礼拝めっせーじ
礼拝説教06/03|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-06-03『神から受ける力』(1ヨハネ5章1-6節)

今日の
中心聖句

は5章の4,5節です。「神によって生れた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
 
英語で勝利はVictoryと言いますが、これはローマ神話で勝利の神の名前がヴィクトリアと言うからです。ギリシャ神話では勝利の神の名前はニケと言いますが英語式に発音するとナイキになります。つまりナイキの靴は勝利を呼ぶという意味でつけられた名前でしょう。誰でも、勝利の人生を送りたいと願っています。だれも敗北の人生を送りたいとは思いません。しかし、多くの人は自分を見て力がないことを感じるのではないでしょうか。私は、体も小さいのですが腕力もありません。ですから、腕相撲はほとんどしたことがありません。小学校の時に強い女の子がいて、あっさり負けてしまいました。強い人がうらやましかったです。先日、教会に来てくださった中島先生は、やっぱり強そうでしたね。むかしやくざをしていたなんて思えないですが、人に与える影響力の強さは今も変わりません。これから、ミッションバラバの働きがますます用いられて、日本で悩み苦しんでいる人になんとか福音が届けばいいなと思います。

ところが、
聖書には、

私みたいに体力のない人間にとって本当にうれしくなる素晴らしいメッセージが書かれています。さきほど読みました5章4節の言葉は、本当に素晴らしいです。「神によって生れた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」クリスチャンとは、神によって生れた者です。罪を告白してイエス・キリストを救い主と信じるすべての人に、目には見えませんが神様の霊が私たちのうちに入ってくださいます。つまり神様の性質を植え付けられるのです。クリスチャンにとっては、実は、信仰こそが勝利の源なのです。神を愛し、神への信仰が深まる時、わたしたちはますます自分を頼ることをやめて神様に頼るようになります。つまり神様につながって生きるようになります。「主はぶどうの木」という賛美がありますね。「主はぶどうの木。私は枝です。いつも離れずに。豊かな実を結ぶ」という歌詞です。ぶどうの枝は弱いです。だから、ぶどうの枝を使って家具やいろいろなものを作ることはできません。しかし、ぶどうの幹につながっていれば、幹からいのちが流れ出て、枝にそのいのちが入り、そして枝は実を結ぶことができます。しかし、枝が幹から離れて枝だけになってしまうとしばらくの間は葉を出すことはできるそうですが、絶対に実を結ぶことはできません。それと同じように、わたしたちも、神様から離れて自分だけの力で生きる時、何もできません。神様の目に良いことはなにもできません。しかし、神様につながって生きる時には、大きな働きをすることができるのです。しかも、イザヤ書には、神様が右手で私たちをしっかりと握り締めてくださるという言葉が書かれています。右は力のシンボルです。全能者である神様の右の手があなたをしっかり握っている時に、誰が、わたしたちを神様から引き離すことができるでしょうか。

ヨハネは

「世に勝つ」「勝利を得る」という言葉が好きで、ヨハネの黙示録の2章と3章で7回も繰り返して使っています。黙示録の3章にフィラデルフィアという町にあった教会に送られた神様のメッセージが書かれています。8節には「わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」と書かれています。黙示録の2章と3章には当時アジアと呼ばれていた地方にあった7つの教会に送られた神様のメッセージが書かれているのですが、その中にはかなり厳しいメッセージもあるのですが、フィラデルフィアの教会だけは神様から批判を受けていないのです。ところがその教会の人々は「力が少ししかなかった」と書いていあります。私たちが生きているこの世では、自分が持っている力によって立場が決まります。ところが神様の前では、自分の力が強いか弱いかはまったく関係がありません。この教会の人々は経済的にも、知識の面でも他の教会の人々よりも劣っていたようです。しかし、彼らはしっかりと神様の言葉を守り、信仰を守りとおしました。実は神様の目には、このことが大切なのです。神のことばを守るというのは、聖書が語っている約束にしがみついて、神様に希望を置いて生きることです。そして12節では、「勝利を得るものをわたしの聖所の柱にしよう。」と書かれています。「わたしの聖所」とは天国のことです。天国の柱とありますが、柱は永遠に残るという意味があります。アテネにパルテノン神殿がありますね。何千年もの間、あの神殿の屋根はありませんが、柱は立ち続けています。そのようにいつまでも天国に生きる約束が与えられています。

また、

21節には「勝利を得る者をわたしとともにわたしの座に着かせよう。」と書かれています。クリスチャンには、死んだ後にも確かな希望があります。聖書にはっきりと書かれているから、クリスチャンは死後のことについて迷ったり悩む必要はまったくありません。キリストは十字架にかかられた後、復活し、天に帰られました。今、主イエスは、父なる神の右の座に着いておられます。その主イエスが、クリスチャンに向って、言われるのです。「天国では、あなたはわたしと同じ椅子に座りなさい。」人間の社会でも、どの椅子に座るかというのは非常に大切ですね。大勢でレストランに行くと、誰がどこに座るかでもめたりしますよね。会社でも、部長の席に座っている人は、会社のどこにいて何をしていても部長の権威を持っています。しかし、会社では、社長室の椅子に座る人が一番大きな力を持っています。その人が体力が弱くても、見た感じが弱そうでも、その人は一番大きな力を持っています。会社の中での立場は、どの椅子に座っているかで決まります。神の子供の場合も同じです。私たちは、天国で主イエス・キリストが座っておられる場所と同じ所に座るのです。なぜなら、わたしたちは神から生れた者だからです。キリストと同じ権威を持っているのです。私たちは、しっかりこのことを覚えておきましょう。私たちは、死に対して、罪に対して完全に勝利された主イエス・キリストと同じ椅子に座っている者であることを決して忘れてはいけません。主イエスは勝利の主です。だから、わたしたちは勝利の人生を生きることができるのです。

