礼拝めっせーじ
礼拝説教10/14|礼拝メッセージ集2001礼拝メッセージ集2000聖日礼拝


礼拝説教 2001-10-14『ハレルヤと叫べ』(黙示録19章1-10節)

 

黙示録の
17章、18章において、世の終わりの時に多くの人々の心を捕らえて、神に反抗するようにさせるサタンの姿が「バビロン」という名前で呼ばれています。神に逆らうサタンはあらゆることを行って、私たちが神様を礼拝しないで、神よりも他のものを大事に考えて生きるようにさせるのです。このバビロンというのは町の名前ですが、その起源は創世記に出てくる「バベルの塔」です。バベルと言う名前はもともと「神の門」という意味でした。その頃、人々は石の代わりにレンガを作ることを覚え、アスファルトを手に入れました。文明が発達して人々は賢くなりました。そこで人々は「塔を建てて、その頂を天まで届かせよう。」彼らは自分の能力を誇り、世界を自分たちの自由に使えるようにしようと考えました。人々がしていることを見た神様は、すべての人々が同じ言葉を話していることが悪をもたらしていると考えて、超自然的な力で、神様は突然人々がばらばらの言葉を話すようにしました。バベルは「混乱」を意味する名前に変わったのです。

17章では
バビロンが

「大淫婦(だいいんぷ)」という姿で描かれています。「淫婦」というのは売春をする不道徳な女性のことですが、聖書では、比ゆ的に、神に敵対する人や、神を信じると言いながら、他の神々を拝む偶像礼拝をする人々を、「淫婦」と呼ぶことがあります。「淫婦」の反対は「花嫁」です。神様を第一として神様だけを求め、神様の教えや命令に従う人々、その純粋に神を信じる人々は「花嫁」と呼ばれるのですが、他の神々や、自分にとって利益になるものを大事にする人々は、神様以外のものに心を奪われているので「淫婦」と呼ばれるのです。ですから、ここで神に敵対するバビロンとは、宗教の面における混乱を意味していると思われます。バベルの塔の事件で、人々は突然いろいろな言葉を話し出したためにコミュニケーションがとれず、彼らは世界各地へと散らばって行きました。言葉が変わっただけでなく、そこから生まれる文化もさまざまに変化し、また宗教も様々に変わりました。ですから、バベルの塔以後、本当の神以外のものを礼拝する様々な宗教が生まれました。本当の神様に心を向けずに、自分に都合の良い神を拝むようになりました。多くの人々が自分が得をするために信仰を持っています。商売がうまく行くように、作物がたくさん取れるように、自分が幸福になるように、そのようなことを願って人々は神を拝んでいるのです。これは、神様と人間との愛に満ちた交流というよりも、自分の利益のために神を利用しているとしかおもえません。

しかし

宗教面での「バビロン」はそれだけではありません。クリスチャンである私たち、教会も注意が必要です。自分では神のしもべだと思っていても、実際には神様の御心と遠くかけ離れたことをしてしまうことがあります。旧約聖書の時代、イスラエルの人々は神様が使わした預言者を迫害し、最後には、神の御子イエス・キリストを十字架にかけました。彼らは神を熱心に信じていると確信していましたが、実際には、神に反逆していたのです。それと同じように、新約の時代を生きる私たちクリスチャンも気をつけなければなりません。キリスト教の歴史を見ても教会はいつも霊的な危険を経験しています。ローマ帝国が長い間の迫害を止めて、キリスト教を国の宗教とする時が来ます。当時ローマ帝国は非常に大きな国になっていました。様々な民族を含んでいました。そのため、国の宗教としてキリスト教が認められたときに、いろいろな民族の宗教的な習慣や考えや儀式が一緒に混じりこんでしまいました。また、教会が大きくなると色々な階級が作られたりして、人々は神様よりも、聖職者たちを尊敬するようになったのです。教会の中で人々が高い地位を求めるようになりました。また、聖書は、私たちはイエスの十字架と復活を信じる信仰によってのみ罪から救われると教えていますが、信仰だけではだめだという考えが入り込みやすいのです。何か奉仕をするとか、何か修行を積むとか、献金をするとか、聖書の知識を増やすとか、人間が自分の「能力」や自分の「行い」を誇るようになることが多いです。しかし、パウロが言ったように、私たちには「十字架以外に誇りとするものがあってはならないのです。」彼は周りの人から誉められても、また非難されても気にしませんでした。ただキリストの教えに忠実に生きることだけを求めていたのです。私たちは決して自分を誇るべきではありません。どんなに奉仕ができても、どんなに献金をしていても、どんなに聖書を知っていても、誇るべきではありません。それらが私たちを罪から救ったのではないからです。神の御子イエス・キリストが自分の命を捨てて、私たちの身代わりとなって罪の罰を受けて下さったから、私たちの罪は赦されているのです。このように主イエスを信じる信仰以外のものを教える教会があるならば、それもバビロンの一つに数えられてしまいます。ですから、私たちはお互いにへりくだって、お互いにただイエス・キリストによって救われていることを喜び感謝することが大切なのです。

