礼拝めっせーじ
礼拝説教08/19|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-08-19『時は延ばされない』(黙示録10章1-7節)

(イントロ)
歴史を通じて

人々を悩ませてきた問題の一つが「なぜ神様はこの世界に悪が存在することをお許しになるのか」という問題であったと思います。悪いことをしている人間が快適な暮らしをし、人々が犯す罪が裁かれずに堂々と行われているように思えます。そんな時、私たちは神様に問い掛けたくなります。「神様、なぜ、あなたはこの世界に、こんなひどいことが起きるのをお許しになるのですか?」「なぜ、あなたは正しい人間が苦しむのをお許しになるのですか?」旧約聖書の詩篇の中にもこのような叫びの祈りが何度も出てきますし、旧約時代の預言者も同じような叫び声を上げています。エレミヤという預言者は神様に向かって質問しています。「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」この世界に、様々な痛みや苦しみ、悲しみ、悪が広がる時、私たちは、神様に向かって「この世界に来てください。正しい裁きを行ってください。」と叫びたくなります。それに対して、聖書は繰り返して約束をしています。神様が沈黙を破るときが来ること、人間とこの世界に関する神様の計画が完成するときが来て、その時、主イエスが再び地上にこられて、この地を支配されると預言されています。

7つの封印

で閉じられた巻物の7番目の封印が開かれた時に、一瞬の静けさが訪れました。その時、7人の御使いたちに7つのラッパが手渡されたのですが、次々に恐ろしい出来事が地上を襲いました。そして6番目のラッパが鳴って大きな災いが起こった後、7番目のラッパが吹き鳴らされる前にふたたび、少しの時間が与えられます。その場面が黙示録10章から11章14節までに描かれているのです。特に10章には、最後の審判が始まる前の不思議なできごとが描かれています。今日も、ヨハネが見た幻から、今の私たちにも語られているメッセージを受け取って行きたいと思います。

(1)不思議な御使い

6番目のラッパが吹き鳴らされて、大きな裁きが起きた後、ヨハネはひとりの強い御使いが来るのを見ました。これはラッパを吹く7人の御使いとは様子が違っています。わざわざ強いと言われているのですから、その力は本当に偉大な力であったはずです。その御使いの様子が1節に書かれています。「もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」雲は、旧約聖書では、神様がおられることを表すものでした。昔、イスラエルの王、ソロモンがエルサレムに神殿を建てて、その完成を祝った時に、神殿は雲で満ちました。主の栄光が神殿に満ちたと書かれています。ですから、この強い御使いは神様ご自身の力と権威と栄光を持っていたことを表しています。また、主イエスが再びこの地に来られる時は雲に乗って来ると聖書は語っています。ですから、雲は神様が裁きをもたらすと言うことをも意味していると思われます。一方、御使いの頭の上には虹がありました。聖書で初めて虹が現れたのはノアの洪水が起きたときです。神様はノアにもう二度と人間を洪水で滅ぼすことはしないと約束して、その約束の印として虹が現れました。ですから、虹は裁きの中でも、神様が人間と結んだ約束を忘れずに、人間に恵みを与えてくださることを表しています。神様は、人間を祝福するという約束をアブラハムに与えました。そしてその約束を永遠に守られるのです。神様はいったん約束したことを変えるような方ではありません。 そして、御使いの顔は太陽のようであり、足は火の柱のように見えました。太陽のように輝く御使いの顔は神様の栄光を表すものであり、火の柱は神様の清さを表すものです。

さて、この御使いは
不思議な姿勢を取っています。御使いの右足は海の上に置かれ、左足は地の上に置かれていました。この御使いはあまりにも大きく、あまりにも力強いため、一つの足を海に、もう一つの足を地上においていたのです。黙示録を読んだ人々は、すぐに、一つの大きな像を思い出したかも知れません。実は、トルコの近くにロードス島という島があって、そこには太陽の神アポロの巨大な像が立っていたのです。その高さは35メートルもあり、アポロの像の片足が海の中に立ち、もう一方の足が地上に立っていました。当時世界最大の像で、世界七不思議のひとつに数えられていました。その大きさは、アポロ像の足の間を船が通ることができるほどでした。ただこの像はBC227年の地震で崩れました。御使いが海と地上にまたがって立っているということは、この御使いの語ること、行うことが、この世界のすべての部分にまで及ぶと言うことを意味していると思われます。まもなく7番目のラッパが吹き鳴らされます。その時、その裁きは全世界に広がり、神様のご計画が成就するのです。今、悪者が栄えているように見えても、それは一時的なことにすぎません。神様が働かれる時に、すべての悪は裁かれるのです。

