礼拝めっせーじ
礼拝説教09/23|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-09-23『神に選ばれた人々』(黙示録14章1-8節)

(イントロ)
9月20日に

アメリカのブッシュ大統領が議会でスピーチを行いましたが、その冒頭で一人の勇気ある犠牲者の名前をあげていました。その人の名前はトッド・ビーマーと言って、ペンシルバニアに墜落した飛行機の乗客でした。ハイジャックされた飛行機の中で、乗客と乗務員は飛行機の中の前と後ろの2つのグループに分けられて、彼は後ろに行かされました。アメリカの飛行機は座席の背中に電話が設置されていて、クレジットカードで機内から電話がかけられるようになっています。彼はその電話を使って奥さんに電話をかけようとしたのですが、その電話が彼のクレジットカードを受け付けなかったので、電話会社のオペレーターがその電話に出ました。この二人は見知らぬ者同士でしたが、13分間話しをして情報を交換しました。ビーマさんはオペレーターからニューヨークとワシントンで起きたテロ事件のことを聞き、自分が乗っている飛行機もテロに使われるだろうと思いました。それで、彼は他の乗客に情報を伝えて、テロリストたちを襲うことを決心しますが、その前に彼はオペレーターに電話でいっしょに祈ってほしいと頼みました。そして二人で祈りを捧げ、二人で詩篇の23篇の言葉を暗誦しました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」そしてこのオペレーターが電話から聞いた最後の声はビーマーさんの「かかれ(Letユs roll!)」という言葉だったそうです。テロリストたちは、自分たちのいのちを犠牲にしましたが、その結果は数多くの罪のない市民たちのいのちが奪われたことでした。一方、ビーマーさんは、他の人々のいのちを救うために自分のいのちを犠牲にしたのでした。彼こそが、イエス・キリストの生き方に従った人だったと思います。

黙示録13章には

2つの獣のことが書かれています。これらの獣は神に逆らい、サタンとともに働く獣で、神を信じる人々に対して憎しみをぶつけて、彼らをののしったり迫害したりします。ヨハネの時代のクリスチャンはローマ帝国から激しい迫害を受けていましたから、黙示録を読んだ人々は、この獣をローマ皇帝だと思ったことでしょう。クリスチャンにとって信仰に生きることが難しい時代がまた来ることが預言されています。しかし、13章の5節を見ると獣が活動することが赦されているのは42ヶ月間、つまり3年半の間だけなのです。獣の活動は制限されています。もしも、私たちが今、この地上で苦しみを受けているとしても、希望を失ってはいけません。その苦しみはいつまでも続くことではないからです。神を信じない人々は、この世の流れ、考え方、つまりサタンの考え方に支配されてしまいます。そのため、彼らは右の手か額に刻印を押されてしまうのです。昔、家で働いていた奴隷たちは主人の刻印を押されることがありました。それは、奴隷が逃げ出したり、大きな過ちを犯した時に、主人が奴隷の体に焼き印をつけたのです。それは、その奴隷が主人の所有物であることをはっきりさせるためでした。神を信じない者には、サタンの所有物である印がつけられるのです。18節には、その獣の数字が666であると書かれています。そのためこれまでに、この666が誰を表わすのかということでいろいろな想像がされてきました。一番可能性が高いと思われているのが、ローマ帝国のネロ皇帝です。というのはネロ皇帝という言葉をヘブル語の文字を使って書くことができます。ヘブル語の文字はローマの文字と同じですべての文字が数字を表わしています。そして、ネロ皇帝のヘブル文字を合計すると、その数が666になるそうです。それから、私が何かの本で読んだのですが、今、お店で売っているものにはすべてにバーコードがついています。細かいことは忘れましたが、あのコードには数字と共に黒い線が細いのや太いのが並んでいるのですが、そこに666の数字が隠れているそうです。13章の17節には「その名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」と書かれていますが、今は、バーコードがないと物を買うことも売ることもできないようになっています。

