礼拝めっせーじ
礼拝説教06/24|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-06-24『多くを赦された女』(ルカ7章36-50節)

同情とか憐れみ

を意味する英語の言葉は「Compassion」と言います。この言葉の中でComというのは「同じ」という意味です。そして「Passion」というのは「気持ち・感情」という意味で、それで同情になるのですが、ある人はCompassionというのは「わたしの心の中にあるあなたの痛み」であると言いました。主イエスは、約3年余りの短い神の子としての生涯の中で、絶えずあちこちを訪れ、神についていろいろなことを教えたり、病人を癒したり、忙しく働いておられました。そのような中で、主は人々が悲惨な状態の中にいることをご覧になりました。

マタイの福音書

を見ると、主は「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」とあります。主はいつも人々の本当の姿を見抜いておられました。人は、どんなに健康に恵まれていても、どんなに経済的に恵まれていても、主イエスは、その人の心の中がどのような状態であるか知っておられるのです。この時、主イエスは群集を見て、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」姿を見抜かれました。羊は、皆さんも知っているように、弱い動物で、羊飼いがいないと、自分で自分を守る力がありません。羊飼いのいない羊はすぐに狼のような動物に襲われてしっまします。また、羊は頭があまり良くないので、自分で緑の牧場や水のある場所を見つけることができません。羊飼いがいつもそのような場所に連れて行ってくれるのです。羊飼いがいない羊たちは、お腹がすき、喉が渇いていても、どこに行ったら良いのか分からず、うろうろ歩きまわるだけなのです。


イエス

が見た群集がそのような羊の姿に似ていたのでした。何かを求めて、心に飢え渇きを感じていても、どこに行けばそれが満たされるのか分からず、ただむなしく歩きまわっている人々の姿が見えたのでした。そのような人々に主はふかい憐れみ、Compassionを感じられました。主イエスは彼らが何を必要としているのか分かっていました。ルカの福音書の7章には、悩みや苦しみに中にいる人が次々に登場します。自分の召し使いが重い病気になってしまった人、自分の息子が死んでしまった母親、主イエスの働きを見て心が混乱してしまった預言者、そして、自分の罪を悔い改めた女性です。そして主イエスは、これらの人々をすべて助けられたのです。主イエスは、ある時、こう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」今朝は、主イエスが、罪を悔い改めた女性をどのように扱われたのかを見たいと思います。

(1) 罪を悔い改めた女性

イエス様の時代、イスラエルの国では、比較的オープンな付き合いが行われていました。例えば、どこかの家でパーティーが行われる時には、招かれていない人も、その中に入って、パーティーではたいてい有名な人がお話しをすることが多いのですが、その話を聞くことができました。そういう訳で、イエス様がある時、パリサイ派の人と食事をした時に、その町に住んでいた一人のつい深い女性が、その会場に入って来たのです。このパリサイ人は自分の家にイエス様を招いたのですから、かなり裕福な人だったと思います。イエス様を招く時は必ず12人の弟子たちも一緒です。少なくても13人です。それ以外の人も招かれていますから、かなり広い家に住んでいたと思われます。パリサイ派と言われるのは、ユダヤ人の中でも非常に宗教に熱心で、旧約聖書の教えをしっかり守って生きている人々でした。ですから、自分たちは正しい、清い生き方をしていると思っていました。すると、そこへ、なんと、町でも有名な罪深い女がパリサイ人の家の中に入って来ました。何の罪なのか聖書は書いていませんが、おそらく売春婦だったと思われます。その町では、彼女が道を歩くとみんながいやな顔をしたり、ひそひそ噂をしていたと思います。

