礼拝めっせーじ
礼拝説教09/30|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-09-30『罪と死に対する勝利』(气Rリント15章51-58節)

(イントロ)
私たちに

とって一番大きな敵は何かと尋ねられれば、すべての人が、「死ぬこと」だと答えるでしょう。聖書も言っていますが、「人は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」のです。人生の一番大きな敵である死に対して、真剣に準備する人は少ないのではないでしょうか。将来、死ぬことは100%確実なことなのですが、私たちは、毎日の生活の中で死について考えようとしません。考えたくないからです。それはいくら死を考えても喜びが沸き上がってくることがないからです。解決、回答がない問題はむしろ放っておいたほうが良いのです。しかし、聖書は死の現実を教えるだけではなく、死に対する希望についてもはっきりと語っているのです。

坂戸キリスト教会

の村上牧師がよくお父さんがなくなられる時の話しをされます。病院に入院しておられた村上先生のお父さんも牧師でした。お父さんが自分の死期が近づいていることを悟った時に息子である村上先生と一緒に自分の葬式の段取りについて相談されました。ふたりが葬式のプログラムについて、どのような順番にするか、どのような歌を歌うかということを楽しそうに話している様子を見て、一人の看護婦さんが、「楽しそうですね。何を相談しておられるのですか。」と尋ねたそうです。村上先生が「実は父の葬式の段取りについて話し合っているんですよ。」と答えたので、その看護婦さんはびっくりしました。しかし、クリスチャンには死に対しても希望があることを知ったその看護婦さんは後でクリスチャンになったそうです。このように、聖書の神を信じる者にとって、人類最大の敵である死をも恐れる対象ではなく、むしろ希望なのです。今日は第一コリントの15章からクリスチャンの希望について共に学びたいと思います。

51節に

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」と書かれています。パウロはここで肉体の死について語っているのですが、聖書は、私たちの肉体が死を迎える時に、私たちの存在そのものが消えてしまうことはないと教えています。聖書は、肉体が生きていることと死んでいることは、存在していることと存在が消えることという意味ではなく、肉体のいのちと死は2つの異なった存在であるということです。旧約聖書の中にある伝道者の書12章7節には、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」と書かれています。肉体の死は、体から魂が離れることを意味しています。 聖書は、人間にとって「死」は自然の状態ではないと教えています。15章26節でパウロは「最後の敵である死」という表現を使っています。わたしたち人間にとっても、神様にとっても「死」は敵なのです。最初の人間アダムが住んでいたエデンの園には「いのちの木」という名前の木がありました。恐らく人は、そのいのちの木の実を食べれば死を経験することはなかったのだと思います。聖書は、わたしたちは神様の形に似せて造られていると教えています。神様は永遠にいきておられる方ですから、わたしたちも元々そのように造られていたのではないでしょうか。しかし、アダムとエバが神様の命令に逆らったために、罪を犯したために私たちは死ななければならない者となりました。神様はアダムとエバがエデンの園にあるいのちの木の実を食べないようにと二人をエデンの園から追放しました。

このように

罪の結果として私たち人間は死を体験しなければならなくなりました。56節には、死のとげは罪であり、罪の力は律法であると書かれています。一人の人アダムが犯した罪によってすべての人の人生に死が入り込みました。それは刺のように私たちを苦しめ、いのちを奪います。そして、死をもたらした罪の力は律法であるとあります。神様の命令、教え、それが律法です。私たちは今それを100%守ることはできません。ですから、すべての人は律法から脅迫されているようなものです。律法と言うのは100%守らなければ、ゼロと同じなのです。時々私たちクリスチャンは人々から批判されます。クリスチャンよりももっと立派な行いをしている人々がいるのに、その人々が天国に行けないのはおかしい。確かに、私たちは自分の生き方を反省する必要があるでしょう。立派な行いをしている人はたくさんいます。しかし、絶対的にきよい神様の目から見ると、人間で完全に律法を守っている人は一人もいないのです。例えば、子供がお父さんから「カインズホームへ行ってのこぎりを買ってきてくれ」と頼まれた時に、その子供がヨークマートまで行って帰ってきたら、その子供はぜんぜん家から出なかったのと同じことです。どんなに近くまで行っても、頼まれた場所まで行かなかったら、全然何もしなかったことと同じなのです。だから律法を完全に守ることが難しいのです。