さて、

今日読みました14章では、ヨハネの幻がまた変わっています。それは勝利者としてシオンの山の上に立つ小羊、つまり復活の主イエス。キリストと、その側にいる144000人の人たちの姿を見ました。シオンの山というのはエルサレム、神の都を表わしていると思われますが、恐らく、この地上に再びこられる主イエス・キリストがエルサレムから地上の世界を支配されることを意味しているのだと思います。144000人については、前にもお話ししましたが、この数は正確な数というよりも、シンボル的な数です。12X12X1000でできる数ですが、聖書では12は完全数、1000は数が多いことを表わしています。ですから、それを掛け合わせているので、144000人とは「すべての人」という意味です。この人々は額に神様の名前がつけられていました。この印は、先ほども述べましたように、家畜の体に持ち主の名前がつけられていたように、印は持ち主を意味するものでした。主イエス・キリストを信じる人々は神様の家族に加えられた人々なのです。また、主イエスの時代には、このような印が安全を意味する場合がありました。昔、ナイル川の河口にヘラクレスという神の神殿がありました。この神殿は、避難場所としても使われていました。犯罪者でも、奴隷でも、この神殿の中に入った人々は、神の所に逃げたことを表わす印を体につけられました。そして、そのしるしを体につけている人には誰も手を触れることができませんでした。このように、このしるしは完全な安全のしるしだったのです。ここで小羊の姿をした主イエス・キリストとともにいる人々は、イエス・キリストの力によって永遠まで安全に守られる人々なのです。

しかし、
額に御子キリストと父なる神の名前の印がつけられているということにはもう一つの意味があると思います。パウロは自分のことについて「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです」(ガラテヤ6:17)と言いました。実際にパウロの体にはいろいろな傷がありました。彼は信仰を持っていたために、福音を伝えたために何度もムチを打たれました。それ以外にも彼はその生涯で様々な苦しみを味わっていたので体はボロボロでしたが、彼はそのことをむしろ誇りに思っていました。彼は、キリストを信じてキリストのために生きたことで、もともと持っていたものを皆、失いました。ですから、私たちの額につけられている神様の名前は、神様の守りを意味するものであると同時に、私たちの決意を表わすものでなければなりません。イエス様は、ある時、人々に向って言われました。「だれでも私についてきたいと思うなら、日々自分の十字架を背負ってついてきなさい。」私たちはどんなに小さくてもいいのですが、キリストのために傷を負ってついていくことが必要ではないでしょうか。私たちは、信仰によっていろいろな恵みを受けたことを知っています。しかし同時に、私たちはキリストのために何かを失う覚悟も必要だと思います。
この144000人の人々は

新しい歌を歌いました。そして、その歌は、「地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった」、そんな歌でした。この歌は、神様を賛美する歌です。賛美を意味するヘブル語の一つは「ハーラル」という言葉です。この言葉の元々の意味は「自慢する、ほめたたえる」という意味です。私たちは礼拝の中で賛美をしますが、賛美の基本は神様の素晴らしさを告白することなのです。これは「贖われた人」だけが学ぶことのできる歌だと書かれています。つまり、イエス・キリストの十字架の贖いを知った人だけという意味です。私たちが神様に賛美の歌を歌うのはなぜでしょうか。それは、私のような罪に汚れた者のために十字架でいのちを捨ててくださった主イエス・キリストの愛の素晴らしさを知ったからです。私のためにそんな大きな犠牲を払ってくださった神様の素晴らしさを自慢し、褒め称えるのが賛美なのです。聖書は言います。「人がその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はない。」神である御子イエス・キリストは私たちを友と見なしてくださって、私のためにわざわざ自分のいのちを犠牲にしたのです。私たちの心は、他人を犠牲にしても自分だけは生きたいと思います。