彼女
は、

中に入ってくると、後ろからそっとイエス様の足元に近づきました。当時は、食事をする時は床に寝そべって足を後ろに伸ばした姿勢で、低いテーブルの周りを囲んで食べました。ですから、彼女はイエス様の足元に近づくことができたのです。彼女は持って来た香油のビンを割って、その香油をイエス様の足に注ぎ、自分の髪の毛で吹き始めたのです。彼女はイエス様の体にすばらしいにおいのする香油を塗りたいと思ったのです。香油は非常に高価なものでした。ユダヤ教の教師は人前で女性に話しかけたり、一緒に食事をすることはありません。まして、知らない女性に自分の体を触らせることなどしません。しかし、彼女が自分の足に香油を注いでいる間、イエス様は何も言わずに彼女がするままにしていました。彼女が香油をイエス様の体に注いでいる間に、彼女の目から涙がぼろぼろこぼれて来ました。彼女は、以前は、荒れた生活をしていました。悪い方法でお金を稼いでいました。町の人からはいつも嫌な目で見られていました。それは、どれほど辛く悲しい人生だったでしょう。

ミッション
バラバ

のメンバーで、今、千葉で牧師をしておられる鈴木先生もこう言っておられます。「欲望の限り生きてきた人生の最後は、消すことのできない罪悪感と絶望感だった。自分が自分で何をしているか分からないほど頭が混乱し、薬物や酒に逃げて自分をごまかしてきた。迫り来る恐怖の中でわたしは必死で助けを求めていた。17才の時からやくざの世界に入って17年間、多くの人を苦しめ傷付け、都合が悪くなると逃げ隠れ、自分の家族まで捨てた。自分の過ちで多くのやくざの人たちからいのちを狙われたわたしは、逃亡生活の中で、精神的につぶれてしまいました。そんな中で、神様は一人の牧師を通して語りかけてくれました。『世界中のだれもあなたを愛してくれないとしても、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』この世で醜いことしかしてかなかったような、こんなわたしのためにいのちまで捨てて救ってくださる方がいる。もう一度、一から出直してみよう。だれも受け入れてくれなくても、イエス様が助けてくれることを信じて。目に見えない親分であるイエス・キリストを信じて一歩踏み出したら、二度と許してもらえないと思っていた家族が受け入れてくれ、誰の目にもやり直しは無理だと思われたわたしの人生が、確かに変わって、今は世界中を駆け巡って、人生はやり直せるというメッセージを語る伝道者になりました。」鈴木牧師は完全に人生につまずいていました。しかし、彼は主イエスと出会って変わったのです。「刺青のクリスチャン」という本があって、バラバのメンバーたちの証が載っていますが、その中の写真を見ると、みんな、信じる前と信じた後では別人のように顔が変わっています。喜びと希望に満ちた本当にいい顔をしておられます。

この時
の、

罪深い女性も、町の人の目には、いまだに罪深い女だったでしょうが、実は、彼女はまったく別人に変わっていたのです。それで、イエス様のそばに来ただけでうれしくてうれしくて、涙がぼろぼろとこぼれて来たのです。香油は非常に高価なもので、彼女にとっては財産だったでしょう。でも、自分が持っている一番高価なものを、彼女はイエス様に捧げたかったのです。彼女はイエス様の足を香油と涙で洗いました。客の足を洗うのは家の中で一番身分が低い召し使いが行う仕事でした。彼女は、本当に神様の前にへりくだって、イエス様に感謝の気持ちを表わしました。

(2) 冷ややかな目をしたパリサイ人

一方、パーティーを開いたパリサイ人はひどく怒っていました。招いてもいない女性、しかも、町で有名な罪深い女が自分の家の中に入って来たからです。パーティーには、この町に住む、いわゆる、名士と言われる人々が招かれていたと思います。そのような人々の目が気になりました。「せっかく開いたパーティーが台無しだ」とこの男は思ったでしょう。そして、彼はイエス様にも腹を立てていました。当時、この地方では、イエス・キリストは偉大な預言者であるという噂が広く広まっていました。だから、このパリサイ人は、実際にイエスという男がどういう人物かを確かめたくて、自分の家に食事に招いたのだと思います。彼は心の中で思いました。「この男が本当に預言者だったら、自分の体に触っている女がどれほど悪い人間であるか分かるはずだ。結局、この男は預言者なんかじゃない。

