礼拝めっせーじ
礼拝説教09/09|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-09-09『神こそ永遠の支配者』(黙示録11章14-19節)

(イントロ)
世の中の多くの人は、

自分たちが住んでいるこの世界がいつまでも今の状態のままで続くだろうと考えています。この宇宙は「ビッグバン」と呼ばれる大爆発で誕生して、いまも広がり続けているのですが、それでも、あまりにも大きい宇宙は、小さな一人の人間の目にはいつまでも動かないままでいるように見えるのです。ある人は、「世の終わりがあるかも知れないけれど、それは何万年も先の話で、自分が生きている間に起きるはずがない。」と考えます。しかし、聖書はそうではないと警告の言葉を発しています。先日読んだヨハネの黙示録10章6―7節にはこう書かれています。「もはや時が延ばされることはない。第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」神様は必ずご自分の計画を成し遂げる方であることを忘れてはいけません。私たちが住む地球の歴史も、実は、神様の計画通りに始まり、計画通りに進んできました。そして、神様の計画どおりに終わりを迎えるのです。神様にとって、たまたま、偶然何かが起きるということはありえないことです。

そしてその神様の計画、

これから神様が何をなさるかということが一つの巻物に記されていました。ヨハネの黙示録は、その巻物が少しずつ開かれて、神様の計画が進んで行く姿を描いているのです。ところが、その時、神様が不思議なことをヨハネに命令します。「御使いが持っている巻物を受け取って、それを食べなさい。」という命令でした。「巻物を食べる」とはどういうことでしょうか。それは神様の言葉を生活の中で生きるという意味だと思われます。私たちは、神様の言葉である聖書に対していろいろな態度を取ることができます。聖書の言葉を、一般的な教えとして聞くことは簡単です。聖書の言葉を読んで、「これは良い言葉だ。」とか「これは厳しい言葉だ。」とかいろいろ自分に当てはめることをしないで、誰か他の人に語られている言葉として考えることができます。しかし、信仰というのは、そのような態度を言うのではありません。み言葉を食べるとは、聖書の言葉、神様の言葉を自分に対して、自分だけに向かって語られている言葉として受け取ることが聖書を信じる信仰と言えます。ただ「良い」とか「悪い」とか、「優しい」とか「厳しい」とか言うだけで片付けられないのです。自分がその御言葉にどう答えて行くかを自分で決めなければなりません。それが「御言葉を食べる」という意味だと思います。御言葉を食べる時に、本当に神様の言葉を聞いて、御言葉を生きていることになるのです。食べ物の本当のおいしさは食べて見なければわかりません。食べて初めて「ああうまい!」と言うことができます。神様の言葉の本当の素晴らしさは、それに生きる時にはじめて経験できるのです。「信じなさい」と命じられているならば、「信じる」ことです。「ゆだねなさい」と神様が命じておられるなら、とにかく「ゆだねる」ことです。こういうことは現実のいろいろな厳しさを知っている大人よりも幼子のほうが得意ですね。だから、イエス様は、誰でも幼子のようにならなければ天国に入ることはできないと言われたのです。

ヨハネが巻物を食べてみると、

それは口には蜜のように甘かったのですが、腹に入ると苦くなってしまいました。神様の計画には甘い面と苦い面の両面があるのです。口の中で甘いのは、神様が支配する時、つまりこの世界に神の国が実現した時に、そこには本当に素晴らしい未来が待っていることを意味していると思います。イザヤ書65章の17〜25節にも神様が支配する時代の素晴らしさが預言されています。しかし、その時代が実現する前に、この世界の人々を縛っている悪、罪が裁かれなければなりません。黙示録にもすでに恐ろしい神の裁きが書かれていましたが、これからさらに恐ろしいことが起ころうとしていたのです。ヨハネが食べるようにと命じられた巻物に書かれた言葉は私たちが信じている福音に似ているのではないでしょうか。私たちに与えられている福音、神様からの素晴らしいニュースは、私たち、神から引き離されていた罪人がイエス様の十字架の犠牲によって、神との平和を取り戻したということです。自分ではどうすることも出来ない罪、自分で償うことの出来ない罪がすべて許されて神様に愛されていることを知る時、私たちは本当に言葉では表せない喜びを感じます。しかし、一方で、その素晴らしいニュースの影に神の御子イエス・キリストが十字架につけられなければならなかったということを知らされるのです。そして、私たちは自分の罪がイエスを十字架につけたのだということを知らされて、自分の罪を悲しまなければなりません。主イエスの復活の喜びを経験するために、私たちはキリストと共に自分自身の罪を十字架につけなければならないのです。聖書の福音、救いは、信じる者なら誰でも与えられます。そこには何の差別もありません。ただ、信じる者は自分の罪を認め、自分の罪を悲しみ、それまでの生活を離れて神様との新しい生活に入らなければなりません。それは決して簡単なことではありません。犠牲を払わなければならないこともあります。しかし、そこには神様と共に永遠に生きるという祝福された約束があるのです。親分はイエス様のモデルである中島哲夫先生が仰っていました。中島先生がヤクザから牧師になった人として有名になってから、大勢のやくざの人たちが中島先生の所に相談に来るそうです。皆、やくざ生活から足を洗って新しい生き方をしたいと願っているのですが、本当に中島先生のように人生がまったく変わる人は本当に少ないそうです。クリスチャンの信仰には素晴らしい約束、将来がありますが、その一方で、古い自分、これまでの生活を悔い改めなければならないのです。

