦しみを自分の苦しみとし、彼らの痛みを自分の痛みとすることができました。私は彼らの本当の友達になれたことで、神様に感謝しています。」ダミアン神父は本当にキリストの愛が注がれた人だったのです。
神の愛を知る時、私たちは恐れから解放されます。17-18節を読みましょう。17節には、私たちはさばきの日に大胆さを持つことが出来ると書かれています。また、18節には、愛には恐れがありませんと書かれています。神を信じて生きる人は、この罪に満ちた地上での生活をする時も、神様とともに生きています。イエス・キリストの十字架があったので、私たちは、罪が赦され神様との交わりに入れてもらいました。すべての人は地上の生活を終わる時、神様の前に立たなければならないと聖書は教えています。そして神様のさばきを受けなければなりませんが、主イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストがすでに十字架の上でその裁きを受けてくださったので、もう神の裁きを受けないのです。それは私たちが良い行いをしたからではありません。ただキリストの愛を受けて信じたからです。そして神様の愛を受ける時に恐れは消えます。むしろ神様の力と平安を受けるのです。それは、神様は、目には見えませんが私たちのうちに生きておられ、いつも私たちを愛し、私たちを守ってくださることを知っているからです。
はかつて人々に次のように言われました。すずめは非常に安い値段で売られている。しかし、そんなすずめでさえも、神の許しがなければ、一羽のすずめも地に落ちることはないと言われました。この地に落ちるという言葉は死ぬという意味だと考えることもできますが、地に下りるという意味だと考えることもできます。つまり、神様は小さなすずめでさえも、その生活のすべてを知っておられ見守っておられるという意味になります。人間の目には何の価値もないようなすずめにも神様はこのように大切に守ってくださるのですから、まして、神の姿に似せて造られている私たち人間を守ってくださらないことは絶対にないのです。私たちを愛して、私たちのうちに住んでくださる神様は、私たちの生活の中のどんな小さなところにも目をとめてくださるのです。すべてを知っておられるから、神様は私たちを助け導くことができるのです。
このように私たちを大切に考えてくださるから、私たちは何も恐れる必要がありません。私たちの人間としての本当の価値は、この神様が認めてくださる価値です。私たちの周囲の人々は、ザアカイの周りにいた人と同じように、愛のない目で私たちを見て裁くことが多いです。人間は、他の人の心の中は見えません。外側しか見えません。ですから、勉強や仕事の成績とか、力の強さとか、顔の美しさとか、そのようなものによって人の価値を決めます。しかし、神様はすべての人に命を犠牲にするほどの愛を注いでおられるのです。聖書は私たち人間は一人一人神に造られたと教えています。ということは私たちは神様のものなのです。誰でも、自分のものは大切にするでしょう。もちろん、神様は私たちを大切にしてくださいます。だから、私たちは恐れることなく、明日に向かって前進することができるのです。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |