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礼拝めっせーじ
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礼拝説教
2001-11-18『新しい天と新しい地』(黙示録21章1-10節) (イントロ)
どのような終わりを迎えるのでしょうか。聖書は「人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」と教えています。黙示録20章11-15節に神を信じないままに、この世で死を迎えた人たちの最後の裁きのことが書かれています。そこは大きな白い御座であるとヨハネは書いています。非常に多くの人々が神を信じることを拒んで死んで行きました。だからそこは大きな裁きの場所になっています。また、御座は白いとあります。それは、裁かれる方がまったく汚れを持たない聖なる方だからです。その方は私たちの主イエス・キリストです。イエス様ご自身がそう言っておられます(マタイ19:28)。イエス・キリストを罪からの救い主だと受け入れなかった人々が裁かれて、永遠の死を体験しなかればならないのです。彼らは、第二の死へ投げ込まれると書かれています。これは神様が人々を投げ込まれるのではありません。主イエスの弟子ペテロが、次のように書いています。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」神様が望んでいることは、すべての人が自分の罪を悔い改めて主イエス・キリストによる救いを受けて、永遠のいのちを持つことです。しかし、多くの人は神様の前に自分の罪を認めて、新しい人生を生きようとしません。そのような生き方を嫌がるのです。十字架にかかる前にイエス様は裏切り者のユダに対して悔い改めるチャンスを与えましたが、彼は、それを拒んでキリストをわずか銀貨20枚をもらう条件で主イエスを裏切りました。そのように多くの人は自分の意思で神を信じようとしません。ですから、そのような人々は自分で、自分の意思で第二の死を選び取ったのです。 (1)新しい天は神の民が住む所である
第二の死が宣告されました。この世界のすべての悪が滅ぼされました。そしていよいよ、神様の最後の働きが始まります。神を信じる人々のために神様が新しい天と新しい地を創られたのです。以前の状態はすべて消え去って、すべてが新しくなったのです。この世界を去る時、私たちはあたらしい世界にはいることになります。以前のことはすべて消え去ってしまうのです。この世界でどれほど成功しても、新しい世界に移されるとき、その成功はまったく意味を持ちません。黙示録21章3節は新しい天について次のように述べています。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」新しい天について最も大切なことは、そこに神様ご自身がおられて、ご自分の民とともに住んでくださるということです。私たちの神は、インマヌエルの神です。私たちとともにおられる神です。今、すでに、神様は目に見えない姿で、私たちとともに生きてくださり、私たちの祈りを聞き、私たちを守り導いてくださいます。しかし、新しい天に私たちが移される時には、もっとはっきりと分かるかたちで私たちとともに住んでくださるのです。
、今は別々の世界に住んでいます。しかし、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて天から下ってきました。キリスト教の信仰はよく結婚に例えられるのですが、その場合、花婿はキリストであり、花嫁はクリスチャンを表します。ちょうど、今週の金曜日に結婚する石黒晴哉兄と土肥尚子姉と同じように、これまで、相手のことを思っていながらも主イエスとクリスチャンは住む場所が違っていました。しかし、結婚によって、夫と花嫁は一つになります。一心同体になって、もはや二人は離れることがありません。イエス・キリストとわたしたちもそれと同じような状態になるのです。
のビジョンを見たヨハネは、その素晴らしさをどのように表現したらよいか分からず、「もはや――がない」という表現を用いて、この地上と新しい天を比較しました。「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」私たちは、この世で、あまりにも多くの悲しみや、苦しみ、叫びを経験します。それはこの地上が人間の悪、人間の罪で満ち溢れているからです。しかし、それらのものが完全に滅ぼされた後、新しい天には、私たちに苦しみや悩みを与えていたものはすべて消え去るのです。神を信じるすべての人々に、この永遠の希望が与えられています。 (2)新しい天に住み人々は満ち足りる
6節で言われました。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」私たちは、いつも何かを求めて生きていると思います。心の中が渇いているのです。もっと楽しいもの、もっと良いもの、もっと豊かなもの、そのようなものを求めて心の渇きをいやそうとします。新しいことをやってみたり、新しい場所で旅行したり、新しいものを買ってみたりします。しかし、のどが渇いた時に飲む水と同じで、一時的に渇きを抑えることはできても、またすぐ渇いてしまいます。私たちは、毎日、この渇きを満たすためにいろいろなことをしているのです。この黙示録を書いたヨハネも恐らく、当時島に流されたクリスチャンが経験したように、鉱山で強制的に働かされたと思います。激しい労働の後に、ヨハネはひどくのどが渇いたことでしょう。その苦しみを彼は経験したのです。しかし、新しい天では、神様がいのちの水の泉から誰にでも、好きなだけ水を与えてくださると約束されています。私たちは、もう二度と心も体も渇いて苦しむことはありません。神様ご自身が満たしてくださるからです。
(3)新しい天に住むのは勝利した人々である
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