昔、

アメリカの南北戦争の少し後にあった話です。南北戦争で勇敢に戦った一人の兵士がいました。彼は戦争で怪我をしたために仕事ができず、いつも誰かの家に行って食べるものをもらい、一晩泊めてもらっていました。「わたしはリンカーン大統領の友達だ。」と言って、戦争の話をすると誰もが彼に食べるものを与え、ベッドを与えていました。ところが一人の人が彼の話は怪しいと思って「本当にリンカーン大統領を知っているなら、証明してみろ。」と言いました。するとその男は「わたしは大統領直筆のサインのついた紙を持っているんだ。これだ。ただ俺は字が読めないから何て書いてあるか分からないけどな。」と答えました。その紙を見てもう一人の男はびっくりしました。「お前さん、これが何の紙だか知らなかったのか?大統領がお前に年金をたっぷり払うって約束している書類だよ。お前は、こんな所で乞食みたいな生活する必要なんかない!大統領がお前さんを金持ちにしてくれたんだよ。」
 私たち、クリスチャンも、この兵士のような生き方をしていないでしょうか。私たちは、この世界のすべてのものを支配しておられる神様の子供なのです。この兵士のように、自分がまるで敗北者であるかのような生活をする必要はありません。イエス・キリストが、あなたを勝利者にしてくださったのです。主イエスが十字架の苦しみを受けた後に復活されたことによって、わたしたちの本当の敵である罪と死の力は打ち砕かれました。主イエスと同じ椅子に座る私たちは、自分の勝利ではなく、主イエス・キリストの勝利を受けることができるのです。

私たちが

主イエスを信じる信仰、これが私たちの勝利の秘訣です。私たちは力で勝利を獲得するのではなく、信仰によって勝利を獲得するのです。信仰というのは、ただ、聖書の言うことは本当ですと言うこと、神様の言葉は本当ですと口で言うことではありません。信仰とは、神様の言葉は本当なので、その言葉に従いますという決意であり、告白です。神様は、遠い存在ではなく、わたしたち一人一人の生活に関わってくださる方です。だから、その信仰があるから、すべてのことを神様に委ねて、任せて生きるのです。信仰は、自分の力だけで生きるのを止めて、神様の約束にすがることとも言えるでしょう。ヘブル人への手紙の11章は信仰者の章と言われます。旧約聖書に出てくる偉大な信仰者のことが書かれているからです。彼らは特別な人間ではありません。私たちと同じ弱さを持っていました。ただ、彼らは皆、信仰によって、自分の人生を勝利の人生にしました。彼らは、とにかく、神様を信頼し、神様の約束を信じて、神様の言葉に従って生きたのです。アブラハムの場合は、「今住んでいる所から出なさい」という神様の声を聞くのですが、ヘブル書には彼は「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」と書かれています。これが彼の信仰でした。彼は、出て行きましたが、その後、神様の前に失敗し罪を犯しました。決して完全な信仰者ではなかったのです。ただ、なぜアブラハムが偉大な信仰者と言われるかというと、彼があくまでも神様の約束にしがみついていたからです。信仰の世界では、失敗しないことが大切なのではありません。失敗しても、いつも神様に従おうとすることです。ヤコブも同じです。ヘブル書の12章で言われているように、わたしたちは「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

私たちが

主イエスとつながっている時、私たちの人生は勝利の人生になります。パウロの人生も勝利の人生でした。彼はローマ書8章35-37節で次のように言っています。
『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

クリスチャンの生活

が勝利者の生活であるということは、決してクリスチャンがいつも楽で幸福な生活をするという意味ではありません。むしろクリスチャンは、イエス様が預言されたように、この世では困難を経験するほうが多いのです。パウロ自身がそうでした。しかし、そんな困難を経験しても、勝利者の生活ができるのです。それは、たとえ、患難であっても、苦しみであっても、この世の中には「私たちをキリストの愛から引き離すことのできるもの」は何一つないからです。ヨハネの手紙が書かれた頃、クリスチャンは、ローマ帝国の激しい迫害を受けていました。多くのクリスチャンが捕まって殺されました。特にネロ皇帝の迫害は残酷でした。クリスチャンは捕らえられてローマにある円形闘技場に連れて行かれて、真中の場所に置かれました。その後で、その中に、お腹を空かせたライオンを入れました。ライオンはクリスチャンを襲い、彼らはライオンの餌食となって死にました。しかし、彼らの生涯の最後の姿は立派でした。婦人や子供も多かったのですが、彼らは最後まで天を見上げて讃美歌を歌い続けました。彼らは、死の直前でも、人を恐れませんでした。彼らは、他の人間は自分の体を滅ぼすことができても、自分の魂を滅ぼすことができないことを知っていました。先週も言いましたように、神様は、いつも私たちを見守っておられます。私たちの頭の毛の数さえ知っておられるのです。人の毛の数は14万本ぐらいだそうですが、一人一人、その数は異なります。しかし、神様は、私たち一人一人の髪の毛の数まで知っておられるのです。この世界にクリスチャンは何十億人もいます。しかし、神様は、わたしたち一人一人を見ていてくださいます。私たちもアブラハムのように神様の約束にすがって、神様から力をいただいて、信仰の生涯を最後まで貫いて生きたいと思っています。
 

ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。)