18章に

入るともう一つのバビロンについて書かれています。10節に『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは一瞬のうちに来た。』ここでは、神様の裁きの前に滅ぼされる力ある都バビロンのことが述べられえいます。旧約の時代、バビロンは都市であるだけでなく、大きな帝国でした。世界の経済と政治を支配する国だったのです。黙示録の18章で言われているバビロンとは、霊的なものよりも物質的なものを大事にする人間の欲望のシンボルと言えるのではないでしょうか。第一ヨハネの手紙2章には「すべて世にあるものは、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢」だと言っています。人間の心にはたくさんのものを持ちたいという強い欲望があります。しかし、それが実は悪、罪にいたるのです。ある人がこう言いました。「お金を愛する心が私たちの心の水門を開くのだ。するとその水門から、あたしたちを破滅に陥れる欲望の水が押し寄せてくるのだ。」私たちは何も持たずにこの世界に生まれて来たのです。そして、何一つ持って出ることもできません。富というのは神様の永遠の裁きの時には何の役にも立たないのです。いくらたくさんの服を持っていても、一回に着ることのできる服は一つです。どんなに金持ちでも一回に食べられる量は胃袋の大きさだけです。だから、イエス様は何を食べようか、何を着ようかと思い煩ってはいけないと言われたのです。それらのものが私たちに必要であることは神様も知っておられるのです。神を信じて生きる私たちに神様は必要なものを与えてくださると約束しておられますから、その約束を受け取ることが大切です。ところが、この世界は、もっと多くの金を持ちたい。もっと大きな権力を持ちたい。そのようにいつも、「もっと、もっと」と満足することなく必死になっています。神様のことよりも、自分の生活の豊かさを求める世界、これがこの世なのです。それが強くなりすぎると、他の人が持っているものを奪って自分のものにしたくなります。それが争いを引き起こし、戦争を引き起こすのです。今、私たちが暮らしている世界がまさに「バビロン」なのです。

ヨハネが

神様から幻を与えられて黙示録を書いていた時代、このバビロンはローマ帝国のことを指していました。当時、ローマ帝国は非常に栄えていました。世界で一番強く、世界で一番大きな国でした。すべての道はローマに通じると言われるぐらいでした。ローマは世界の中心で、皇帝は誰も倒すことのできない力を持っていました。ローマ市民は豊かな富を持って、神の前に道徳的に乱れた生活をしていたのです。一方、ヨハネの時代に生きたクリスチャンたちはローマ帝国の激しい迫害を受けていました。人々は捕まえられ、牢獄に入れられたり、ライオンにかみ殺されたりしたのです。この世から見ると、クリスチャンたちがどんなにたくさん集まっても、ローマ帝国の強大な力には何もすることができませんでした。しかし、そのような時に、ヨハネは幻を見ています。御使いが力強い声で叫んで言いました。「倒れた。大バビロンが倒れた。」当時、ローマ帝国は永遠に続きそうに見えるほどに大きな権力を持っていました。しかし人間の力はどんなに強くても、神様と対抗できるはずがありません。今もローマの街に2千年前の皇帝の宮殿が残っています。しかし、残っているのは土台と柱だけのものがほとんどです。2千年前に莫大な金を使って建てた素晴らしい宮殿でした。しかし、今は柱だけなのです。かつての栄光の姿はありません。

神様が、

罪と欲望に満ちたこの世界を裁かれる時が来るのです。ヨハネはそれが確実なことだったので、ずっと将来に起きることにもかかわらず「バビロンは倒れた」と過去形を使っています。この世界は神を無視してきたために完全に混乱し、ついに崩壊してしまいました。私たちの目にどんなに強く、大きく見えるものであっても、神に反対する者がいつまでもたち続けることはできないのです。神が「私は裁く」と言われるとき、必ず裁きの被が来るのです。神の預言の言葉はどんな暗闇でも光のように照り輝いています。そして私たちはこの聖書の預言の言葉を信頼することができます。神を信じない人々に「神様がこの世界の罪を裁く日が来る」と言ってもなかなか信じてもらうことはできません。神様の裁きの時がまだ来ていないので、人々は自分の罪がもたらす結果をまだ経験していません。神の教えを無視して他の人を犠牲にして自分は豊かになっている人もいます。でもそれは、第ニペテロ3章9節に書かれているように、「約束のこと、つまり裁きの時を、遅らせておられるのではありません。あなたがたに忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望ます、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおらえるのです。」しかし、その忍耐が終る時が必ず来ます。聖書は「裁きの時が来る」と繰り返し預言しています。そして神の預言は信頼することができます。これまで、聖書の預言はことごとく成就してきました。人間的に不可能だと思えることも実現してきました。聖書は世の終わりが近いときに、世界中に散らばっていたイスラエルの民が再び約束の国パレスチナに集められると預言していました。イスラエルという国は、イエス様が十字架にかけられた約40年後にローマ帝国に滅ぼされてから1900年間国を失っていました。彼らは世界中にばらばらに散らされました。しかし、不思議な歴史の動きの中でユダヤ人がパレスチナに集まり始め、そこにはロシアでのユダヤ人への迫害やナチスの迫害も加わって、ついに、1948年にイスラエル共和国が誕生しました。そして不思議に戦争にも勝利をしてイスラエルはつぶされることなく今日まで生き残ったのです。100年前の人々は1900年も国を持たなかった民族が再び国を持つことなど絶対に無理だと考えていましたが、確かにイスラエルの民は集められたのです。ですから、私たちは神様の預言の言葉を信頼することができるのです。


19章には
神様の勝利の時が記されています。天において大きな喜びの声が響いています。5節には「すべての、神のしもべたち、小さい者も大きい者も、紙を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」と命令が出されています。ヨハネの時代のクリスチャンたちは信仰をもったために殺されましたが、彼らは苦しみの中で神様を賛美しながら死んで行きました。彼らは知っていたのです。どんなに人間が剣やライオンや火を使って自分たちを殺そうとしても、神に勝つことはできないと彼らは知っていました。そして、神の勝利の時が近づいていると確信していました。ハレルヤは世界共通の言葉です。これは「神様を賛美せよ」という意味の言葉です。私たちはなぜ神様を賛美するのでしょうか。それは、神様の裁きは真実で正しいからです。今の時代は、悪人が栄えています。悪いことをしている人間が罪を責められずに快適に暮らしています。反対に正しく生きていても苦しみを経験する人が多いです。しかし、必ず、神様の公正な裁きが行われる時が来るのです。それは正義が悪に勝利する時であり、真理が偽りに勝利し、愛が憎しみに勝利することが証明されました。それで天では喜びの声が沸きあがっているのです。私たちが将来を考える時、このことは確実なのです。

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