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礼拝説教
2001-07-22『天国の喜び』(黙示録7章9-17節)
から、聖書が預言している世の終わりに起きる神の裁きがどのように始まるか、語りました。天国でイエスが7つの封印で閉じられた巻物を受け取った後、その封印が次々に開かれて行きます。最初の4つの封印が開かれると4頭の馬が現れました。その後も5番目の封印、6番目の封印が開かれます。6章の終わりには6番目の封印が開かれた時にことが書かれています。6番目の封印が開かれた時に、黙示録を書いたヨハネは大きな地震が起きるのを見ます。ヨハネはその様子を次のように書いています。「太陽は黒くなり、月が血のように赤くなった。そして天の星が地に落ちた。すべての山や島がその場所から移された。」星が天から落ちたと書かれています。アメリカのアリゾナ州に幅1.6キロ、深さが180メートルのクレーターがあります。昔、隕石が地球にぶつかって出来たものです。その時の衝撃で地球の様子が大きく変わったと考えられます。大量の土や岩が空中に撒き散らされました。すると太陽は黒くなり月も赤く見えるでしょう。大地震が起こり、山が崩れたり、島が消えてしまうことも考えられます。暖かかった場所が一瞬にして氷のような世界になったかも知れません。シベリアでマンモスという動物の化石が発見されていますが、あるマンモスの口から暖かい場所で育つ草が見つかったそうです。暖かい場所で草を食べていたマンモスが一瞬のうちに凍ってしまったのです。それと同じようなことが将来起きると聖書は預言しています。
私たち人間はどうなるのでしょうか。6章の15節を見ると「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人がほら穴と山の岩間に隠れた。」と書かれています。これはどういう意味があるのでしょうか。神の裁きが下るとき、すべての人は神の前で同じ人間になります。そこには地上の王と高官がいます。彼らは、その時までは絶対的な権力をもっていました。千人隊長は軍隊のリーダーとしていつも人々に命令を与えていました。金持ちは自分の持ち物が自分を守ってくれると思っていましたし、勇者は自分の力が自分を守ると考えていました。しかし、神の裁きが下るとき、彼らのそれまでの地位や力はまったく意味を持たなくなります。彼らは皆、他の奴隷や自由人とともに神から隠れなければならないのです。権力やお金を持っていた人々は自分たちは安全だと思っていたでしょう。しかし、神の裁きの時、彼らは何ももたない人々と同じ状況に置かれるのです。神の裁きから逃れることのできる人は一人もいないのです。彼らは叫びました。17節「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
が解かれて、地上の人々は神の裁きから逃れるために隠れようとしました。そして、「だれが神の裁きに耐えられるのか?」とたずねています。7章は、その質問に対する答えとして書かれています。それは忠実に神を信じる人々は耐えられるという答えでした。6番目の封印と7番目の封印の間にしばらく時間のへだたりがあります。7章に入って、ヨハネは別の幻を見ました。それは「四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしている姿でした。ヨハネが黙示録を書いた頃、世界は平らで四角い形をしていると考えられていました。世界の四隅に立って、御使いが風を止めていました。この風は心地よい風ではありません。イスラエルではアラビア砂漠から山を越えて吹き付ける東風がありました。それは砂漠からの熱風ですから、東風が吹くと、木も草もあっという間に枯れてしまう恐ろしい風です。ですから、聖書ではこの風は神様の裁きのシンボルとして使われることが多いです。(エレミヤ49:36など)御使いたちが神の裁きが来ないように風を抑えています。6章の終わりの所で、地上のあらゆる人々が神様の裁きを恐れて神様から隠れようとしています。彼らはパニックになっています。しかし、神を信じる人々のために、御使いたちはその裁きをとどめている。何と対照的な姿でしょうか。さらにもう一人の御使いが現われました。日の出る方、つまり東から現われた天使の手には神の印がありました。印というのは指輪です。昔、王様が自分が書いた書類に封印をする時、溶かしたロウのうえに印鑑の代わりに指輪を押したのです。それは、その書類が確かに王様が書いたものだという証拠になりました。神様が自分の民である人々に印を押しました。その時代、奴隷や家畜は持ち主から逃げられないように、体に焼き印を押されました。御使いたちは風を抑えています。それは救われるべき人が救われるまで待っているのです。
で神様はこう言われました。「あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」私たち神様を信じる者には、神様の印が押されているのです。そしてその人々が災いを受けることがないように神様が働いてくださる約束が書かれています。ですから、何事が起こっても、神様を信じる者は恐れる必要がないのです。クリスチャンにとっての幸せとは、常に自分の生活が順調に進むことではありません。いろいろ苦しいことを経験するとしても、常に自分のそばに神がおられて、それぞれの問題を乗り越える力を与えてくださることです。そして、私たちを名前で呼んでくださると言うのは、私たちが神様に属する者であることを表すのです。