タイタニック号

が沈んだ時、2227人の乗客のうち助かったのは705人だけでした。しかし、本当はもっと多くの人が助かったかも知れないのです。救命ボート1号にはゴードンという名前の貴族が夫婦で乗っていました。また、船会社の乗組員も乗っていましたが、彼の証言では、そのボートにはまだ10人以上乗れるスペースがありました。彼はボートから150メートルほど離れた海から助けを求める人の苦しい叫び声が聞こえたのでボートをそちらに近づけようとすると、ゴードン夫人が反対しました。そして主人も反対したため、彼は船を動かすことができなかったそうです。そして、やがて助けを求める声は消えて行きました。このように、私たちは他人を犠牲にしても自分のいのちを守ろうとするのです。しかし、主イエス・キリストは、私たちが永遠のいのちを持つことができるようにするため、自分のいのちを犠牲にされました。私たちは、タイタニックが沈んだ時に海に投げ出された乗客に似ています。そのままではおぼれて死ぬ運命です。しかし、あのゴードン夫妻とは違って、主イエス・キリストは私たちをその所から救い出してくださった、その愛に感動して私たちは賛美を歌うのです。

この144000人

は主イエス・キリストの十字架によって、罪の赦しを受け、神のこどもとされた人々、つまりクリスチャンです。そのクリスチャンとは、どういう者であるか、14章の4節を見ると「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。」と書かれています。つまり、クリスチャンに求められている生き方は、まず、清く生きることです。それはこの世界の流れ、この世の考え方、価値観に従って生きるのではなく、神の言葉に従って生きることを意味しています。この世の人々は、権力を持つことを求めます。富を持つことを求めます。そして不道徳な生活をしている人が多いです。わたしたちは、この世の中で暮らしていますが、この世の考え方に流されないで、誘惑に負けないで、聖書の教えに従って生きる決意をしなければなりません。それが、わたしたちの額に神の名前が記されていることの意味なのです。そして、キリストにいつもついて行く者と書かれています。これから、まずますクリスチャンにとっては難しい時代になります。信仰を持っているために人々から憎まれたり迫害を受けたりするかも知れません。しかし、私たちは、何があっても、主イエスへの信仰を失わずに生き続けることが必要なのです。それは、永遠のいのちに至る道はイエス・キリストを信じる信仰以外にないからです。今が少し苦しくても、この信仰の道を進めば必ず永遠のいのちに至るのです。今、私たちに必要なのは忍耐です。

そして今、

私たちに命じられていることは何でしょうか。それは14章7節に書かれています。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」聖書は繰り返して神を恐れよと命じています。旧約聖書の箴言には神から知恵を与えられた人たちの言葉が集められていますが、その中に「主を恐れることは知識の初めである」という言葉があります。聖書は、私たちが信じようと信じまいと、この世界をつくり、いつも、そしてどこにでも神がおられると教えています。つまり、世界の経済の中にも、私たちが関係している人間関係の中にも神様がおられるので、その神を信じて従うことが本当に賢い生き方の第一歩であるとこの言葉は教えています。しかし、私たちはなかなかそのように考えることができません。現実の問題に直面すると、現実の力、自分の力で解決しなければと考えます。しかし、主イエスが5000人の人々に食べ物を与えた奇跡を考えてみましょう。大勢の人々がイエスの説教を熱心に聞いていたので、いつのまにか夕食の時間になっていました。その時、弟子たちの考えは、みんなを解散させて、近くの村に食べ物を買いに行かせることでした。これがこの世の考え方です。しかし、それに対して、主は弟子たちに「あなたがたの手で食べ物を与えなさい。」と厳しい言葉を言われました。しかし、彼らが自分の力で何も出来ない時に主イエスの奇跡が起こって、問題の解決が与えられたのです。わたしたちは、この世の考え方で行動するように誘惑を受けています。しかし、聖書はただ主を信頼して、主を恐れなさいと命じています。 

また、

ある時にイエス様は言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなど恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」他の人間が滅ぼせるのは私たちの体だけです。わたしたちのたましいを滅ぼすことはできません。それよりも、わたしたちのからだだけでなく、たましいをも滅ぼすことのできる神を恐れるべきです。なぜなら、もう裁きの日がせまっているからです。どんな時も、何が起こっても、神を恐れ、神を信じ、神の言葉に従って生きて行きましょう。

 

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