さて、使徒ヨハネは
さらに神様からの命令を受けます。10章11節に書かれています。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」すでにヨハネはここまで神様の恐ろしいさばきがあることを預言してきました。しかし、神様はヨハネにさらに幻を与えようとしておられます。そして、それはこれまで以上に恐ろしい神の裁きが明らかにされると同時に、さらに栄光に輝く神様の姿が明らかにされて行くのです。ヨハネの黙示録は11章でひとつのクライマックスを迎え、前半を終えます。彼は、今、パトモス島という地中海に浮かぶ小さな島に閉じ込められています。しかし、彼の氏名はすべての国々の人々の神様の警告の言葉を語ることでした。彼は黙示録を書くことによって、自分に与えられた使命を果たしています。ここからさらに書き加えられて行くことは、今は神の裁きがまだ起きていないが、将来、必ず、神を信じようとしない人々に対して恐ろしい裁きがくだされるという警告を発して行きます。同時に神を信じる人々には、神様の守りと栄光が約束されるのです。私たち教会も、ヨハネと同じように、この世界に向かって警告の言葉を語るという使命を受けているのではないでしょうか。

神様の巻物につけられた

7つの封印が開かれるにつれて神の裁きが始まりました。七つ目の封印が開かれると七人の御使いに七つのラッパが与えられ、そのラッパが吹き鳴らされると、激しい裁きが地上に下りました。11章ではすでに6つのラッパが鳴り終わっていますが、最後の3つのラッパのさばきがあまりにも恐ろしいものだったので、4番目のラッパがもたらしたさばきは「わざわい」と呼ばれました。6番目のラッパが吹き鳴らされる前に、黙示録9章12節は「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つの災いが来る。」と書いています。そして、ついに最後のラッパ、7番目のラッパが吹き鳴らされる時に、11章の14節が「第二の災いは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」と書いているのです。いつも言っていますように、聖書では3という数字は完全数であり、物事の完成を意味することが多いのです。つまり、いよいよ、現在の世界の悪に対する神様の裁きが完了することを表しています。私たちは、毎週、礼拝の中で主の祈りを祈ります。その祈りの中に「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」という祈りがあります。7番目のラッパが鳴り渡るとき、それは、実は、この祈りに対する神様の答えなのです。黙示録の後半12章から22章の中に、神様がどのようにして、サタンに支配されているこの世界を滅ぼし新しい世界を作り上げるかと言うことが書かれています。実際の裁きについては15章から書かれているのですが、7番目のラッパが吹き鳴らされるとすぐに天において大きな声が響き渡りました。その声は「この世の国は私たちの王、およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」というものでした。主イエスが2000年前にこの世に来られたとき、最初に言われた言葉は「神の国は近づいた」というものでした。神の国が地上に始まったということです。救い主イエスが十字架にかかられるということを通して、罪とその裁きの中に閉じ込められて神から引き離されていた人間に、罪を許され神の子供として生きる道が開かれました。これが神の国が近づいたということです。しかし、神の国が完成するのはまだでした。それが完成するときが来ることを意味しています。この世の国という言葉は単数形です。世界中に人間が創ったいろいろな国や組織があります。政治も文化も言葉も皆違っています。しかし、それらはすべて罪に支配された国であることで同じなのです。それらが滅ぼされて、神が支配する国に変わる時が将来必ずやって来ます。

そして
24人の

長老たちが神を礼拝しています。長老たちとは教会を指していると考えられます。教会全体に感激が沸き起こって神を礼拝しているのです。長老たちの賛美の言葉は神の3つの性質を述べています。まず、私たちの神様は万物の支配者です。私たちが信じている神は全能の神、この世においてすべての権威を持っている方、力強い神です。第二に、私たちが信じる神は「常にいまし、昔います神」と呼ばれています。つまり永遠に存在する神様です。神様には始まりも終わりもありません。第三に、私たちの神は偉大な力を働かせて王となられた方です。私たちが信じる神こそ、絶対的な力と権威をもってこの世界を支配する方なのです。神の支配が始まると、悪の勢力が最後の攻撃を行います。しかし、これらの力は最終的に打ち破られ最後の審判がなされることが預言されています。ローマ人への手紙でパウロが述べているように、このような神様に対して敵対できる人間は誰もいません。神が私たちの味方であるなら、だれば私たちに敵対できるのでしょうか。

最後に
神様は
ヨハネに素晴らしい幻を見せてくださいました。ヨハネの前で神の神殿が開かれました。そして神殿の中に契約の箱があるのが見えたのです。ユダヤ教の神殿は、その中に至聖所と呼ばれる場所があり、そこはユダヤ教の最高指導者である大祭司でさえ一年に一度しか入ることができませんでした。その至聖所に契約の箱が置かれていました。旧約聖書の時代、契約の箱は神様がおられる場所と考えられていました。そして聖書では契約というのはとても大切なことでした。神様の愛は契約の愛とも呼ばれます。神様が神を信じるすべての人と契約を結んでくださるのです。神様は一度結んだ契約を絶対に破ることも忘れることもありません。神様は、私たちがどれほど弱い信仰であっても失敗の多い信仰であっても、私たちと結んだ約束を守られるのです。この世の終わりには恐ろしい神の裁きが起こります。世界中に神の裁きが行われてこの世の悪が滅ぼされます。しかし、神を信じない人々に対してどのように恐ろしい出来事が起こっていても、神様は私たちを至聖所、つまり神様がおられる所へ導いてくださいます。そして私たちを守ってくださるのです。ですから、この世の終わりの出来事は、神に敵対する人々にとってどれほど恐ろしいことであっても、神を信じる人々にとって、つまり、神様との契約を持っている人々にとってはつねに希望であり励ましの約束があるのです。

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