私たちの人生で、

ものごとがうまく行かない時があります。悪いことばかりが起きるように思える時があります。でも、そんな時、思い出してください。この強い御使いは私たちのために働く御使いであるということを覚えてください。御使いはあなたのためにも働いているのです。マタイの福音書の18章10節を読みましょう。主イエスの弟子たちの間で天国で一番偉いのは誰かという論争が起きていたのですが、イエス様が、それは幼子のような人であると教えられた場面です。10節でイエス様は次のように言われました。「まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」イエス様は、何の力もない幼子の一人一人に御使いがついていると言っておられます。その御使いはいつも天の父なる神を見上げているのですが、それは父なる神様の恵みが自分が守っている幼子のうえにあるようにと見上げているのです。神を信じる私たちにも、あのヨハネが幻で見た強い天使の力が届いています。ですから、人生で何か問題にぶつかった時も、問題ばかり見ていてはいけません。あなたにも強い御使いが働いていることを思い出してください。ヘブル人への手紙1章14節にも「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」と書かれています。

(2)不思議な命令

この強い御使いが叫びました。するとライオンの叫び声のような声でした。その時不思議なことが起こりました。4節を見ると「七つの雷がおのおの声を出した。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。」と書かれています。七つの雷が大きな音を立てただけではなく、ヨハネが聞いて分かるメッセージを伝えたのです。そのメッセージをヨハネは書きとめようとしました。すると天からそのメッセージは書いてはいけないと命令する声が聞こえました。なぜ、雷が語ったメッセージを書いてはいけないのか、その理由は分かりません。雷が何と言ったのかいろいろ想像することはできますが、真実はわかりません。神様がそれを知らせるなと言っておられるのですから。神様は何かを隠しておられるのではなく、今は、私たちには雷の声の意味が理解できないし、また今私たちがその声を理解する必要がないのです。神様は必要な時にすべてのことを教えて下さるのです。イエス様も弟子たちと最後の食事をした時に同じようなことを言われました。これから起きることを弟子たちに話しておられたのですが、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われました。

私たちが信仰生活
を続けて行く時に、時々、神様が何も答えてくださらないように思える時があります。私たちは、これから何が起きるのかすべてを知りたいと思うことが多いですが、神様は、今、この瞬間に必要なことだけを教えてくださるのです。祈っていることに神様の答えがすぐに来ないと、イライラします。しかし、私たちは学ばなければなりません。神様のタイミングは完璧であるということです。神様は正しい時を逃すことは決してありません。私たちは世の終わりがいつ始まるのかということを知りたいのですが、神様が完璧な時になすべきことをしてくださいます。私たちは主が語っておられないことをあれこれ考えたりするべきではなく、むしろ、今から常に神様を信頼し神様とともに生きる生活を続けて行けばよいのです。

(3)不思議な宣言

続いて、強い御使いが語っています。5―6節『「御使いは、右手を天に上げて、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。」』そして7節では「神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」と宣言しています。「時が延ばされることはない。」これは7番目のラッパが吹き鳴らされる時に、神様が世の終わりの時ともたらすという宣言です。7節で神の奥義と言われていますが、奥義、英語ではミステリーと訳されていますが、新約聖書でパウロと言う人はこの奥義を二つの意味で使っています。一つは福音によって神様は罪からの救いをユダヤ人だけでなく外国人にも与えたというミステリーです。私たちにとって、これは当たり前のことですが、神様に選ばれた特別の民族と言う意識が強いユダヤ人にとってこの事実はミステリーでした。もう一つの奥義は、黙示録で明らかにされた神様の計画です。このことについてパウロはエペソ人への手紙1章10節で次のように述べています。「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。」黙示録の10章にいる私たちですが、まもなく7番目のラッパが吹き鳴らされます。その時奥義が成就します。人間の歴史は、この時を目指して進んでいるのです。その奥義はキリストを中心とするもので、永遠の昔から神様の御心にかなう計画として定められているのです。すべての預言が成就する時がきます。
 「キリストにあって一つに集められる」とは、罪のために争いや憎しみや混乱に満ちてしまった世界がすべてキリストの支配を受けて新しい時代に入ることを意味しています。今は、キリストに反対する人々、反対する勢力が数多くいます。しかし、最終的にはキリストによってすべてのものが支配されるようになるのです。すべての人がキリストに従い、罪が許される時に、この時代のすべての対立、憎しみ、苦しみが解決します。神様は、歴史の最初から私たちに約束をしてくださっています。人々の罪と堕落にも関わらず、最終的にすべてをキリストにあって回復してくださり、悪を滅ぼしてくださるのです。

私たちは
礼拝の中で主の祈りを捧げています。その中に、「御国が来ますように」という祈りがあります。これは世の終わりが来て、この世の悪が裁かれて、神の計画が成就することを求める祈りです。その時に備えて、今から、神を信頼し、神の御心に従って生きることが大切なのです。

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