これを書いたパウロは、

クリスチャンになる前は必死になって律法を守っていました。彼はユダヤ教徒の中でもパリサイ派と呼ばれるグループのメンバーで、一生懸命律法を守って生きていました。しかし、彼は律法によって生きようとすればするほど、律法を守り切れない自分に絶望しました。彼はローマ教会に送った手紙の中で「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるだろうか。」とその頃の自分の気持ちを書いています。神を愛し、律法を守らなければいかないと分かっている自分と同時に、この世を愛する思いがつねに自分を支配している、これが私たちの姿です。

しかし、

56節の次の57節には「しかし」という言葉が書かれています。聖書の「しかし」は素晴らしい「しかし」です。死の刺が罪であり、罪の力は律法なのですが、「しかし」、神様はそのような死と裁きという呪いを受けた私たちに勝利を与えてくださいました。 どのような方法で勝利を与えてくださったのでしょうか。せれは、私たちの主イエス・キリストによってです。主イエス・キリストは十字架にかかられましたが、十字架の上で最後に言われた言葉は「すべてが終わった。完了した。」という言葉でした。主イエスの生涯は、すべて私たちの救いということを目指した生涯でした。永遠の神である立場を捨てて、低くなって私たちと同じ姿になることを決心された主イエス、ベツレヘムの馬小屋というみすぼらしい場所で生れ、33年間地上で、住む場所も、財産も、家族ももたずに生活をされた主イエス、ただ、十字架を目指してもくもくと生きた、地上の生涯でした。罪の呪いとして、私たちはその罰を受けなければならないのですが、主イエス・キリストが、私たちの身代わりとなってその呪いを、罪の罰の苦しみを全部十字架の上で背負ってくださったのです。 十字架につけるための裁判は、まったく無茶苦茶な裁判でした。ですから、主イエスは自分を守ろうとすれば、いくらでも守ることができました。主イエスを十字架につけるまともな理由などまったくなかったからです。しかし、主イエスは十字架にかかるために人となってこの世に来てくださったので、裁判の間、自分の身を守る言葉は一言も言われませんでした。むしろ、自分に不利になりようなことを言われました。

イザヤ書53章

には、十字架にかかる主イエスの姿が、不思議なように詳しく預言されています。11節にはこう書かれています。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」主イエス・キリストは、まったくつみのや汚れのない神様ですが、私たちの身代わりとなって罪の罰の苦しみを受けられました。しかも、その激しい苦しみを見て、主イエスは満足したと書かれているのです。ですから、十字架の苦しみを全部味わった後で、「全てが終わった」といわれたのです。主イエスが十字架の業を終わった時に、罪に縛られ、罪ののろいの下に置かれた私たちにとって、救いの道が開かれたのです。主イエス・キリストの十字架は、信じるすべての人々の罪が赦されることであって、律法を終わらせる働きでした。律法の時代は終わったのです。十字架は暗く悲しい出来事です。しかし、私たちにとっては、救いが始まった素晴らしい出来事なのです。

しかも、

主は約束されたように、三日目に復活されました。主イエスの遺体が入れられた墓は空っぽでした。いまだに、主イエスの死体は見つかっていません。主イエスの十字架と復活によって、罪ののろいは消え去りました。死の毒針は完全に折られてしまいました。だから私たちは死に対して勝利を取ることができるようになりました。聖書は2種類の死があると教えています。肉体の死と、魂の死です。肉体の死は、肉体と魂が離れてしまうことであって、魂の死は、私たちが神様から離れてしまうことを意味します。最初に言いましたように、聖書の教えでは、私たちは肉体の死を経験する時に、自分の存在が消えてしまうのではないのです。15章の51節にあるように今の状態とは違う状態に変えられるのです。今の私たちは肉体と魂が一つになっていますが、肉体の死は私たちを魂だけの状態にします。しかし、私たちの意識は今と同じです。しかも、イエス様が十字架で隣の十字架にかけられていた犯罪人に約束されたように、私たちは、神様がおられる場所、パラダイスに移されるのです。

しかし、

主イエスを信じないで肉体の死を迎える者はハデスと呼ばれる場所に移されます。そこは神様がおられない場所、神様の愛と恵みが届かない場所です。そしてどちらに行った魂も、そこで、最後の時を待っているのです。その最後の時とは、主イエス・キリストがこの世界を裁き、支配するために再び来られる時です。 52節にはこう書かれています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」主が再び来られる時、すべてのことは一瞬のうちに起こります。ラッパの音が響いた時に一瞬の出来事です。私たちは最後の姿に変えられます。主が再び来られる時に、すでに死んでいる人々は主イエスが復活されたように、墓が開きます。そして以前はくさっていく体を持っていましたが、今度は永遠に朽ちることのない栄光の体を与えられてよみがえります。わたしたちの元々の体がどんなに弱い体、みすぼらしい体でも心配することはありません。私たちが最終的に天国に入る時は天国で生きるのにふさわしい体を与えられるからです。それは朽ちない栄光の体です。そして、主がふたたび来られる時に、まだ肉体の死を経験していない人々は、その瞬間栄光の体に変えられるので、肉体の死を経験することがありません。この時に、「死は勝利にのまれた」という預言の言葉が成就するのです。

私たちは

主イエス・キリストの十字架と復活によって、肉体の死を味わうとしても、魂の死を味わうことがなく、永遠に神と共に生きることができるのです。私たちはしに対する勝利をすでに約束されているのです。私たちは死によって自分の存在のすべてを消されてしまうことがありません。だからこそ、最後の58節に書かれているように、この地上の生活で何が起こっても、慌てないで、パニックにならないで、いつも主イエスを信じる信仰の生活を一歩一歩着実に歩むようにと勧められているのです。私たちがこの世で苦労したことは決して無駄にはなりません。そして、この世で経験する苦労は将来私たちに約束されている栄光に比べると本当に小さなものなのです。

ある本に

病気で死を迎えている男のことその母親の会話が書かれていました。男の子がお母さんに質問しました。「ママ、死ぬってどういうことなの?苦しいの?」すると、お母さんが答えました。「健ちゃん、もっと小さかった時のこと覚えてる?遊びが大好きで、ある時は遊び過ぎで疲れちゃって、服も脱がずにソファで眠ってしまったでしょ。あのソファは、あなたのベッドではなかったでしょ。だから、あなたがソファで眠ってたのはほんの短い時間だったの。次の日、あなたは目を覚ましてびっくりしたかしら。自分の部屋の自分のベッドに寝ていたことに。自分で移ったんじゃないのよ。あなたが風邪を引かないようにパパが心配して、あなたをベッドに運んでくれたの。パパの太い手であなたを運んで行ったのよ。健ちゃん、死ぬっていうのは、これに似ているの。私たちはね、眠って、いつか目を覚ますと、別の場所にいるの。でも、そこは自分の部屋なの。パパがあなたを運んだように、 イエス様が私たちを運んでくださるの。」
母親の言葉を聞いた男の子はすごく安心したようすでした。そして、二度と母親に死ぬことについて質問することはありませんでした。そして約一ヶ月後にその男の子はこの世を去って行ったそうです。
主イエスを信じる者は、パウロと同じように宣言することができるのです。「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのです。」

 

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