ところ
が、

イエス様はこの男が考えていることを完全に見抜かれました。そこで二人の借金をした男のたとえ話を話されたのです。一人の男は500万、もう一人の男は50万をある金貸しから借りていました。二人とも自分の借金を返すことができません。ところが、この金貸しは二人の借金を帳消しにしてくれたのです。「二人のうちどちらが多く金貸しを愛するだろうか。」これが例え話の終わりにイエスが尋ねた質問でした。ただ、イエス様がこのパリサイ人に伝えようとしたことは、罪の大きさがいろいろ違うということではありません。自分の罪に気づいているかどうかを問いかける話なのです。というのは、この例え話の中で、500万借りた人も50万借りた人も、どちらも自分の借金を返すことができなかったのです。借金は、神様の前で犯した私たちの罪を表わしています。神様の前には、この罪深い女性も、真面目なパリサイ人も同じように罪人なのです。ところが、人々の目には、女の罪ははっきりしていましたが、パリサイ人の罪は隠れて見えなかったのです。二人とも、神様の前には借金を返すことができない状態です。女性は自分の罪に気づいていましたが、パリサイ人はまったく気づいていませんでした。この二人の違いはイエ
スを迎えた時の態度に表れました。この女性は、主イエスの埃まみれの足を涙と香油でぬらして、髪の毛で拭きましたが、パリサイ人は、足を洗う水も与えない。接吻のあいさつもしない。頭にオリーブ油を塗ることもしませんでした。

(3) 多くを赦してくださる主

罪の赦しというのは神様からプレゼントです。イエス様が例え話の中でいわれた二人の男と同じように、わたしたちは、神様に対して、自分の力だけでは絶対に返すことのできない借金を背負っているのです。私たちが払うことのできない借金を、身代わりに、イエス・キリストが支払ってくださいました。十字架でいのちを捨てることによって払ってくださいました。自分の罪をよく知っていた女性は、イエス様が与えてくださる罪の赦しを喜んで受け取りました。そして、その喜びをオープンに表現しました。一方、パリサイ人シモンは、自分が正しい人間だと思っていました。そして、周囲の人間を裁いていました。そのため、イエス様が差し出されたプレゼントである、罪の赦しを受け取りませんでした。そのため、彼の罪は赦されないまま残ってしまったのです。彼の目は本当に見るべきものが見えませんでした。だから、自分のことも、罪深い女性のことも、またイエス様のことも、本当のことが見えなかったのです。

イザヤ書

43章25節には次にように書かれています。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」私たちは、なかなか他の人の罪を赦すことも忘れることもできません。しかし、神様は、私たちの罪を拭い去るだけでなく、もう二度と思い出さないと約束しておられるのです。これが神様の恵みなのです。私たちにはもったいないような神様からのプレゼントが恵みなのです。誰でも、このプレゼントを受け取ることができるのです。また、受け取らなければ、その人の罪は赦されないまま残ってしまうのです。神様の赦しは自動的に与えられるものではありません。赦しは差し出されているのですが、それを受け取らなければなりません。私たちも、神様の赦しを拒否することができるのです。1830年にアメリカでウィルソンという名前の男が郵便を盗んだために逮捕されました。当時は、そのために絞首刑になりました。ところが、しばらくして、アメリカの大統領が、恩赦を与えたのですが、なんと、ウィルソンはその恩赦を拒否したのです。政府の人々も困りました。彼を釈放するべきか絞首刑にするべきか迷いました。それで、裁判になったのですが、次のような判決が出ました。「恩赦と言うのは一枚の紙切れにすぎない。その恩赦が効力を持つのは、赦された人がそれを受け取る時である。もし、恩赦が拒否されるのなら、恩赦の効力はない。ウィルソンは絞首刑にされなければならない。」

あなた
にも、

この罪の赦しが差し出されています。いまこそ、この神様の赦しを受け取って、完全に赦された人として新しい人生を始める時ではないでしょうか。鈴木牧師は言いました。「誰の目から見てもやり直せないとしか思えなかった人生を確かにやり直すことができました。」どうぞ、確かに人生はやり直せるんだという事実を知っていただき、人生再出発の新しい一歩を踏み出してください。

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