ヨハネが見たのはイスラエルの民が記しを押される様子でした。イスラエルの12の部族から1万2千人ずつが印を押されています。合計14万4千人です。エホバの証人の人たちは、この14万4千人はエホバの証人の数を意味すると主張しています。果たして、そうなのでしょうか。12と言う数は完全数と言われます。人の世界を表わす数である4と神の世界を表わす数の3を掛け合わせた数だからです。1000という数は多さを表わす数です。ですから、12X12X1000というのは完全に満ち足りた数であることが分かります。おそらく、これは、神様を信じるすべての人々を表わす数だと思われます。神様を信じる人々こそ、真実のイスラエルの民であると言えます。パウロも外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である人こそユダヤ人であると言っています。神を信じるすべての人は安全に神様のところへ導かれるのです。14万4千人が完全に満ち足りた数であるということは、誰一人として神様が見落としたり、忘れたりする人はいないということを意味します。私たちはこの世では患難を経験します。しかし、この世界でどのように恐ろしいことが起こっても、神の印を押された人々は必ず永遠のいのちに導かれるのです。神を信じる人の将来は完全に保証されているのです。
いよいよ今日の箇所である黙示録7章9節から17節に入ります。ヨハネは天国の幻を見ました。「私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」旧約聖書の時代、ユダヤ人以外の人々は汚れた者と見なされて、神から引き離されていました。しかし、イエス・キリストの十字架によって人間世界のあらゆる差別、区別が崩れました。彼は白い衣を着ています。これは、十字架でイエス・キリストが流した血によってクリスチャンの罪が洗い清められたことを表わしています。私たちの裸の姿は汚れています。罪と自我によって汚れています。しかし、その汚れた体の上に神様は真っ白な衣を着せてくださいます。彼らは手にしゅろの枝を持っています。ユダヤ人は、お祝いをする時、本当にうれしい時に、しゅろの枝を持ちます。私たちも、天国で神様の前に立つ時に、彼らと同じようにしゅろの枝を持って、つまり、本当の喜びに満ち溢れて立つことができるのです。この人々は14節で「大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」と言われています。イエス様も言われました、世の終わりの時代に、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」イエス様は、信仰者の生活は、世の終わりの時代に決して簡単ではないことを預言されました。しかし、聖霊の助けを受けてキリストに忠実に生きる人々を神様は完全に守り救ってくださるのです。
「そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」と書かれています。なんと慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。御座に着いておられる方、つまり神御自身が彼らの上に幕屋を張られるとあります。幕屋とはテントのことですが、旧約聖書では、幕屋とは神様がおおられる場所でした。聖書にはたびたび神様がイスラエルの民を守る姿を、親鳥が翼を広げてひなを守る姿に例えています。鳥がひなを守るために自分の羽でひなを覆うように、神様は私たちを守るために御自身の腕を私たちのうえに広げてくださるのです。
さらに17節には「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」と書かれています。イエス様御自身、「私は良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」」と言われました。このイエス・キリストは私たちをいのちの水の泉に導いてくださいます。私たちは、以前は、神を無視して自分勝手に生きる罪人でした。自分の力を過信していろいろな失敗をして落ち込んだり、自分勝手な考えでいろいろなことをたくらんだりしていました。何でも一人で出来ると強情をはって心の中は寂しさを味わったりしていたものです。しかし、私たちはクリスチャンになって、神様から養って生きる者に変わりました。生まれつきの弱さを持ったままですが、先頭に立って私たちを導いてくださる羊飼いなる主イエスがわたしたちを命の水に導いてくださいます。この楽しさ、この安心感、これがクリスチャンの特権です。私たちの主は良い羊飼いですから、わたしたちのことを自分のいのちを捨ててでも守ってくださるのです。
私たちが天国に着く時に、神様は私たちの目から涙をすっかり拭い取ってくださいます。それは、天国には、もはや痛みも、苦しみも、悲しみもないからです。今の時代、神様を信じる信仰を持って生きることは決して簡単なことではありません。いや、むしろ、いろいろな痛みや苦しみが伴うことが多いかもしれません。しかし、2000年前から黙示録ははっきり預言してきました。最終的に勝利するのは神を信じる人々であることを。将来、ますます時代は悪くなって行きます。それが聖書の教えている所です。しかし、わたしたちは何も恐れる必要がありません。全能の力を持っておられる神様が私たちをこのように守ってくださり、すばらしい天国に導いてくださると約束されているからです。 ページのTOP (上記の文章を許可なく他に転載することを禁止します。) |