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礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2001-06-10『いのちを与える主』(1ヨハネ5章6-13節)
という人は「この世の中で絶対に確かなことは二つしかない。死ぬことと税金を払うことだ。」と言ったそうです。この言葉は言い換えると、今、私たちが生きている世界で、税金を除いて本当に確実なこと、絶対に確かだと言えるものは何もないということだと思います。人は、誰でも、不確かなことを好みません。自分の人生がどうなるのか、自分の将来がどうなるか、何か確かなものを見つけたいと願っています。ですから、今も、多くの人が占いに頼っているのではないでしょうか。誰もが、確実な人生を生きたい、確実な未来に向かって歩きたいと願っているのです。
の中で繰り返し使われている言葉がいくつかありますが、その中の一つに「知っている」という言葉があります。この短い手紙の中に、実に39回も使われています。つまり、クリスチャンは恐れることなく「私は知っている」と言う事ができる、確信に満ちた信仰を持つことができるのだとヨハネは教えているように思います。ヨハネは5章の13節にこの手紙を書いた目的を語っています。13節「これらのことをあなたがたに書き送ったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちをもっていることを、悟らせるためである。」福音書というのは、基本的に、まだクリスチャンではない人に向けて書かれたものです。神ご自身が神のひとり子イエス・キリストについて証言していることを人々が読んで、そしてそのキリストを信じることによって、罪の許し永遠のいのちを受け取ること、これが福音書が書かれた目的なのです。
クリスチャンに向けて書かれた手紙です。ですから、ヨハネは、人々が自分の紙を読んでイエス・キリストを信じることを願って、この手紙を書いたのではありません。ヨハネはすでに、イエス・キリストを救い主と信じたクリスチャンにどうしても伝えたかったのです。クリスチャンはすでに永遠のいのちを受け取っており、今もその永遠のいのちを持ち続けているということを教えたかったのです。ヨハネがこの手紙で私たちに教えようとしていることは非常に大切なことです。今の時代は、確かなものがない時代です。多くの人は、この世界には絶対的なものなんかないと考えています。ですから、クリスチャンが罪と死の力から救われていると確信を持って話すと、人々はクリスチャンは傲慢だと思うのです。確信を持つことと傲慢であることとは違います。私たちクリスチャンは、主イエス・キリストの生き方を見習って、常に謙遜でなければなりません。しかし、同時に私たちは、神様が語っておられる御言葉、神様の約束に確信を持って生きることができるのですし、またそのように生きるべきなのです。
5章の13節にはキリストを信じる者は永遠のいのちを持っていると書かれていますが、私たちは、なぜイエス・キリストが神であると確信を持つことができるのでしょうか。ヨハネがこの手紙を書いた頃、イエス・キリストに関して様々な考えがありました。私たちの小さな頭では、真に神であり、同時に真に人であるイエス・キリストを理解することが非常に難しいからです。当時広まっていた考え方の一つは次のようなものです。イエスは人間であったが、洗礼を受けた時に救い主が宿り、そして十字架にかかったときに救い主はイエスから去って行ったというものです。しかし、ヨハネはそのような間違った考え方に、はっきりと反対して、ヨハネは、イエスが神であることを証言するものが三つあると述べています。8節にあるように、御霊と水と血であると書かれています。
を変えて考えてみましょう。まず第一に水ですが、これは主イエス・キリストの洗礼を指していると考えられます。この福音書を書いた弟子ヨハネとは別人である洗礼者ヨハネは、主イエスが神の子として働きを始める前に、イスラエルの人々に悔い改めの洗礼を受けるようにと訴えていました。その時、罪のない主イエスが洗礼者ヨハネの反対を押し切ってヨルダン川で水の洗礼を受けられました。主イエスが洗礼を受けられたとき、天から父なる神の声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」そして同時に聖霊が鳩のような姿で天から下り主イエスのうえにとまりました。主イエスが神の子としての働きを始める時に、父なる神がイエスこそ神の御子であると証言されました。
十字架を意味していますが、主イエスが十字架にかかる前に心を騒がした時がありました。ヨハネの福音書12章27-28節にその出来事が記されています。その時も天からが声がしました。「わたしはすでに栄光を表したし、またもう一度栄光を表そう。」そして、主が十字架にかかられた時に、父なる神は様々な奇跡的な現象で証をしています。主が十字架にかかれた時に、昼だったのに、全地が暗くなりました。大きな地震が起こりました。神殿の中にかけられていた幕が上から下に向かって真っ二つに裂けました。人間が幕を裂くときは必ず下から上に裂けるはずです。ですから、このような様子をそばで見ていたローマ人の百人隊長まで「この方はまことに神の子であった。」と叫んだのでした。
