礼拝めっせーじ
礼拝説教07/29|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-07-29『イエス・キリストとの出会い』(マルコ10:45)
松岡広和牧師

私は、寺に生まれ、

やがて僧侶となりました。そして、大学院在学中に韓国へ仏教を学びに留学することになりまた。ところが、韓国で教会にも行き、聖書の勉強をすることもしました。はじめは、単なる宗教的教養というつもりで勉強を始めましたが、聖書の御言葉に触れていくうちに心が変えられ、ついに、悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われるにいたりました。

それから、

さらに、「私を救ってくださったイエス様をもっと知りたい、イエス様に出会いたい」という願いを起こし、毎日、早天祈祷会に通いながら、祈りました。
 一ヶ月ほど過ぎたとき、その日も早天祈祷会から帰ってきて、少し聖書を開いていますと、マルコの福音書10章45節が目にとまりました。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、・・・」。この御言葉を見たとき、「そうだ、イエス様はいつも私のそばに、私に仕えるかたちでいらっしゃる方なのだ」ということが、頭だけではなく、魂の奥底からわかりました。そのとき、肉眼ではなく、霊の目でと言ったらいいでしょうか、明らかに私のそばにいらっしゃるイエス様を見ることが出来ました。主の臨在の中に入ったと言えばいいでしょう。

イエス様は、

私に仕える僕の形で、私のそばにいつもいらっしゃるということを知ったことは、私にとって驚きでもあり、大きな喜びでした。
 僕とは、主人がどんな状況であっても、主人が僕のことを気にしているときでも、無視しているときでも、変わらずに仕えているものです。ですから、イエス様も、私がイエス様に心を向けているときでも、反対にイエス様のことを思っていないときでも、変わらずに、私と共にいてくださるのです。

このことを体験
することは、大変重要なことであります。
さらに、御言葉から見ていきますと、コロサイ2章3節に、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」とあります。私たちにとって、キリストがすべてです。いくら聖書を勉強しても、神学を学んだとしても、そのようなことが、イエス様から離れて行われては、まったく意味がありません。もともと、イエス様のうちに、すべての知恵と知識があるのです。


続く4節には、

「私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです」とあります。 私たちクリスチャンのまわりには、「まことしやかな議論」があふれています。それらは、今の日本のキリスト教会を、活性化するのではないかと思われるものも多くあります。しかし、イエス・キリストから離れては、いかなる議論も意味をなさないものです。今のキリスト教会を何とかしよう、という熱意のある人は、ついつい、そのような議論に陥りやすい傾向にあるようです。実際、陥ってしまい、正しい道から外れた人もいます。そのようなひとは、熱意はあっても、生きて働かれるイエス・キリストから離れてしまっていたために、わなに陥ってしまったのです。

さて、

以上は、すでにクリスチャンとなっている人に向けたメッセージでしたが、まだ、イエス様を信じられない、よくわからない、という人は、「救い」とは、信仰によるものであることを知っていただきたいと思います。

私も、

僧侶になって、何とかして真理を見つけたいと努力をしてきました。比叡山において、厳しい修行もしました。たとえば、三千仏礼拝(らいはい)というものがありました。午前五百回、午後五百回、三日で三千回、仏を礼拝するのです。その一回の礼拝とは、五体投地(ごたいとうち)といいまして、はじめにひざ、次ぎにひじ、そして最後に額というように、体を仏の前に投げ出して礼拝するのです。それを、三日で三千回するのですから、とても苦しいものでした。

ところが、

そのような厳しい修行も、真理を知るうえでは、まったく何の役にも立ちませんでした。同じくコロサイ人への手紙の2章23節には、「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」とあるように、苦行などの努力をもってしても、救いには至らないのです。

しかし、

私は、聖書を勉強するために、教会に通い始めてたった三ヶ月で、イエス様を信じ救われました。それほど聖書に対する知識を得たわけではないのですが、ただ信じたために救われたのです。そのように、まだ、救いの体験のない方は、信じることによって救われるのだ、努力ではないということをわかっていただきたいと思います。

そして、

救いとは、ただ聖書を読むのが好きだ、教会に通うのがいい、という程度のものではなく、明らかな体験です。「私はイエス様を信じる前はこうでしたが、信じてこのように変えられました」、という明らかな証しがなければなりません。それには、さまざまな個人差があることは当然ですが、「イエス様を信じることによって、このように変えられた」という経験は、絶対に必要です。いくら教会に長く通っていたとしても、洗礼を受けたとしても、自分にこのような経験があるか、よく確認する必要があります。ない人は、イエス様との本当の出会いを求めていただきたいと思います。

さて、

結論として、ガラテヤ2章20節を見たいと思います。大変有名な御言葉ですが、イエス様は、私たちの中におられ、私が生きているのは、イエス様を信じる信仰によるとあります。

救われる前

の古い自分は、実は、すでに十字架につけられて死んでいるのです。私たちは、救われた後、もっとイエス様に似るものと変えられたい、いわゆるきよめられたいと思います。しかし、古い自分は、変わることはありません。古い自分がきよめられることはありません。きよめとは、自分をイエス様に明け渡すことなのです。どれほど自分を主に明け渡しているかによって、どれほどきよめられているかが決まります。

私たちと、

いつも共におられるイエス様に、すべてを明け渡してまいりましょう。イエス様と出会い、共に歩むと言うことは、自分をイエス様にゆだねて歩むことなのです。そうすることにより、その人からキリストの香りがただよい、主のみわざがこの世に現されていくのです。

 

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