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礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2001-08-12『キリスト者の祈り』(黙示録8章1−4節)
1章1節に書かれているように、「キリストの黙示」が書かれている本です。この世がどのようにこれから進んで行き、どうようになるのかを預言する言葉がたくさん書かれていますが、その一つ一つの出来事に恐れを感じたり、戸惑いを感じる人が多いのですが、そのような出来事が起きる時に、主イエス・キリストがどのような方であるのかに目を留めることが大切だと思います。
ヨハネがいろいろな幻を見てそれを書いているのですが、いろいろなパターンがあることが分かります。例えば、黙示録の中で、何かが開かれるという幻が繰り返し現れています。まず4章の1節でヨハネは幻の中で天に一つの門が開かれているのを見ました。そしてその天には一つの御座があって、その御座に座っている神様を見ました。これはどういうことを意味するのでしょうか。天の支配者が座る御座が空っぽではなく、そこに神様が座っておられるということは、この世界を天から支配しておられるのが神様であること、いかに地上の人間がいろいろなことを計画したり行動したとしても、本当の支配者は天の神であるということです。
小羊の姿をした御子イエス・キリストが巻物につけられていた最後の封印、つまり7番目の封印を開く姿が描かれています。第7の封印が開かれた時、ヨハネが見たのは祭壇でした。8章の3節に、「また、もうひとりの御使いが出てきて、金の香炉を持って祭壇のところに立った。」と書かれています。黙示録に記されているヨハネが見た幻の中に、祭壇が繰り返して現れています。祭壇は以前、エルサレムにあった神殿の中に置かれていたものですが、二つの種類がありました。一つは動物を捧げるための祭壇であり、それは神殿の外に置かれていました。もう一つの祭壇は神殿の香をたくための祭壇で神殿の中に置かれていました。旧約聖書の時代には人々は自分の罪を赦してもらうために動物のいけにえを捧げていました。しかし、神である主イエスキリストが十字架のうえでご自身を完全ないけにえとしてささげられたので、今、私たちは罪が赦されるために動物を捧げる必要はありません。ですから、天国に動物をささげる祭壇は必要ありませんから、8章の最初の所に現れる祭壇は香をたくための祭壇だと考えられます。神殿では香をたくのは、一日の最初のいけにえを捧げる時と、最後の犠牲を捧げたときでした。これはイスラエルの人々が捧げる動物のいけにえが良い香りに包まれてかみさまのところへ届くことを願って行われていたと思われます。そして、この祭壇は神殿の最も奥にあった至聖所、神様がおられると考えられていた最も聖なる場所に一番近いところに置かれていました。(出30:6)そして祭壇に立った天使は手に金の香炉を持っていました。旧約聖書の時代、神殿で働く祭司たちは一日に二回、神殿の外に置かれた動物を捧げるための祭壇から燃える炭を取って、神殿の中に置かれていた香をたくための祭壇に移していました。そして、そこで祭司は香をたくのです。すると非常に良い香りが上へ昇っていきました。
「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った」と書かれています。祭壇から香の煙が聖徒とたちの祈りとともに神に向かってささげられています。つまり、クリスチャンの祈りは、祭壇のうえでささげられた動物と同じであって、神様が喜ぶ良い香りに包まれて神様のところへと上って行くのです。すばらしい香りに包まれたクリスチャンの祈りを神様は特別に喜んでおられます。私たちは、自分の持ち物で何も捧げるものがなくても何も恐れること、がっかりする必要はありません。何もささげるものがなくても私たちは神様にお祈りを捧げることができるのです。私たちはどんなときも、謙遜な心、感謝の心、信じる心で祈ることが大切です。それが私たちのささげものなのですから。そして、その祈りを神様のところへ届ける働きをする御使いがいることも感謝なことです。本当ならば、私たちは神様に向かって直接祈るような資格はありません。ですから、私たちは祈る時に、最後に「主イエス・キリストの御名によって」と言うのです。普通、身分の低い人が身分の高い人に直接話し掛けることは許されていません。私たち、罪に汚れた人間は、聖なる神に話し掛ける資格がないのです。しかし、主イエス・キリストがその罪を許すために十字架にかかられたので、私たちは主イエスの十字架のおかげで神様に祈ることができるようになりました。クリスチャンにとって最も素晴らしい特権は、いつでもどこでも、神様に直接祈ることができるということです。ただ、クリスチャンが注意しなければならないのは、その特権がだんだん当たり前のように感じてしまうことです。私たちは「主イエスの御名によって」と祈るたびに、主イエスの十字架がなかったら、この祈りはできないことをしっかり覚えておかなければなりません。