主イエスについて証言するのが聖霊です。さきの二つの証言はすでに過去のものとなりました。しかし、聖霊は、今の時代に私たちのうちに働いてイエス・キリストについて証しします。どんな証しをするかというと、ローマ人への手紙の8章15-16節に書いてあるように、「私たちがキリストのゆえに、神の子どもである」と証言するのです。聖霊は、私たちが神様の子どもとしての身分をもっとはっきり意識するように働きます。父なる神様に向かって「アバ、父よ。」と呼びかけられるように聖霊は私たちに働きます。アバというのは「パパ」に近いとても父親に対する愛情と親しみがこもった言葉です。この世には様々な霊が働いていますが、聖霊と悪霊の二つのグループに分けられますが、この世でオカルトなどを通して働く様々な霊はすべて悪霊です。悪霊は人々の心を恐怖で縛ります。しかし、聖霊は人々を恐怖の中から助け出して、父なる神様の懐へと導いてくれるのです。だから、私たちは、子どもが父親を「パパ」と呼ぶように、親しく「アバ、父よ。と呼ぶことができるのです。聖霊の働きは私たちを主イエスと結びつけ、イエスと同じように、私たちも神の子供として神と交わることができるようにすることです。
旧約聖書の時代には物事を裁判で解決する時に二人か三人の証言を必要としていました。5章の8節には三つの証言が記されています。ですから、私たちは主イエス・キリストを神の子として信じることができるのです。そして今日の個所では、イエス・キリストを神の子と信じる者には永遠のいのちがすでに与えられていると教えています。この永遠のいのちは主イエス・キリストからプレゼントとして与えられたものです。ヨハネの福音書の10章でイエス様は、私たちクリスチャンとの関係を羊飼いと羊に例えて話されました。10章28節で、イエス様はこう言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」ここで主イエスは、私たちに与えるいのちに関して3つのことを約束しておられます。まず第一にこれは永遠のいのちであると言われました。この地上のいのちはいつか消え去るはかないいのちです。しかし、主が与えてくださるのはそのようなはかないいのちではありません。永遠のいのちです。第二にクリスチャンに与えられるいのちは決して滅びることのないいのちです。私たちが死を恐れるのは死がわたしたちのいのちを滅ぼすからです。しかし、クリスチャンは肉体は土に戻る時が来ますが、その時、私たちの命は暗闇に葬り去られるのではありません。むしろ、神の国において新しい命の始まりを迎えるのです。三番目に、誰も奪い去ることのない本当に安全ないのちです。今の日本は、本当に安全な場所がない国になってしまいました。様々な恐ろしい事件が起きています。しかし、主イエスは、私たちに約束しておられます。誰もわたしたちのいのちをキリストの手から奪い去ることは出来ないのです。つまり、どんな時も私たちのいのちは主イエスの力強い手の中に守られているということです。私たちは、この世では苦しみも悲しみも経験します。しかし、例え、地上での生活が悲しみに満ちることがあっても、永遠の腕が私たちを支え、慰め、励ましてくださるということを知るときには、平安を感じることができます。
に言いましたように、人間にとって確実なことは死ぬことです。聖書も「人は一度死ぬことと、死んだ後にさばきを受けることが定まっている」と証言しています。しかし、そのような私たちを死と裁きから解放するために十字架でご自身の命をささげられました。イエスが十字架にかかられた朝、ローマの軍隊が十字架の処刑を準備していました。その日は3本の十字架を準備していました。それはその日3人の処刑が決まっていたからです。そのうちの2本には有名な強盗がつけられることになっていました。そしてもう一本にはローマ帝国反対する騒ぎを起こしたバラバという男がつけられる予定でした。しかし、その日、バラバは十字架にかかりませんでした。彼はローマに反逆した犯罪人でした。裁判で十字架にかかることが決まっていました。しかし、彼は釈放されました。それは彼が無実だったからではありません。主イエスが、彼の代わりに十字架の刑を受けられたからです。主イエスが十字架にかかられたのはバラバの身代わりになるためだったのです。また、主イエスは、私たちの身代わりにもなってくださったのです。
が突然、自由になったように、私たちも、主イエスを神の子と信じるその瞬間に死と死後の裁きという恐怖から解き放たれて、死はもはや呪いではなく、むしろ神様から最も素晴らしい祝福を受ける時に変わったのです。それは、ちょうどつぼみがぱちんとはじけて花開く時に似ています。私たちの地上の人生はつぼみのようです。しかし、肉体が朽ちるときは、実は私たちのいのちが花開いて新しい時代に入ることを意味しているのです。ですから、何も恐れる必要がありません。私たちのいのちは、悪と悩みと悲しみに満ちたこの世界から、神がおられる永遠の世界、天国へと移されるからです。黙示録には天国のことがこのように描かれています。「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」私たちは、地上の生活の時には悲しみや苦しみや叫びを経験するかも知れません。しかし、それらのことは必ず終わる時が来ます。そして神が私たちと目に見える形でともにいてくださり、私たちを、もっとはっきりした形で支え慰め、励ましてくださる時が来るのですから、今自分を取り巻いている状況だけ見つめて喜んだり悲しんだりするのではなく、自分が最終的に落ち着くところは永遠のいのちが輝く場所であることを覚えてください。そして、つねに希望をもって前進して行きましょう。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |