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礼拝めっせーじ
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礼拝説教 2001-07-29『まことの神、永遠のいのち』(1ヨハネ5:18〜21)
当時、広がり始めていた異端に対する警戒を呼びかけたものとされます。ですから、本文16節の「死に至る罪」とは、イエス様を意識的に否定する異端を指していることになります。それは、「マルコの福音書」3章28〜29節でイエス様が語られた聖霊をけがす者と本質的には同じです。
本文21節にある「偶像」とは、手で作られた像などに限らず、人間の頭で考え出された、イエス様を否定する異端の教学なども指します。本文18節に「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きない」とありますが、これは、イエス様を信じることにより、神様との関係が回復され、御国を継ぐものとされた人は、神様の力によって、罪の中に生きないようにされているという意味です。私たちの力で、罪の中に生きないようにしても無理です。自分の力によるとき、うまくいくときは「高慢」、失敗したら「自虐」「落ち込み」しかありません。ですから、私たちは、神様によって、御子イエス・キリストのうちにいるのです。そして、その方こそ、「まことの神、永遠のいのちです」。
私たちが目を注ぐべきところがはっきりしてきます。私たちは、自分の力で努力して、神様に従おうとするのではなく、永遠のいのちの中にいれられたことを感謝し、目をこの世や、自分の力に注ぐのではなく、永遠のいのち、永遠の御国に注ぐべきなのです。 「日本の仏教から知ること」
ある牧師先生から、このごろ、日本のリバイバルのために、しるしや奇跡などが注目されているが、日本の仏教の歴史の中でも、奇跡、いやしなどが、仏教を前進させ、多くの人々を獲得していったという事実はあるか、と問われました。そこで、私もあらためて、よく考えてみました。たしかに、仏教にも、癒しや奇跡などはあります。それらが、人々を引きつけたことも多かったでしょう。しかし、癒しや奇跡が、仏教の伝道(布教)の中心になったことは一度もないのです。あくまでも、布教の中心は、教えでありました。人々は、たとえ奇跡が伴わなくても、その教えによって、信仰をしてきたのです。むしろ、奇跡ばかり説くものには、仏教的異端が多いという事実もあります。
密教は、もともと呪術性が強いので、密教を伝えた空海などの伝記には、奇跡が多いです。しかし、空海自身も、密教の奇跡に力を入れた事実はなく、彼の中心的な働きは、密教の理論化であり、事実、彼が、インド伝来の密教を、初めて、理論的に整えた人となりました。さらに、法然、親鸞などの浄土教にいたっては、かえって、奇跡などを無視する傾向にあります。そして、念仏を唱えて病気の癒しなどを強調するものを、異端として退けた事実さえあるのです。人々は、奇跡をまったく伴わない法然、親鸞の教えによって、信仰を持っていったことになります。なぜなら、奇跡などを体験しても、人は必ず死ぬものであることは明らかであり、奇跡などによって、人は、本当の平安を得られるものではないからです。まさに、浄土教の教えなどは、人々に平安を与えると思われていました。
浄土教ばかりでなく、日本に伝わった仏教、すなわち大乗仏教は、釈迦の死後、500年たったくらいから、ヒンズー教の影響を強く受けて、人々の手によって作り出された仏教です。そのため、釈迦の教えからはかなり違ったものとなっていました。 「明らかにされた真理」
聖書を通して「まことの神」が明らかにされ、真実の平安がもたらさ
をいただいている私たちは、奇跡やしるしが伴わなくても、大胆に、主を証しできます。その証しは、もちろん、言葉によるものもありますが、平安に満ちた生活によって、言葉によらずとも、周りの人々に、イエス様のすばらしさを伝えることができます。
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