同時に感謝すべきことは、私たちクリスチャンの祈りは必ず神様のもとに届くことです。私たちの祈りを届けるために働く天使さえいるというのです。黙示録でクリスチャンの祈りが書かれている個所がもう一つあります。それは6章9〜11節です。そこでは、信仰を持ったためにいのちを落とした人々が叫ぶような祈りをしています。「なぜ、いつまでさばきを行わないのですか?!」と祈っています。彼らの祈りは神の敵であるサタンが滅びること願う祈りであり、罪が滅ぼされるための祈りです。世の終わりの時代、人々は神をますます無視して生きています。神を冒涜するものがこの世界にはあふれています。彼らの多くは神なんかいないと言って、神に逆らっているのです。正しい人々は、悪い人間がさばきを受けずに優雅に生きているのを見て、悩み苦しみました。今の時代にも、悪い人間が他の人々を苦しめて自分だけ快適な生き方をしている人々がいると思います。そんな状況を見ると、神様は本当におられるのだろうか、祈っても何か意味があるのだろうか、と考えてしまいます。しかし、期待している答えがすぐに与えられないとしても、神様はすべての祈りを聞いてくださるのです。そして、神様の時が来ると、必ず、公正な裁きという行動を起こすのです。詩篇3篇を書いたダビデ王も同じ悩みを持っていました。ダビデは優れた王様でしたが、弱点もありました。そのために、自分の息子アブサロムから命を狙われたり様々な悲しみ、苦しみ、困難を経験していたのです。彼の周りには敵が大勢いました。しかし、そのような時でも、ダビデは祈りの中で言いました。「あなたは私のかしらを高く上げて下さる方です。」そして4節では「声をあげて主に呼ばわると、聖なる山から私に答えてくださる。」とダビデは言っています。自分の祈りが主 に届いていると確信したダビデは、敵に囲まれるような状況のなかでも、暗い夜に安らかに眠りにつくことができました。パウロはローマ人への手紙の中で「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す。練られた品性が希望を生み出す。そしてその希望は失望に終ることはない」と述べています。ここにあるように、私たちは、辛い経験を通り過ぎて初めて練られた品性を持つ人となり、失望することのない希望をもって生きることができるのです。ですから、私たちの人生にとって「試み」「試練」は決して避けるべきものではありません。むしろ、そのような苦しい時に、神様を信頼し、希望をもって生きる時に、私たちは知ることができるのです。どんなときにも、主は私たちの頭を高くあげてくださる方です。
喜んでくださる、最も尊いささげものは「祈り」であることが分かります。ダビデのように敵に囲まれているような時も、ダビデは祈り続けました。その時、うなだれたダビデの頭を主が高く持ち上げてくださいました。そして、この経験を通った時に、ダビデはますます深く神様がおられることと、神様が自分を守ってくださることを確信したのです。主はあなたの人生にも働いておられます。今から100年前に中国で宣教師として働いていたハドソン・テーラーと言う人のもとに報告が届きました。「義和団という宗教団体によって恐ろしい暴動が起こりました。宣教師の働き場が破壊されたくさんの宣教師が殺されました。しかし、そのときもハドソン・テーラーはいつものように自分の机に座って自分が大好きな賛美歌を歌っていたそうです。そして聖書の言葉の約束を信じました。「もし、神が私たちの味方であるなら、誰がわたしたちの敵となることができるだろうか。」という言葉を信仰を持って受け取りました。神を信頼して生きる時、私たちは周囲の状況に左右されない生き方ができるようになるのです。私たちは、全能の神に祈る特権が与えられているのですから、ダビデのようにいつも祈り続けて行きましょう。
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